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四葉のクローバー  作者: とある貝
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並木家の喪失

僕の母、並木京子は、桜の好きな女性だった。

毎年春になると、母は家族全員で花見へ行く計画を立てた。父はエンジニア関係の会社に勤めていて、母はデザイナーをしていたから、年度初めの桜の時期は、二人とも決して暇ではなかった。父は夜遅くまで帰ってこないことが多かったし、母はいつも、家の中でも図面を引いたり、色鮮やかな布を裁断したりしていた。

しかしどれだけ忙しくても、両親は毎年必ず一日だけ、家族四人で花見に行く時間を作り出した。母は入念に天気予報をチェックし、何日も父と相談して休暇を合わせた。時にはどうしても父の予定が合わないことがあったが、それでも母は時間やスケジュールを調整し、わずかな隙間を縫うようにして日程を組んだ。普段は温厚で、のんびりとした母だったが、この点に関して妥協を許したことは一度もなかった。

当日は朝早くから、母が華やかなおにぎりや総菜などを用意し、父が眠い目をこすって車を出した。そして父の愛車のカローラで、近所の公園や少し遠くの観光名所など、様々な場所へ出向いて行った。早起きに慣れていない僕と妹の香代は、いつも後部座席で二人そろって眠ってしまい、車が目的の場所に着くと、母に笑って起こされた。そうして家族全員で、おいしいご飯を食べながら、桜を見た。

「桜が大切なわけじゃないのよ」

ある年母は、なぜ毎年花見をするのか尋ねた僕に、そう話した。その年はどうしても予定が合わず、家から徒歩で二分ほどの桜のある公園で、四人で夜桜を眺めていた。こぢんまりとした昔風の公園には、時の流れに忘れ去られたような、寂しげな滑り台が一つだけ置かれていた。桜も二、三本植えられている程度で、僕たち家族のほかには、花見客は誰一人見あたらなかった。消えかけた街灯と月明かりのほかに照明はなく、公園は全体的に、薄暗かった。一見して、花見を目的として作られた場所ではないことは確かだった。

初春の夜はまだ肌寒く、僕はウィンドブレーカーを羽織り、その上毛布にくるまって、暖かいココアを飲んでいた。僕の隣では厚手のコートを羽織った父が、桜を見ながら金色の杯を傾けていた。ふかふかのオーバーに身を包んだ香代が、母の膝を枕にして、穏やかな寝息を立てていた。

母は眠ってしまった香代の頭をなでながら、静かな声で話し続けた。

「毎年こんな風に家族がそろって、みんなで一緒においしいものを食べながら、綺麗なものを見て笑うことが大事なの。きちんと咲いた桜があって、今年もそこに並木家が、誰一人欠けずに揃うことができたんだっていう、その事実が。それで辛いこととか、大変なことはとりあえず棚に上げちゃって、華やかな桜に包まれて、楽しい時間を全員で過ごすの。お母さんは敬太と、香代と、お父さんと、一緒に話しておいしいもの食べて、笑っていられるこの時間があるから、去年一年を頑張れたし、今年もまた頑張ろうって思うんだよ」

笑って話す母の姿は、淡い街灯に照らし出され、白いベールに包まれたように柔らかく浮かび上がっていた。陶器のように白い肌と、滑らかに風になびく綺麗な黒髪は、丁寧に磨かれた水晶のような、透き通った美しさを感じさせた。香代の髪をなでるほっそりとした白い腕、時折父の杯にきらりと光る金色の光、そしてその背後で音もなく舞い散る、鮮やかな桜。すべての景色が、どこまでも満ち足りていて、幸福だった。閑散とした、雨に打たれる枯れ木のようなわびしい公園内にあって、僕達家族のいる空間だけが、華やかな世界を形作っているような気がした。そこではすべてが調和を保ったまま機能していて、その中にいると僕は、静かな海の底で親密な海水に包まれているような、根源的な安心感を感じることができた。

「香代、寝ちゃったよ」

母の膝枕で、気持ちよさそうに寝息を立てる妹を見ながら、僕は言った。この優しさに溢れた空間に、ひびが入ってしまわないよう、慎重に。母は慈しむような笑みを浮かべて、香代の小さな肩を、そっと抱いた。父は相変わらず、満足そうに一人杯を傾けていた。その背後では桜が、季節外れの雪のように、しんしんと絶え間なく降り続けていた。

