ソフトクリームの哀しみ
見上げた空は相変わらず、絵に描いたような晴天だった。
抜けるような青い空には、ぽつぽつといくつかの雲が浮かんでいた。地上から見るとささやかで、こじんまりとして見えたそれらは、近づいてみると思いのほか大きかった。空中に広がった雲は、輪郭がひどくぼんやりとしていて、それはどちらかというと霧や靄に近いものだった。目を凝らしてみると、その向こうに青空の続きを確認できた。薄く広がったそれらは、僕の頭上を曖昧な概念のように、断片的に覆っていた。
僕はなんとなく、存在感の希薄な雲の群れを眺めていた。
あの雲を抜けた先には、幾重にも重なる大気の層が存在している。それらは具体性を欠いたミルフィーユのように、段階的にこちら側とあちら側との境界を形成している。その層を抜け、境界の向こう側へと踏み入れると、あまりにも広大で、あまりにも無感情な宇宙空間が待っている。そこには空気もなければ、水もない。ただ途方もなく、空間だけが延々と広がっている世界。あまりにも大きすぎるため、意味や解釈などという物事は、そこではあっけなく無力化されてしまう。鍋一杯の水に落とした一つまみの砂糖の味を、誰も感じ取ることができないのと同じように。
どこまでも真っ暗で、静寂に包まれた宇宙空間。
僕の想像は、そこでいったんぷつんと途切れた。目の前に広がっていた広大な暗闇は姿を消し、再び曖昧な雲たちが、僕の視界に現れた。のどかで、日曜日的な青空がそこにはあった。
僕は十年前に他界した、母のことを考えた。
母を跳ねたのは、信号を無視して突っ込んできた大型のトラックだったと後から聞いた。その運転手が、夜明け前からの長距離運転によって疲弊し、運転席で居眠りをしていたということも。
その事件によって母は、あっさりこの世からいなくなってしまった。肉体が損傷を受け、それによって精神が完全に消滅した。そして傷を負って残った肉体も、その三日後にはほんの数キロの灰になり、煙に乗ってどこか遠くへ行ってしまった。たった一つの事件によって、母の精神も、肉体も、全てがこの世からきれいさっぱり失われてしまった。人間というものは、僕たちが普段思っているよりもずっと、簡単に消えてしまうものなのだ。煌々と燃えている一抹の炎が、ふとした風にあおられて、あっけなく消えてしまうみたいに。
死ぬというのは、どういうことなのだろうか。
それは存在の、完全な消滅なのかもしれない。死んでしまった生き物は、時間の中で風化するように、少しずつその存在を消してしまう。初めは精神、次に肉体、そして残されたものの記憶に至るまで、確実に。そしてやがては世の中が、その生き物の存在など、初めからなかったかのように動き出す。そういう絶対的で、何の余地も残らない消滅が「死」なのだろうか。
あるいは。僕は今迷い込んでいる、不思議な世界に思いを馳せた。
「死」とは要するに、今いる世界から別の世界への、不可逆的な移動なのではないだろうか。
もともと生きていた世界において、ある一定の基準をクリアすると、異なる世界への片道切符が手渡される。それらの生き物は、僕がこの世界に連れてこられた時のように、不可避的にそちらの世界へと移動させられる。そして元いた世界からは、持ち主を失った様々な残滓が、時とともに静かに、失われていく。もしかすると「死」とは、そういう一種の引っ越しのようなものではないのだろうか。
「死後の世界」という言葉がある。昔から耳にしてきたその言葉が、今では少し違ったニュアンスでもって、僕の頭に浮かんでいた。
頭上の雲を抜けた先には、広大な宇宙空間ではなく、死者たちの楽園が存在するのかもしれない。そこは暗闇ではなく、あくまで真っ白な光に溢れている。その光の中で死者たちが、酒を飲み、料理を食べて、他愛もないおしゃべりをしている。あるいはそこで彼らは、枯れることのない桜を眺めているのかもしれない。
一瞬、桜を眺める母の笑顔が、脳裏にフラッシュバックした。それは真夜中にきらめく流星のように眩しく、僕の思考をくらませた。
まるで霧が晴れるみたいに、僕は現実に引き戻された。そこにはやはり雲があって、空があった。雲は変わらず白かったし、空も相変わらず青かった。少し冷たい風が、機械的に吹き過ぎていった。僕が宙に浮いていることを別にすれば、普段と何の変りもない光景だった。
僕は上を見上げたまま、軽く微笑みを作ってみた。それは自分自身に言い聞かせるための、便宜的な微笑みだった。この世には、考えても仕方のないことというのが確かにあるんだ。そんな物事と付き合うのは、想像力の無益な、時としては危険な浪費になりかねないぞ、と。
ヒュッ、と、何かが二つ、僕の視界を横切った。
それらは小さめの鳥のようにも、大きめの虫のようにも見えた。細長い形をしていて、どうやら先端はとがっているようだった。その二つの物体は滑らかに空中を滑りながら、一度遠くへ飛び去っていき、すぐにまた引き返してきた。