この瞬間の並木家は、ただ純粋な幸福によって満たされていた。それはまさに、四枚の葉が完璧なバランスで生え揃った、四葉のクローバーのようだった。


並木家の調和が崩れたのは、今から十年前、僕が小学4年生への進級を控えた春だった。

その日僕は、僕の所属する3年B組の教室で、給食のカレーを食べていた。教室内には季節の変わり目に特有の、期待と好奇心の入り混じったざわめきが満ちていた。忙しないおしゃべりの中から、たまに怒声や、大きな笑い声が聞こえた。何人かの児童が、目まぐるしく教室内を走り回った。

僕は甘すぎるカレーに辟易しながら、事務的にスプーンを動かしていた。隣の女の子が牛乳を欲しがったので、未開封のパックごと渡した。彼女は嬉しそうに礼を言い、慣れた手つきで紙パックを開き、そのまま大胆に飲み始めた。

突然、教室の前のドアが勢い良く開いた。見ると担任の松井先生が真っ青な顔で、息を切らして立っていた。その目は忙しなく、教室中を見渡していた。

「並木君!並木君は!?」

悲鳴のような声が空間を裂いた。普段は朗らかで、めったに声を荒げない先生の叫びは、教室の空気を一瞬で、非常事態のそれへと変えた。先ほどまでのざわめきは幻のように姿を消し、静寂が教室を支配した。騒いでいた何人かが、静まり返った教室で茫然と、前方のドアを見て固まっていた。

僕はただならぬ予感とともに、先生の方を振り返った。何かしら不穏なものを感じながらも、自分がこの非常事態の、その渦中にいるということに、まだわずかに実感が追い付いていなかった。そこにはもしかすると、そうでなければいいという、潜在的な拒絶があったのかもしれない。

しかし目が合った先生の、今にも泣きそうな表情を見た時、まるで夢から覚めたように、現実がくっきりと輪郭を帯びた。そして絶望の前触れとでもいうべき、凍り付くような感情が、僕の全ての動きを止めた。

「お母さんが…!!」

ガタッ、と、物騒な音が教室に響いた。

それが椅子が倒れた音で、僕が立ち上がった拍子に起こったものだと気づくまでに、数秒かかった。そして気づいたときにはもう、松井先生に手を引かれて、全力で教室を駆けだしていた。

階段を降り、廊下を駆け抜け、昇降口で靴を履き替え、駐車場へとたどり着いた。靴の踵を踏んでいたので、先生の車にたどり着くまでに何度か、転びかけた。先生は慌ただしく車の鍵を開けると、僕を助手席に座らせ、自分は運転席に乗り込んだ。

助手席で僕は、恐怖や不安、焦りなどをない混ぜにした、どろりとした感情に苛まれていた。それはじわじわと僕の体を侵食していき、やがて全身をくまなく覆った。首筋に悪寒の伴う汗をかき、動悸は徐々に激しくなった。様々な想像が、不幸を運ぶ列車のように、頭に浮かんでは消えていった。

「ベルトを締めて」という声が、どこか遠くで反響した。エンジン音が聞こえて、車が動き出す。流れ始めた景色は、出来損ないの絵画のように平べったかった。

「並木君、シートベルト」

もう一度先生に言われ、初めてそれが自分に向けた、意味のある音声だったと気づいた。現実感の伴わないまま、ベルトを締める。カチッ、と、間の抜けた音が鳴った。

松井先生は、何も言わずに一心に車を走らせた。

車内には、重苦しい沈黙だけが満ちていた。その象徴的な、絶望の交響曲の前奏のような静寂は、僕の不安をより一層加速させた。空気が重みを増していき、息をするのが苦しかった。叫び出しそうな気持ちをやっとこらえ、押し込むように唾をのんだ。

十分ほど走って、総合病院の赤い十字マークが目に入った。

空いたスペースに乱暴に駐車し、ドアを開ける。僕も先生も、瞬時に入り口に向かって走り出した。

自動ドアをくぐり、まっすぐ受付へ向かう。入り口で知らないおじさんにぶつかったが、何も言わずに通り抜けた。

「すみません、並木京子さんは…」

震える声で、先生が言った。

「並木京子さん…?」

窓口の女性は、緩慢な手つきで書類をめくった。その動作が、もどかしかった。

「救急搬送されているはずです。交通事故で」

交通事故。

僕はこの瞬間初めて、母の身に何が起きたかを知った。その言葉は僕の、漠然とした不安に輪郭を与え、より具体的な恐怖をもたらした。絶望的な想像は解像度を増し、僕の脳内を一瞬にして埋め尽くした。どす黒い感情が心の中で激しく渦巻き、やがてめまいにも似た感覚が僕を襲った。意識が遠のき、文字通り、目の前が真っ暗になった。絶望の色は黒色なのだと、この時知った。