「待てー!」
「待たなーい!」
戻ってきた物体から、声が聞こえた。スーパーボールのように明るく弾んだその声は、おとぎ話から直接切り出し、再生したみたいに聞こえた。
近づいてきたそれらを、目を凝らして、注意深く眺めた。
それらは日常でよく見かける、シンプルなソフトクリームだった。二つとも、綺麗な渦巻型をしており、それはあたかも精巧に作られた食品サンプルのように見えた。しかし二つは間違いなく、本物のソフトクリームだった。そのことはコーンの先から溶けて滴る、雫を見れば明らかだった。雫は日の光を反射して、汗のようにさわやかに光った。
先に走っている方は日に焼けたような焦げ茶色で、後から来た方はマシュマロみたいな白色だった。おそらく前者がチョコレート味、後者がバニラ味なのだろう。ほうじ茶味と塩味、などという可能性もないではないが、そんな奇抜な味であるにはあまりにも、二つのソフトクリームは典型的、標準的であるように見えた。まるでソフトクリームの概念をそのまま形にしたようなそれらには、一般的な味が一番似合っていた。
二つが楽し気に僕の頭上を通り過ぎると、頬に雫がポトリと落ちた。触れてみるとそれは、あっという間に蒸発してしまい、かすかなべたつきだけが指先に残った。子供のころの些細な喧嘩の記憶のような、そんな感じのべたつきだった。
「あっ!」
小さな叫び声が聞こえたかと思うと、前を滑っていた茶色のほうが、何かにつまずいたようにぽてっ、と転んだ。
僕の見る限り空中には、たいていの空中がそうであるように、つまずくような要素は何もなかった。そこにあるのは空間だけで、段差が浮いている訳でもなければ、穴が開いていることもなかった。しかしそのソフトクリームは、まるでそれが当然のことであるかのように、鮮やかに転んで見せた。コーンからアイスが落ちるのではと思ったが、その心配は杞憂だった。アイスは事も無げに重力を無視し(あるいは、重力のほうがアイスに遠慮したのかもしれない)、全体が転んだ反動でわずかにひしゃげただけだった。一瞬、喜劇的な静寂が降りた。
「びぇぇぇぇぇぇん‼」
茶色のソフトクリームは、大きな声で泣き始めた。それは実に清々しい泣き方だった。あまりに大きな声で泣いているので、途中から泣くことそのものに、おかしみを見出しているようにさえ見えた。
「大丈夫!?」
白いほうが慌てて駆け寄り、心配そうに寄り添った。「よしよし、痛くない痛くない」と言いながら、しきりに全身を揺らしている。頭をなでることも、患部をさすることもできないアイスにとっては、あやすというのはどうやら難しい作業であるみたいだった。
僕は空気の階段を登り、二つのソフトクリームに近づいた。
白いほうが先に、僕に気づいたみたいだった。ピコン、と、何かを感知したみたいに動きを止めて、それからくるりと体を回転させた。
「あら」
彼女(おそらく、女の子なのだと思う)は僕を見つけて、無感動にそう言った。その声には必要な分よりも、やや多めの無感動さが含まれていた。茶色のほうがぴたりと泣き止み、白と同じようにくるりと回転してみせた。どうやらソフトクリームにも、正面というものはあるらしい。
「君たちは」
少しだけ鋭い風が、僕たちの間を吹き過ぎていった。茶色がわずかに、白の影に隠れるように身を寄せた。
「ソフトクリーム、でいいのかな」
白が幾分か背筋を伸ばし、僕を(おそらく)正面から見据えた。
「そうよ。あなたなかなか、賢いみたいね」
彼女が話すと、ソフトクリームの先端の部分が、電波を受信したアンテナみたいにピン、と立った。僕は心の中で、彼女にこっそり「バニラ」と名付けた。
「ここで何をしているの?」
バニラはふん、と鼻を鳴らした。
「見たらわかるでしょう。チェスの試合をしているように見える?」
僕は小さく首を振った。
「鬼ごっこをしていたのよ。あなた、鬼ごっこってしたことある?」
「昔、何度か」
小学校のころ、よくクラスみんなで鬼ごっこをした。田舎の小学校だったので、グラウンドは広々としていて、鬼ごっこをするにはおあつらえ向きだった。僕は足が速くはなかったが、大勢でわいわい盛り上がれるその遊びが、嫌いではなかった。
「あれって、わりに楽しいものよ。単純だけど奥が深いし、特別な道具も必要ないし」
「なるほど」
僕は頷いて、なんとなくバニラの目にあたりそうな部分、アイスとコーンの境目あたりに視線を送った。
「チェスをするには、ルールを知らなければならないし、チェス盤も、駒も必要になる」
「そういうこと」
バニラは満足したように、体全体で頷いた。
「お姉ちゃん、この人だれ?」
バニラに寄り添いながら、茶色が言った。不安と好奇心とを、一対一で混ぜ合わせたような声だった。僕は茶色のほうを、「チョコ」と呼ぶことにした。
バニラはくるりと、チョコのほうに体を向けた。
「この人は迷子よ、迷子。あなた、迷子ってわかる?」
「知らない」
「迷子っていうのはね、道に迷っちゃった人のことなの。頭の中の地図がポンコツだから、次に行く場所がわからない人。世の中にはね、そういう人が一定の数だけいるものなのよ」
僕は思わず笑ってしまった。バニラの放った「迷子」という言葉は、不思議と今の僕の心にしっくりなじんで、そのことがまたおかしかった。
「ふうん」
チョコは事務的に、相槌を打った。実にあっさりした相槌だった。
「君たちは、兄弟なの?」
僕が尋ねると、バニラは律義にもう一度、僕のほうに体を向けた。僕はさりげなく、バニラとチョコの中間あたりに移動した。
「そうよ、私が姉で、」
バニラはコーンの、とがった先端の部分でチョコを指した。
「こっちが弟」
チョコはどうやら、男の子であるらしい。
僕はきちんと並んだ二つのソフトクリームを、あらためてじっくりと見比べてみた。
先のとがったタイプのコーンに、綺麗に巻かれたアイスクリームが乗っている。二つ並んでみると、それらは本当に、ソフトクリームの理想的なお手本のように見えた。典型的なバニラ味と、典型的なチョコレート味。デパートのショーケースに、値札とともに陳列されていたとしても、何の疑問も抱かなかっただろう。二つとも形も大きさもほとんど同じで、違いと言えばアイスのフレーバーと、溶け具合のわずかな差くらいだった。僕らが話している間にも、二つのアイスは根元の部分から徐々に溶けだし、コーンの先端からぽたぽたと、小さな雫を滴らせていた。
チョコがそわそわと体を動かした。
「お姉ちゃん、早く続きやろう。僕、退屈して溶けちゃいそうだよ」
「あら、けがはもう痛くないの?」
「痛くない!もう治った」
バニラが小さく、くすっとわらった。道端に生えた小さな花を愛でるような、いたわりを含んだ微笑みだった。
「さっきは、あんなに泣いてたくせに」
言われてチョコが、ソフトクリームの先端をぴんと伸ばした。
「泣いてないもん!全然痛くなかったもん!」
ぴょんぴょんと跳ねながら抗議するチョコに、バニラは先ほどよりも少しだけ、大きな声で笑いかけた。そこに表情というものがあったなら、おそらくとても穏やかな、姉としての顔をしているのだろう。
「はいはい、あなたは強いもんね」
「うん!僕、あんなけが全然平気だよ」
無邪気な声でチョコが言った。バニラは軽く頭をなでるみたいに、チョコの隣に体を寄せた。
「次は僕が鬼だから、お姉ちゃんが逃げてね!」
チョコは今にも駆け出しそうな様子で、忙しなく跳ねたり揺れたりしていた。その様子は、主人が投げるボールを心待ちにする、元気な小型犬を思わせた。
バニラはちょこんと、コーンの先でチョコに触れた。それからくるりと、僕のほうに向きなおった。
「あなたもやりましょ、鬼ごっこ」
「僕も?」
驚いて聞き返すと、バニラは小さく、肩をすくめた。肩というものがないから実際にはわからないけれど、おそらくそんな動作をしたのだと思う。
「迷子さんに出会ったら、遊んであげないといけないって決まってるのよ。恐竜が生きていて、地上で頑張っていた大昔の時代からね」
「恐竜の時代に、迷子なんていたの?」
「迷子の恐竜がいてもおかしくはないでしょう?」
「確かに」
僕は試しに、道に迷った恐竜の子供を想像してみた。うっそうと生い茂った密林の中で、立派な牙と爪をたたえた小さなティラノサウルスが、心もとなげにきょろきょろとあたりを見回している。その光景は、いささかシュールさを含んではいたが、それでも説得力がなくはなかった。少なくとも、空中で鬼ごっこを楽しむ、ソフトクリームの姉弟よりは。
「迷子さん、足速いの?」
チョコが言った。少し考えて、僕は答えた。
「空中を走ったのは初めてだけど、あんまり足に自信はないな」
チョコが自慢げに、胸を張った。胸を張る、という動作は、肩をすくめるというそれよりも幾分かわかりすかった。
「僕は足が速いんだよ!風がビュウって吹くみたいに、速く走れる」
そう言ってチョコは、ぴゅうっと数メートル走っていった。それはどちらかというと、滑る、と言った方が適切な動作だったが、ともかく彼の言う通り、チョコは空中を速く、滑らかに滑った。
チョコは少し遠くで振り返ると、「いくよー!」と大きな声で叫んだ。そして手を振る代わりに、大きく体を揺らして見せた。どうやら今のはデモンストレーションではなくて、鬼ごっこに向けてしかるべき距離を確保していたらしい。「いいわよー!」とバニラが叫び、僕をコーンの先で軽くつついた。まるで遅れている生徒の背中を、効果的に後押しする先生みたいに。そしてチョコのほうを向いて、全身を大きく揺らし返した。