よろめきながらもなんとか、飛びかけた意識が戻ってきた。そこにかろうじて女性の言った、「集中治療室」という言葉が聞こえた。

僕は先生に手を引かれ、病院内を歩きだした。「事故」という言葉を耳にしたときから、僕の手はずっと、震えていた。薄暗い照明や、真っ白な扉、目に入るもの全てが、不吉な出来事の象徴に見えた。平穏な日常が、音を立てて崩れていく、その音がありありと聞こえた気がした。

僕は今朝の、母の姿を思い出した。

寝起きの悪い僕と香代を、少しだけむくれながら起こしてくれた。三人で揃って朝食を食べ、色々と他愛のない話をした。確か学校の話や、母の仕事の話だった気がする。詳しい内容を思い出そうとしたが、それはまるで煙のように僕の記憶の奥底に紛れ、思い出すことはできなかった。いつもと変わらない朝を過ごして、母はいつもと変わらない笑顔で、僕たちを送り出してくれた。

一つの記憶がよみがえると、まるでそれに引き寄せられるかのように、母との記憶が次々に浮かんできた。

家で楽しそうに新しい商品のデザインを考えていた母。僕が渡した四葉のクローバーを、嬉しそうに受け取ってくれた母。「桜がきれい」と、笑う母。

日常過ぎて、母の存在を疑ったこともなかった。生きている人間が大抵の時間、死の恐怖を意識しないのと同じように、僕も母がいなくなる可能性というものを、全く意識せずに生活してきた。それを無視して生きることができるというのが、僕にとっての最低の、日常の条件だったと思う。

それなのに今その現実が、最も目をそらしていたい可能性が、いきなり僕の目の前に出現している。

不吉な想像を振り払おうと、首を振った。けれどそれは、走っても走っても振り切れない影のように、僕の脳内に纏わりついて、離れなかった。鼻の頭が熱くなり、涙が溢れそうになった。僕は必死に、唇をかんだ。

廊下を進んでいくと、聞き覚えのある泣き声が、前方から響いてきた。

前を見ると、壁に沿った待合用のソファに、父が香代を抱いて座っていた。香代は父の腕の中で、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。父は香代を抱きながら、眉間にしわを寄せ、目を閉じていた。反対側の壁の、「治療中」の赤いランプが、煌々と空間を染めていた。

「並木さん」

先生が声をかけると、父はうっすらと目を開け、こちらを見た。そして軽く先生に会釈し、それからまっすぐに、僕の目を見た。その視線にはしっかりと根を下ろした大木のような、芯の通った強さがあった。

「来い」

父が一言、そう言った。

僕は壁際に歩み寄り、父の隣に座った。父は片手で香代を抱き、もう片方の手を伸ばして、僕の手を力強く握った。父の手は思いのほか大きく、温かかった。そして父は、僕の手をしっかりと握ったまま、祈るように目を閉じた。

僕はありったけの力を込めて、父の手をぎゅっと握り返した。その手のひらの大きさや強さ、あるいは父の存在そのものに、全力ですがった。すると先ほどまでの手の震えは、魔法のように、消えてくれた。父の手を通して、温かい何かが僕の体に、じわりと広がるのを感じた。その何かは僕の体を、不安と恐怖で凍りかけていた心の芯を、優しく、着実に解いていった。それは僕が、絶望の中で唯一感じた、希望を伴う感情だった。

僕は父と同じように、目を閉じた。そうして本当に心から、母の無事だけを、ひたすらに祈った。


どれくらいの時間が経っただろうか。

目を開けると松井先生の姿はなく、父が香代を抱いて、先ほどと同じように目を閉じていた。父の腕の中では香代が、泣き疲れたらしく静かな寝息を立てていた。僕はもう一度、父の手を強く握り返した。そこにきちんと父がいることを、確かめるように。そして赤く輝く、「治療中」のランプを見つめた。

パッ、と、目の前の赤い灯が消えた。

ドアが開けられ、中から白衣姿の、やや老齢の男性が出てきた。白衣には何か所も赤い染みがついており、それが弱い蛍光灯を反射して、不気味な光を放っていた。

父が、はじかれたように立ち上がった。その視線は迷いなく、老医師の瞳に向かっていた。香代が腕の中で、驚いたように目を開け、あたりを見渡した。僕は父の隣で、限りない不安と、わずかな希望と、困惑と、恐怖と、様々な感情をごちゃごちゃのまま抱えながら、棒立ちになって固まっていた。