僕は小さく笑って、ため息を一つついてみた。当たり前だけど、そうしたところで状況は全く変わらなかった。相変わらずそこには空と雲があって、チョコとバニラが浮いていて、そして僕は迷子だった。チョコがひゅっと、僕らに向かって走り出した。
チョコと、バニラと、それから僕の、奇妙な鬼ごっこが始まった。
鬼ごっこでは、思いのほか苦戦を強いられることになった。
欅の木に教わってから、僕はある程度空中を移動することに慣れてはいたが、チョコとバニラの動きは僕のそれよりも、幾分か速くて、すばしっこかった。僕が空間に足場を描き、そこを移動しているのに対して、彼らはただ、滑っていた。そこには登ったり、下ったりという概念はなかった。彼らにとっては前後上下左右、全ての方向は等価だった。まるで外の世界から誰かに、コントローラーと十字ボタンで操作されているかのように、彼らは的確に、効率よく空中を動いた。小さな体で機敏に動き、小回りの利く彼らと違って、体が大きいというのも、僕が苦戦した理由の一つだった。
最初の数回はなすすべなく捕まったが、そのうちにだんだん、僕にも逃げるコツがつかめてきた。
彼らがすべての方向に、そつなく移動していくのに対して、僕は上下移動の非対称性を、うまく利用することができた。僕が空中に、トランポリンのように浮かび上がれる足場を描けば、空中はそれに応えてくれたし、下に降りるときには素直に重力に乗ればよかった。僕はトランポリンのほかにも、垂直な壁や鉄棒など、様々な想像上の道具を使ってソフトクリームたちを煙に巻いた。空中の鉄棒を掴んで懸垂の要領で上に行ったり、アクションスターのように壁を蹴って、横向きに加速したりした。バランスを崩したときには、柔らかいマットを用意してそこに落ちた。空間は僕の想像で、自由に組み替えられるアスレチックと化していた。僕はその流動的なフィールドで、ソフトクリーム姉弟とはまた違った方法で、あらゆる方向に飛び回った。
何度かこなしていくうちに、空中に自然に生じた気流や、上空を流れるわずかな風をも、自分の動きに組み入れられるようになった。上昇気流に乗って気球のように飛び上がり、風向きを感じてその通りに逃げた。空中の全てと、僕の想像力とが密接につながり、僕は空間をより一層自由に動いた。そこには統率の取れたオーケストラの演奏のような、心地よい一体感があった。僕はその頃には、チョコやバニラと対等に渡り合っていた。一次元分の可能性が加えられた鬼ごっこは、僕が想像していたよりもずっと楽しく、いつの間にか僕は、二人と一緒に思い切り空中を駆けまわっていた。
何度か鬼を交代して、ゲームを繰り返した。バニラは少しずつ疲労の色を示し始め、チョコは途中で何度も転び、そのたびに涙をこらえていた。二人とも、最初と比べるとスピードが落ち、動きにはキレがなくなっていた。急なターンへの対応が遅れ、逃げ方は単調で、一本調子になっていた。ソフトクリームにも、疲れという概念はあるらしい。
僕も連続の鬼ごっこで、へとへとになりつつあった。通常の肉体的な疲労に加え、長時間想像力を働かせたことによる、精神的な疲れもあった。その上いつの間にか、太陽は天頂近くまで登っており、そこから発せられる射貫くような、鋭い日差しが僕の疲労に拍車をかけた。
「ちょっと、休憩にしよう」
十回目の試合が終わった時、僕はたまりかねて二人に言った。僕はもう限界だったし、二人の動きも鈍っていた。休憩をするには頃合いだった。僕は二人が、迷わず頷くものだと思っていた。
しかしバニラとチョコは、お互いに顔を見合わせると、何かを確認するように体を揺らした。そしてバニラが、僕のほうに向きなおって、言った。
「仕方ないわね。迷子さんは抜けていいわ。私とあの子、二人で続きは楽しむから」
「ちょ、ちょっと待って」
次のゲームを始めようとした背中に、僕は慌てて呼びかけた。
「君たちだって、疲れてるだろ?動きは鈍くなってるし、スピードも落ちてる」
「そうね」
バニラは背中を向けたまま、温度のない返事を返した。
「でも、他にやることもないの」
「だからって、今無理することはないだろう?鬼ごっこをするなら、一度休憩してからでもできるわけだし。休憩をしたら、鬼ごっこをしてはいけないなんて法律はないんだ。それに、ほら」
僕はバニラの体、それにコーンの先端に視線を送った。バニラも、チョコも、春の昼間に駆け回っていたせいで、体はドロドロに溶けてしまっていた。当初のいかにもソフトクリーム的な形状は見る影もなく、コーンの上には、輪郭のぼやけたカタツムリのような丸いアイスがあるだけだった。コーンにアイスが染み込んでしなしなになっており、その先端からは、溶けたアイスがとめどなく滴り落ちていた。
「こんな昼間に、鬼ごっこなんかしていたら、君たちは、溶けてなくなってしまう」