沈黙が、廊下に降りた。

老医師が、そっと目を伏せた。それは目を覆いたい何かに、一枚の布をかぶせるような、そんな仕草だった。そしてゆっくりと、しかし確実な動作で、首を振った。

時間が、止まったような気がした。

父が、膝から崩れ落ちた。そして振り絞るように、嗚咽を漏らした。その声は無機質な廊下に、残酷なくらいに響き渡った。

僕は一瞬、何が起こったのか、理解することができなかった。父が崩れ落ちるその瞬間まで、僕は阿呆みたいに口を開けて、老医師の顔を、ただ茫然と見つめていた。その状況でもまだ、僕は一本の糸にすがっていた。

でも僕の隣で、うずくまり目頭を押さえる父を見て、その糸がブツッと、音を立てて切れた。

僕は文字通り、絶望の底へと叩き落された。そこには慈悲も、容赦も、救いも、一切なかった。糸は迷いなく断ち切られ、僕はその糸の切れ端を握ったまま、真っ暗な谷底に叩きつけられた。精神の最ももろい部分が、粉々に砕け散り、血を流し、激痛の波に飲み込まれた。

僕は、泣いた。父の嗚咽をかき消すほどの大声で泣いた。滲んだ視界が赤く染まり、息が苦しくなり、立っていられずにしゃがみこんだ。激しくせき込み、廊下によだれをまき散らしながら、僕は泣いた。どれだけ泣いても、涙はとめどなく出てきた。それでも激痛は止まなかったし、心は血を流し続けていた。父に抱かれた香代もまた、大声をあげて泣いていた。

遺された家族の涙に包まれ、この日、母は永遠に、この世から去った。


母の葬儀は、母の死から三日後に執り行われた。

三日間、僕は抜け殻のように、ただ過ぎていく日々を溶かしていた。

最低限の食事と、トイレ以外は部屋から出ず、自分の部屋に閉じこもった。そして平坦な天井や、壁や、窓の外の景色など、そこにあるものを意味もなく眺めた。目に入るすべての景色は色彩を欠き、聞こえてくるすべての音は、抑揚がなかった。世界の全ては意味を失い、中身のないただの空き箱に成り下がった。それでもふとした瞬間、僕は母を思い出して、涙を流した。何もない日々の中で、時折現れる母の面影だけが唯一、僕の心を震わせた。

香代は隣の部屋で、泣いては眠ってを繰り返しているようだった。時々すすり泣く声が聞こえ、そのあとしばらく、無音の時間が続いた。僕も、香代も、突然現れたあまりにも大きな空白に、何もできずにただ、飲み込まれていた。幼かった僕らは、それに対処する方法も知らなければ、立ち向かえる強さなんてものも、全くなかった。

唯一父だけは、目まぐるしく動いていた。

死亡届を出し、葬儀屋を手配し、喪主として踏むべき手順を淡々とこなした。その間に僕ら三人分のご飯の用意や、学校への欠席の連絡もした。親類には単純な連絡のみ入れ、葬儀に関することは、全て父が取り仕切った。必要なことは漏れなく行い、必要でないことはしなかった。そうしてきっちり、最も近かった大安の日に、葬儀の日程を間に合わせた。


葬儀には、大勢の大人が参列していた。

慣れない黒い服に身を包み、会場へとたどり着くと、たくさんのスーツや喪服姿の大人たちが、口々に何かを喋っていた。見たことのある親戚も何人かいたが、大半が父と母の、仕事関係の知り合いのようだった。父の横に並んだ僕と香代に、何人もの顔も知らない大人たちが、「この度は…」と声をかけた。涙を流している者もいた。

葬儀は粛々と、滞りなく進行した。

告別式の時、棺に入れられた母は、顔が布で隠してあった。母の顔を見ようと、僕がその真っ白な布に手をかけると、父に止められた。

「事故で、ひどく傷ついている。お母さんも傷だらけの顔を、敬太や香代に見られたくはないだろう。」

僕は悲しいような、寂しいような気持で、手を離した。そしてふと、棺の中の遺留品に、目を留めた。

母の愛用していた裁ちばさみや、母のデザインが採用された衣類など、たくさんの品が整然と母の周りを囲んでいた。母の記憶が詰まったそれらは、母とともに歩むことを望んだ、旧来の親友のように見えた。

母の仕事関係の道具に交じって、見覚えのある、四葉のクローバーのキーホルダーが入っていた。

ラベリングされたクローバーに、市販のキッドで簡単な装飾が施された、シンプルなアクセサリー。それは母が昔、僕のプレゼントした四葉をアレンジし、かわいくリメイクしたものだった。確かこの時は、運よく一日に二つ、綺麗な四葉のクローバーを見つけることができた日だった。


「あら、二つも見つけたの!」

玄関で僕を出迎えた母は、そう言って明るく笑ってくれた。

「どうしようかしら、押し花もしおりももう作ったし…」

少し考えて、母は「そうだ」と、いたずらっぽく笑った。そしてクローバーをもって二階に上がり、自室にこもって作業を始めた。

しばらくして僕と香代が、母の自室兼作業部屋に呼ばれた。

その部屋にはミシンやスケッチブック、絵具や綺麗な色の布切れなどが、所構わず散乱していた。整理整頓という概念をどこかに忘れてきたようなそこは、僕と香代、特に香代のお気に入りの遊び場だった。香代は母と一緒に、よくこの部屋で絵をかいたり、裁縫のまねごとをしたりしていた。時々母の留守中に忍び込み、もともと散らかっていた絵具やクレヨンをさらにぶちまけ、帰宅した母を驚かせた。

この日も香代は、部屋に入るなり目を輝かせ、落ちていたスケッチブックになにやら、意欲的な作品を描き始めた。母はそんな香代の様子を楽しそうに眺めながら、机の上に置いてあった二つの完成品を手に取った。そして僕と、創作に夢中になっている香代とを呼んで、二つのうち片方を手渡した。

それはかわいらしい、四葉のクローバーのキーホルダーだった。

きちんと水分を抜いたクローバーをラミネートし、市販のアクセサリーメーカーで、チェーンと装飾が為されている。短時間で作られたにしては、目立った傷や損傷もなく、形も綺麗に整っていた。

「これを二人で、お父さんに渡してきて」

僕がそれを受け取ると、母はもう一つのほうを大事そうに、お気に入りのポーチに着けた。それには確か、母がよく使う色ペンやチャコペン、ハサミなどが入れられていた。目を伏せて、ゆっくりとポーチにチェーンを通すそのしぐさは、何か大切なしるしのようで、僕の目に強く焼き付いた。その時の母の表情は、満ち足りていて、綺麗で、ある種の神聖ささえ感じられた。僕は母が、僕の見つけたクローバーで作品を作ってくれたことが、嬉しかった。そしてそれが、母のもとで何かしら、重大な役割を与えられていることが。その瞬間、僕が見つけたクローバーは、新たな命を吹き込まれ、再びみずみずしく芽吹いたのだ。

「これで、お父さんとお揃い」

そう言って母は、綺麗な笑顔で笑ってみせた。


僕は隣に立っている父の、スーツの左ポケットに視線を送った。

年季の入ったそのポケットは、長い歳月に疲弊したみたいに、だらんと口を開けていた。そこには父の携帯電話が入れられていて、その角のところ、ストラップなどを取り付ける部分から、あの日僕と香代が渡したキーホルダーが、顔をのぞかせて揺れていた。

二つ一緒に生まれたキーホルダー。その片方が今、母と一緒に旅立とうとしている。普段はかわいらしく、一生懸命幸運を運んでいる四葉が、今日はひどく、寂しげに見えた。

僕はクローバーから目を離し、そして父の横顔を見上げた。

父はただ黙って、棺に横たわった母に、じっと視線を向けていた。ここ数日で、頬は幾分か痩せこけて、目の下にはクマができていた。母を見つめているその瞳は、森の奥にひっそりと存在している湖のように静かで、澄んでいて、そして底の見えない深みがあった。その目を見て僕は、父までもが僕たちから、遠く離れてしまうのではないかという漠然とした恐怖を、瞬間的に感じた。その時の父は、僕らには絶対にたどり着けない部屋にいて、僕らには見えない何かを見ているような雰囲気があった。このままその部屋に内側から鍵をかけて、父は永遠に出てこないのではないだろうか。一瞬よぎった想像をかき消すように、僕は父の横顔から目を背けた。

やがて母の棺に蓋がされ、厳粛に火葬場へと運ばれて行った。黒い服を着た職員数名が、皆一様な表情で、棺を淡々と押していった。

無機質で事務的なその光景は、僕の心を、思いのほか強く揺さぶった。

つい4日前まで、生きて、動いていた母の体が、ただの白い灰になろうとしている。初めに母の精神が消滅し、後に残された肉体までもが、今消え失せようとしている。まるで世界そのものが、母を忘れていくような気がして、僕は叫び出しそうになった。運ばれて行く棺を見ながら、登っていた梯子を足元から揺らされたような不安感が、胸の中を侵食していくのを感じた。それは波紋のように僕の心に広がっていき、そこにあるまだ生々しい傷跡に、効果的に染み込んでいった。鈍く、痛烈な痛みが走った。