バニラは、少しの間何も言わなかった。ヒュッと冷たい風が吹き抜け、汗をかいていた僕の体を容赦なく冷やした。上空で吹く風は僕には少し寒すぎたが、バニラは不愉快そうに、コーンの先の雫を振り落とした。ソフトクリームにとっては、全ての風は暑すぎるのだ。
「お姉ちゃん、どうしたの?早く続きしよう」
チョコが少し心配そうにバニラに言った。彼の体もほとんど溶けてしまっていたが、それでもその声には不安や、不愉快さは微塵も含まれていなかった。
「ねぇ」
バニラが、チョコに呼び掛けた。そして手招きするように、体を軽く前後に揺らした。
「こっちにおいで。少し、この迷子さんとお話ししましょう」
チョコは一瞬不思議そうに固まったが、すぐに素直に滑ってきた。チョコがバニラの隣に並ぶと、バニラはくるりと反転して、こちらを向いた。
「私と、この子の役割はね」
バニラの声は、平坦だった。
「溶けることなの」
一瞬、流れる雲の加減で、僕らは日陰に包まれた。その陰に連れてこられたみたいに、静寂が宿命的にあたりを満たした。
「私たちは、生まれた時から、溶けるために生きているの。どんなに暑いと思っても、高い山のひんやりとした雪の上に逃げることも、冷蔵庫の中で寝そべっていることもできないの。そんなことをして、硬いアイスのままでいたら、すぐに消えてなくなってしまうから。私たちが溶けるっていうのはこの世界の決まり事だし、それに逆らうことは絶対にできないのよ。いくら迷子でも、それくらいはわかるでしょう?」
淡々と話しているバニラのコーンの先からは、相変わらずぽたぽたと雫が垂れていた。それは何かのメッセージを示唆しているみたいに見えたが、僕は意図的にそこから目をそらした。
「でも、それなら、例えば木陰でじっとしていたり、屋根の下でおしゃべりしていることはできるよね?そうすれば避けられないまでも、少しでも溶けるのを遅らせることはできる。たとえゆっくりでも、きちんと溶けてはいるんだから、君たちが消えてしまうこともない。何もこんな、日差しが直接当たる上空で、鬼ごっこをして駆け回っている必要はないんだ」
雲が風に流され、再び遮るもののない日差しが、僕らの頭上に降り注いだ。冬の間に精力を蓄えていた春の日差しは、人間の僕でさえもやや眩しすぎるくらいだった。
バニラがちらりと、チョコのほうに視線を送った。
「この子がね。鬼ごっこが大好きなの」
チョコはじっと黙って、僕らの話を聞いていた。ソフトクリームには表情がないから、その感情を読み取ることは難しかった。
「私たちはアイスだから、できることってものすごく限られてるのよ。さっきチェスの話をしたけど、そういうゲームをするのはソフトクリームには現実的に難しいし、時間もかかる。その間にも私たちは、どんどん溶けて小さくなるのよ。何かをしようと思って、じっくりと準備しているうちに、いつの間にか自分の体がなくなってしまう。そんな気持ちって、あなたに想像できる?」
僕は首を振った。当たり前だけど、僕は溶けてしまったことも、体が小さくなったこともなかった。そういう物事は完全に、僕の想像力の枠の外側に存在していた。
「溶けるっていうのはね、焦りなのよ。あなたにも分かるように説明すると」
バニラの喋り方はやはり、淡々としていた。その口調は、天気の話でもしているかのようにあっさりしていて、どこか事務的ですらあった。
「ずっと、消えることのない焦りが体をびっしりと覆っているの。息苦しい空気みたいに、どこにいても、何をしていても、私に纏わりついて離れないのよ。そしてそれは、溶けだした水滴っていう形をとって、私にメッセージを送るのよ。お前には、時間はないんだぞ、って」
小さな、名前のわからない鳥が、僕らの横を通り過ぎた。鳥はちらりとこちらを見たが、すぐに興味を失ったみたいに、また正面を向いて飛び去って行った。
「弟も、そのメッセージを感じているの。世の中のソフトクリームはみんな、そんな焦りと一緒に生きているのよ。それって結構、大変なことよ。ずっとせかせかしていないといけないんだから」
僕は彼らの言う、焦りに包まれた生活を想像してみた。
例えば顔を洗っているときも、近所を散歩しているときも、僕の周りには水にぬれた不快な布のように、焦りがべったりとまとわりついている。僕の体はその焦りに蝕まれるみたいに、徐々に、しかし確実に小さくなっていく。それはゆっくりだが、不可避的な消滅への道筋なのだ。そしてその道のりの中で、時折僕の耳元で何かが囁く。お前には、時間はないんだぞ。
それは確かに大変で、ストレスのかかることに思えた。僕たち人間は普段、自分がいつかは死ぬのだという事実を、意識しないで生きている。それは立ち止まって、冷静に考えれば簡単にわかることなのだけれど、そのことに思いを巡らせながら生活をするのは、多大な恐怖と疲労を伴うことなのだと本能的に知っている。だから僕たちはとりあえず、その事実をいったん意識の棚の上にあげて、そこから目を背けて生きているのだ。ともすれば、棚の上にそんな事実があるという、そのことさえも綺麗に忘れて。