母は、死んでしまったのだ。それは明確な純然たる事実で、どうにもならないと頭ではわかっていながら、僕はじっとしていられなかった。母の証が順番に、一つずつ消えていくのを、ただ見ていることができなかった。

僕はその時、ほとんど反射的に、父の姿を探していた。隣を見たが、すでに父はどこかへ移動していた。不安はどんどん加速していき、僕は必死になって、あたりを血眼になって見回した。

棺の置かれていた部屋の隣、会場で一番大きな広間に、父はいた。

広間にはたくさんの人が集まっており、テーブルにはお菓子や、いくつかの飲み物が置かれていた。その部屋で父は、二、三人の男の人と話しながら、何度も頭を下げていた。

父を囲んでいた彼らはどうやら、父の会社の知り合いのようだった。頭髪のやや薄くなった恰幅の良い男性が、頭をもたげた父の肩に手を置いている。その男が何やら口を動かし、場違いな笑い声が響いてきた。

顔を上げた父は、その人に弱々しい笑顔を向けていた。その目には様々な感情を閉じ込め、醸造してできたような複雑な色が浮かんでいた。長い年月、大きすぎるものに対して抱いてきた多種多様な感情に、諦念を加えて蓋をしたような、そんな種類の色だった。父のそんな表情を、僕は見たことがなかった。父を囲んだ男たちは、そんな父の表情には目もくれず、しばらく何やら話していた。

僕は広間に背を向け、外へ向かった。

心の中が、ものものしくざわついていた。その時僕の胸に込み上げてきた感情は、寂しさでも、悲しさでもなく、怒りだった。初めは小さな灯のようにあやふやだったその感情は、徐々にその勢いを増していき、やがて強大な業火となって、僕の胸の中で激しく燃えた。そしてその怒りの対象は、父を囲んでいた大人でも、その笑い声でもなく、他ならぬ父一人だった。理由のわからないまま、明確に父に向けられたその感情に戸惑いながらも、炎はどんどん大きくなって、僕の精神を焼き続けた。僕はどうしようもない怒りを抱えて、会場の出口へ向かって歩いた。

自動ドアをくぐると、冷たい風が正面から吹きつけてきた。僕は一瞬目を閉じ、それから正面の階段に座り、膝を抱えた。

ふつふつと湧いてくる怒りと、自分が何もできない無力感と、その他沢山の感情が波のように押し寄せてきた。それは燃え盛る業火とまじりあい、風を生み出し、渦を作り、嵐を呼んだ。ここ数日の、何も感じなかった時間を取り戻そうとするかのように、僕の心は大きく乱れ、揺れていた。涙があふれてきたので、上を見上げ、目を瞬いた。

見上げると、空には大きな、白い雲が浮かんでいた。青空に堂々と浮かんだそれは、世界をここに固定するための重りのように、そこから一切動かずに、じっとしていた。その下を一羽の鳶が、綺麗な円を描いて飛んでいた。鳶の描く円は中立的で、僕に何一つ語り掛けなかった。その中立性は僕の心を、ほんの少しだけ落ち着かせた。

鳶の下を、火葬場の煙突から出る真っ白な煙が、象徴的に流れていった。

煙は横向きに流されながら、上へ、上へと昇っていった。それはあたかも、死んだ人のために作られる、天上へと向かうエレベーターのように見えた。亡くなった人は、例外なくそれに乗り込み、戻ることのできない旅路を歩む。残された僕らは、ただそれを下からこんな風に、見送ることしかできない。

先ほどまで荒れ狂っていた僕の心はいつの間にか、まるで台風が過ぎ去った後の海のように、静かに、平坦になっていた。僕は心の中の焼け跡に残った、やるせない空虚さを小さな体に目いっぱいに抱え込み、煙突から吐き出され続ける煙をぼんやり見つめていた。

唐突に、肩に大きな手が置かれた。

見上げると、父の弟の、俊夫叔父さんが立っていた。叔父さんは僕の目を見て軽く微笑み、僕の隣に腰を下ろした。そして手に持っていた缶コーヒーの片方を僕に手渡して、もう片方をプシュ、と開けて、飲み始めた。

僕は渡された「微糖」と書かれた缶コーヒーを手に、どうするべきか少し迷った。僕はそれまで、コーヒーを飲んだことがなかったし、苦いものはあまり、好きではなかった。けれど叔父さんに倣って蓋を起こし、ゆっくり缶を傾けた。口に入った液体は、やはり僕には少し苦すぎたが、それでも僕は飲み続けた。それはおそらく僕にとって、何かしら必要な、儀式のようなものだった。