そんな風に気楽に、無神経に生きられるというのは、人間に与えられた大きな特権の一つなのだろう。そしてアイスクリームは、僕らが無意識のうちに意識から消し去っている物事と、常に向き合いながら生きているのだ。もし目の前にずっと死神の姿があって、それが僕の心臓の鼓動をカウントダウンし、絶え間なく死への秒読みを続けているとしたら、果たして僕はまともな生活を送ることができるだろうか。
「どんなにあがいても、頑張っても、私たちはいつか消えてしまうのよ」
バニラは言った。その声は世界のシステムの中の、欠落した部分を埋めるみたいに、空間に穏やかに馴染んでいった。
「だから私たちは、今を楽しまないといけないの。溶けるのは仕方ないことだから、それはそれとして自分たちで、満足した生活を送りたいのよ。それに一番ぴったりくるのは、私も、弟も大好きな鬼ごっこなの。特別な道具も知識もいらなくて、簡単で、姉弟で対等に遊べるたった一つの遊び。あの子はよく転んじゃうし、うまくいかなくて拗ねちゃうことも少なくないけど、でもいつも楽しそうに駆け回っているのよ。あの子と一緒に笑って、全力で遊んで、そうして溶けてなくなってしまうなら、それでいいのよ」
バニラは軽く、微笑むように体を揺らした。
「楽しいことをしながら、夢の中に舞い散るように、ふわっと溶けて消えてしまう。そういうのって、すてきだと思わない?」
バニラの声には、不安のようなものはなかった。軽やかで、明るくて、消滅という概念の持つ陰鬱な重さとは無縁の響きがそこにはあった。それは大雨の後の晴天のように、清々しい光を伴って、僕の心に差し込んできた。
僕はバニラとチョコに、どんな言葉をかければいいのかわからなかった。
今バニラがした話は、僕にはおそらく永遠に、本当の意味では理解することのできない類の話だった。僕は彼女の言ったことを、僕なりに解釈することはできた。彼女の焦りを想像することもできたし、鬼ごっこをする二人の心情を慮ることもできた。でもおそらくそれは、中身の伴わない、あくまで張りぼての想像でしかないものだった。そのような手ごたえのないイメージは、本物に似せて表面だけ形作ったレプリカのように、空虚で頼りないものに思えた。彼女の話を、真に理解するためには、実際に溶けながら鬼ごっこをしてみるしかないのだ。刻々と時を刻む秒針を携えた死神を、ずっと隣に連れながら。
僕は迷っていた。いろいろな考えが、頭の中を慌ただしく駆け巡った。でも僕は二人に向けて、精一杯微笑んでみせた。それがこの場において一番、適切な表情であるように思えた。
「君たちは、これからも鬼ごっこを続けるんだね」
「ええ。もちろん」
「君たちの役割、それと君たち自身のために」
「そうね。そのとおりよ」
柔らかい風が僕らを、ふわりと包んだ。チョコが待ちくたびれたみたいに、そわそわと動いていた。僕はふと、四葉のクローバーを一生懸命探していた幼少期を思い出した。チョコの年齢は、人間でいうとあの頃の僕くらいに当たるのだろうか。
僕はチョコを見て、バニラを見て、二人のコーンの先から滴る雫を見つめた。それからもう一度バニラを見つめ、そして言った。
「僕も、僕の役割を全うすることにするよ。いつまでも、迷子のままじゃいられない」
「あなたの役割?」
バニラが解けたアイスを、わずかに曲げた。どうやら首をかしげたらしい。
「迷子さんにも仕事があるの?」
チョコが無邪気な声でそう言った。その純粋さは僕に、くすぐったさのようなものを感じさせた。
「そう。僕は、四葉のクローバーを探しているんだ」
「へぇ、なるほど」
バニラが納得したみたいに、何度か体全体で頷いた。
「探し物をしている途中で迷子になって、こんなところに飛んできちゃったってわけ」
「まぁ、そんなところかな」
欅に言われたことについては、黙っておくことにした。話すとある程度長くなるし、それにここでは僕は、迷子なのだ。「迷子さん」という呼称が、僕はいつの間にか気に入っていた。
「四葉のクローバーって何?」
チョコがちょこんと、アイスを傾げて聞いてきた。
「四枚の葉っぱが生えたクローバーだよ。クローバーっていうのはかわいらしい小さな草で、普通は葉っぱは三枚しかないんだ」
「ふぅん」
チョコの相槌は相変わらず、シンプルだった。余計な装飾は何一つなく、機能性だけを追求している。
「それって、どんなものなのよ?まさかただの草を探すために、迷子になってるわけじゃないんでしょう?」
バニラが言った。僕は頭上の雲を見上げながら、あの時の紙片に描かれていた四葉のクローバーを思い出した。
「そうだな…」
薄い点線をなぞるみたいに、僕は頭の中のイメージを、ぽつぽつと言葉にしていった。