僕と叔父さんは、ほとんど同時に缶を置いた。そしてしばらく無言で、空を見上げた。鳶の鳴き声が、何かの事実を届けるように、鋭く響いた。その声は誰にも受け止められずに、青空に虚しく吸い込まれていった。

「大変だったな」

そっと言葉を置くように、叔父さんが言った。

僕は何も言わず、叔父さんの横顔を見た。空を見上げたその顔は、その視線の先の青空のように、穏やかだった。

「京子さんはな」

叔父さんは、上を見上げたまま話し続けた。空ではまだ鳶が、同じところをクルクルと旋回していた。

「うちに来るといつも、敬太と香代ちゃん、そして兄貴の話ばかりしてた。嬉しそうに敬太がテストで100点を取ったとか、香代ちゃんが私の真似して絵を描いたとか、そんな話ばかりするんだ。で、その後に決まって、それに比べて、って笑うんだよ。正敏さんは本当に、不器用なんだからって」

叔父さんはそういって、懐かしそうに笑ってみせた。僕は100点のテストを見せた時の母の笑顔や、香代の落書きを嬉しそうに眺める姿を思い出していた。そして、いつも寡黙で、母に度々怒られていた父の姿を。

消えかけた灯が、一瞬きらめいたような気がした。

「ごみを出すのを忘れる、髪形を変えても気づいてくれない、京子さんの兄貴に対する可愛らしい文句は、いつも尽きることなく溢れてきた。時には兄貴がむきになって、口をとがらせて言い返すこともあったけど、たいていは京子さんにやり込められた。京子さんは実に要領よく話をしたし、それに兄貴は結局、不器用だったからな」

僕は母が、父と口喧嘩をしている場面を想像した。そんな場面は並木家でも、たびたび目にすることがあった。洗濯物を出し忘れた時、母の手料理への、リアクションが薄かったとき。いつも勝敗は目に見えていたが、そこには綺麗な花園とそこを飛び交うミツバチのような、親密な一体感があった。

「京子さんは、兄貴のことが大好きだった」

叔父さんの言葉は、僕の心に自然に、暖かく染み込んだ。

「兄貴も、京子さんが大好きだった。兄貴は不器用なままで京子さんを愛してたし、京子さんも不器用な兄貴を、そのまま愛しく思っていた。二人はお互いに、余分なところを相手に与え、足りないところを相手に補ってもらっていた。二人は最高のパートナーだったし、お互いを心から信頼していた」

旋回していた鳶は、そのままどこかへと飛んでいった。僕らの頭上にはただ、平坦な青空と雲だけが残った。

「だけど、京子さんは、兄貴だけを残して逝っちまった」

そう言って叔父さんは、こちらを向いた。叔父さんは笑っていたが、それは僕が今まで見た笑顔の中で、最も悲しげな微笑みだった。

叔父さんは傍らで忘れられていた缶コーヒーを手に取り、口をつけた。そして缶を手に持ったまま、静かな声で、僕に言った。

「京子さんが死んでから、兄貴はずっと、忙しなく働いていただろう」

僕は頷いた。

「ろくに、寝てもいなかっただろう」

僕はもう一度、頷いた。

「やっぱりな」

呟いて、叔父さんはかぶりを振った。

「兄貴は、落ち込み方まで不器用なんだ。昔から、ずっとそうだった。どんなことがあっても、弟の俺には何の相談もしないで、一人で黙々と落ち込んでるんだ。誰にも言わないで、勝手に一人で、抱えてやがるんだ」

叔父さんの口調は、言葉とは裏腹に、穏やかだった。僕は言うべき言葉が見つからず、ただ下を向いて聞いていた。

「俺の家に葬式のことで、電話してきた時もそうだった。兄貴は事務的に、京子さんが亡くなったこと、交通事故が原因なこと、それと葬儀の場所、日程だけを伝えてきたんだ。それで俺が何か言う前に、電話を切った。必要なことだけを伝えて、そのほかには何一つ、喋らなかった」

穏やかだった叔父さんの声が、わずかに震えたような気がした。

「俺はその時、兄貴に、泣いてほしかった」

僕は叔父さんの顔を見上げた。叔父さんはじっと、階段の一点を見つめていた。

「大声で泣いて、悲しんで、助けてを求めてほしかった。どんなに理不尽なことでも、筋が通ってなくてもいいから、俺を頼ってほしかった。葬儀屋の手配とか、準備とか、そういうことは全部俺に任せて、兄貴には気が済むまで、子供みたいに涙を流してもらいたかった」

叔父さんの声が、先ほどよりも大きく震えた。胸の奥が小さく、鈍くうずいた。

「だけど結局兄貴は、俺には一言も言わないで、全部一人で片づけやがった」

ため息のような叔父さんの声は、春の空に静かに、溶かされていった。

叔父さんは、それきり何も言わなかった。僕は傍らに置かれた缶コーヒーを、沈黙を埋めるように一口含んだ。すっかり冷めきってしまったそれは、先ほどよりも一層、苦く感じた。僕は三分の一ほどを残して、また缶を置いた。

いつの間にか西の空が、少しだけ赤みがかってきていた。青から緑、そして赤へと淡いグラデーションを醸した空は、広大なキャンパスに描かれた水彩画のように見えた。輪郭のぼやけたその空間を、数匹の真っ黒なカラスが、慌ただしく飛んでいた。彼らは空を不規則に駆け回った後、中身のない鳴き声を数回発した。それは何かを伝える声というよりは、夕焼けのために発せられた、最後の仕上げのように聞こえた。

僕も、叔父さんも、何も言わなかった。叔父さんの視線はずっと、階段のある一点に注がれていたが、その目はおそらく、何も映してはいなかった。僕らの間には、心地よい沈黙だけがあった。それは僕らが共通して抱えた、ある種のどうしようもい空白を、満ちていく潮のように優しく、隙間なく埋めていった。僕はその時はもう、怒ってはいなかった。悲しんでもいなかった。そこにはただ穏やかで、ひっそりとした凪があるだけだった。

やがて、叔父さんが立ちあがった。

見上げると、叔父さんは黙って、僕の頭に手を乗せた。そのごつごつした手の感触は、温かく、疑いのない安心感をもたらした。僕はその時、母が死んだ日に病院で握った、父の手のひらを思い出した。

叔父さんはしばらく、その状態で静止していた。やがてぽつりと、

「兄貴を頼むな」

と呟いた。そして背中を向け、そのまま真っすぐ葬儀場へと戻っていった。

僕はずっと、その大きな背中を見ていた。やがて叔父さんの姿が見えなくなると、僕はもう一度正面を向いて、空を見上げた。空は先ほどよりも赤の割合が増えており、浮かんだ雲のいくつかに、紫色の影を生み出していた。先ほどとおそらく同じカラスが、もう一度短く「カァ」と鳴いた。その声は赤く染まった夕空に、絵具のように染み込んでいった。

『兄貴を頼むな』

そう言った叔父さんの声が、僕の頭の中にずっと響いて、消えなかった。僕は叔父さんの声や、表情や、手のひらの感触などを、順に思い出していった。それらの記憶は全て、わずかな痛みを伴っていた。気づかないうちに心にできたささくれのような、そんな痛みだ。僕は叔父さんのことを考え、そしてそれから、父のことを考えた。

母が死んだあの日、病院で泣き崩れた父。それからずっと、寝る間も惜しんで奔走していた父。黒服の大人たちに向かって、頭を下げて回っていた父。その時の父の瞳に浮かんだ、遠い色。

僕はもう一度、上を見上げた。黄昏の色が濃くなった空を見ながら、僕はこの日初めて、一筋だけ、涙を流した。


母の葬儀が終わると、並木家にささやかな変化が訪れた。

それははっきりと、目に見える種類のものではなかった。ただ母が死んでしまってから、並木家を支配していた空気の重りのようなものが、幾分か軽くなったような感触があった。僕は学校に通い始め(春休みまで、登校日はわずかしか残っていなかったけれど)、たまに父を手伝って夕食を作ったり、家の掃除をしたりした。僕のそうした変化の底には間違いなく、あの日の叔父さんの言葉があった。

父は最初驚いていたが、やがて僕に、一定の家事を任せてくれるようになった。僕の姿を見て、香代も時々、料理や洗濯などをつたない手つきで手伝ってくれた。

母がいなくなったことで生まれた空白は、並木家に消えずに残っていた。おそらくそれはこれから、永遠になくならないものだったし、失くしてはいけないものだった。けれど僕らは、その空白の中で、僕らなりにうまくやっていく術を見出していた。四葉のクローバーの一枚は欠けてしまったが、僕らは新しく三つ葉として、太陽に向かって葉を広げ始めていた。


並木家が完全に分裂し、三つ葉がばらばらに散ってしまうのは、それから7年後のことだった。


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