「さっきも言ったけど、四枚の葉っぱが小さな茎に仲良くくっついている植物なんだ。綺麗な緑色で、普通は同じような三つ葉のクローバーに囲まれている。けど僕が探しているのは、そういう普通の四葉とは、ちょっと違う。それはなんていうか、水の代わりに幸せを吸収して育ったみたいな、特別なものなんだ。希望をちりばめたような空気に包まれていて、なんていうか、きらきらしている」
「きらきらしてる」
バニラが僕の言葉を、味を確認するみたいに繰り返した。
「迷子さん、きらきらを探してるの?」
チョコが(おそらく)首をかしげながら問いかけた。
「そうだね。綺麗に光るかわいい草を探してる」
「僕、それ知ってるよ」
至ってシンプルな口調で、チョコが言った。
「え?」
「きらきらでしょ?見たことあるよ」
心臓が、大きく脈打つのがわかった。一拍分の余白を開けるため、一度つばを飲み込んだ。
「どこで?」
「あっち」
チョコはコーンの先で、コンパスのように地上の一点を指し示した。
そこにあったのは、琵琶湖だった。
市街地や森林に囲まれて、琵琶湖はぽっかりと縦長に口を広げていた。大きすぎるその湖は人々が暮らす空間において、並外れた存在感を放っていた。湖面は様々な青い絵具を無造作に水に溶かしたみたいに、どろりとしたグラデーションを描いていた。あまりに広すぎるので、それは湖というよりかは、何かの都合で陸地の真ん中にやってきた海の一部みたいに見えた。
「あそこに、そのきらきらがあったの?」
琵琶湖を指さしながらチョコに聞いた。
「うん。見てて」
チョコはそう言って、体の正面を湖面に向けた。
僕もチョコに倣って、様々な青が共存する湖面をじっと見つめた。青は濃く、冷たく、そして深く、長い間見つめていると、そこに吸い込まれそうな気持になった。
ふと、琵琶湖の中心あたりで、何かが鋭くきらりと光った。
その光はフラッシュのように一瞬だけきらめき、すぐに姿を消してしまった。あとにはまた、多様な濃淡の青が混在する水面が静かに横たわっているだけだった。しかしその瞬間的な輝きは、まるでストロボ写真のように僕の網膜にしっかりと焼き付いていた。
その光が、四葉のクローバーの放ったものだという確信はなかった。光が消えてしまった今、僕が感じることのできるのは、後に残された滲むような余韻だけだった。しかし僕の脳裏に明確に残ったその輝きには、僕の心を惹きつける何かがあった。それは懐かしい遠い昔の記憶のように、僕をしっかりととらえて、離さなかった。
僕はおそらく、あの場所に行かなくてはならない。
僕は振り返って、チョコとバニラをしっかりと見つめた。
「そろそろお別れみたいだ」
バニラは幾分かつまらなさそうに、軽く体を揺らしてみせた。
「もう、迷子の時間は終わりなのね」
「そうだね。僕の頭の中には、今ではきちんとした地図がある。多少ぼんやりしてはいるけれど、少なくともポンコツではない地図が。とりあえずはこれに従っておくことにするよ」
僕は精一杯の敬意をこめて、二つのソフトクリームに笑いかけた。
「君たちのおかげで、地図が見つかった」
バニラは何も言わずに、軽くふん、と鼻を鳴らした。
「迷子さん、行っちゃうの?」
チョコが退屈そうに、そして少しだけ寂しそうにそう言った。
「うん。僕はあの、きらきらを探さなくちゃいけないんだ」
「ふぅん」
それ以上、チョコは何も言わなかった。少しだけ冷たい風が吹き過ぎ、しかるべき沈黙があたりを包んだ。
「またね」
それだけ言って、歩き出そうかと思ったが、ふと思い出して付け加えた。
「遊んでくれてありがとう」
「どういたしまして!」
大きな声で、チョコが言った。バニラがふふっと笑って、それから言った。
「また遊んであげるわよ。あなたの鬼ごっこのセンス、悪くないわよ」
伝えたい言葉がいくつか浮かんだが、そのどれもが適切ではないような気がした。それらの感情をなるだけ込めて、僕は小さな微笑みを作って、彼らに返した。
僕は軽く手を振って、それから待ち合わせていた重力に乗った。背中に二人の視線を感じたが、振り返る必要はなかった。
いくつかの雲と、二つのソフトクリームが浮かぶ空の世界から、僕は少しずつ、確実に、遠ざかっていった。
空中を蹴りながら、僕は琵琶湖の中心を目指して下降した。
眼下に見える市街地には、やはり人間の営みは確認できなかった。そこには家があったが、明かりはなかった。道路があったが、車はなかった。向こうの世界を精巧に再現してから、強引に人間だけを抜き取ったみたいな違和感が、そこにはあった。
僕は人間のことを考えるかわりに、バニラとチョコのことを考えた。
彼らはおそらく、僕がいなくなってすぐに、また鬼ごっこを始めたのだろう。多分チョコが鬼で、バニラが逃げる役だ。チョコは鬼が好きだけど、また追いかけている途中で転んで、涙をこらえているのだろう。それをバニラが辛抱強く、体をゆすって慰める。チョコと接しているときのバニラは、あの小さな体できちんと、姉としての矜持を持っていた。
彼らはおそらく、アイスクリームとしての生を全うするのだろう。全力で鬼ごっこを楽しんで、そして全力で、その体を溶かしていくのだ。そして自分たちの生き方に心から満足して、この世界からふわりと姿を消すのだろう。
多分もう二度と、僕と会うこともないままに。
そう思うと、何とも言えない寂しさが隙間なく僕の体を覆った。
彼らが溶けなければいけないということは、僕も十分理解していた。この世界では、メアの定めた役割が唯一にして不可侵の法なのだ。それを犯したらその存在は、小さな無数の光の粉となり、さらさらと空中に零れるように消えてしまう。今さらそこに異議を唱えるつもりも、彼らに与えられた役割の救いのなさを嘆くつもりも、僕にはなかった。ただ、寂しかっただけだ。
ぐんぐん近づいていた水面が、いつの間にか目の前に迫っていた。近づくにつれ青の濃淡はより深く、濃くなっていき、それはあたかも暗く静かな夢の中へと続く入り口のように見えた。水面に到達する直前、琵琶湖の奥深くでもう一度、先ほどの光がきらりと鋭く閃いた。僕は確信をもって、迷いなく水に飛び込んだ。
水中を泳ぐことは、この世界においてはさして難しいことではなかった。
要領は基本的に、空中を歩く時と変わらなかった。水に対して心の壁を取り払い、水中に自然に存在している自分を具体的に思い浮かべる。そうすることで、周囲の水がそれに応えて、僕のための親密な領域を作ってくれる。そこでは僕は、溺れることはない。魚のようにえらを使って呼吸することはできないけれど、水を吸い込んで窒息してしまうこともない。そこにおいて僕は、前提として、存在し続けることができる。母のおなかの羊水の中で、根源的な安心に包まれている胎児のように。僕が水に対して心を開く。水も、僕に対して心を開く。そこにナチュラルな調和が生じる。シンプルな話だ。
僕は体全体の力を抜いて、一定のスピードで降りていった。下に行くにつれて、水中へ届く光は徐々に希薄になり、どんどん暗さが増していった。そこは夢を伴う浅い眠りから、夢を見ない深い眠りへと移行する、その過渡段階のような空間だった。明かりは徐々に失われ、暗闇がどこからともなくやってきて僕の意識を満たしていく。僕は時折眼下で輝く、一筋の鮮やかな光だけを頼りに、淡々と下へ下へと沈んでいった。
やがて明かりはほとんどなくなり、あたりは静かで確実な暗闇に覆われた。
そこでは僕は、完全な孤独だった。
僕を包んでいたのは、隙間のない、ぴったりとした暗闇だった。そこには妥協はなく、またほかの何かが入り込めるような余地もなかった。その空間に僕は、本当の意味で一人ぼっちで浮かんでいた。
それは僕が今まで感じたどのような孤独よりも、より洗練された、より純度の高い孤独だった。僕はその孤独の中で、寂しさを感じた。心細さを感じた。それらの感情は僕の心に確実に存在し、絶え間なく僕にある種の痛みを与え続けた。
しかしその一方で、僕は何かしら安心や、温かみのようなものを、孤独の中に感じ取ることができた。それは例えるなら、たった一人で広大な大自然を前にした時の、あの圧倒的な感情の奔流に含まれる、懐かしさに似た気持ちに近いものだった。僕はいたって自然に、自分自身を孤独の中に同化させることができた。そこにある悲しみや寂しさすらも、自らの一部として違和感なく受け入れることができた。僕は孤独を受け入れ、孤独も僕を受け入れたのだ。わずかな痛みを伴いながら、僕は限りない安心の中に、自らの体を横たえていた。
暗闇の中で、孤独に浸りながら僕の意識は、とりとめもなくさまよっていた。
それはまさに、夢を見ているみたいな感覚だった。いくつもの映像がコマ送りの映画のように、次々と浮かんでは消えていった。四葉のクローバーが現れ、母の笑顔が見え、父の瞳が思い出された。まるで誰かが、勝手に僕の記憶のアルバムをあさって、そこから無造作に写真を引っ張り出しているかのような感覚だった。僕は流れていく画像を見ながら、ぼんやりと懐かしんだり、喜んだり、悲しんだりしていた。それらの映像は僕の心を、小刻みに、連続的に揺らし続けた。
やがてある画像が浮かんだとき、鈍器に殴られたような鈍く、重い痛みが僕を襲った。意識はその痛みによってわずかに覚醒し、その画像はしっかりと目に焼き付いて、僕の脳裏から離れなかった。そしてその映像はゆっくりと、解像度を増し、音声が付与され、記憶としての明確さを取り戻していった。記憶がより鮮明によみがえってくるにつれ、心の痛みもより重く、より痛烈なものになっていった。僕は暗闇の中で、その痛みに耐えようと強く、目を閉じた。
三年前、僕が高校二年の時の、母の命日。
あの日は、激しい雨が降っていた。




