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四葉のクローバー  作者: とある貝
3/9

欅の哲学

小さいころ、四葉のクローバーをよく探した。

どこの保育園でもおそらくそうであるように、僕の通っていたところでも、四葉のクローバー探しが一時、園児の間でブームになった。実家の近くの保育園は山の中腹に位置していて、クローバーを探す場所には事欠かなかった。僕は当時、仲の良かった2,3人の友人と一緒に、保育園のグラウンド、近所の草むら、友人の家の畑など、あらゆる場所でクローバー探しに没頭した。

最初はクラスの流行りに乗って始めたことだった。友達と一緒に何かを探すことは楽しかったし、見事それを見つけることができると、みんなが「すげぇ!」と称賛してくれた。小さな子供の自尊心は、それで簡単に満たされた。

しかしその遊びを続けているうち、僕は四葉のクローバーそのものに対して、純粋な興味と愛着を抱くようになっていた。数が少ないこと。端正でかわいらしい形をしていること。見つけたら、幸運を呼び込むといわれていること。そのどれもが僕を魅了し、夢中にさせた。やがて園内でのブームが潮が引くように終わりを迎え、友人の誰もクローバーを探さなくなっても、僕は一人の時間、黙々と四葉のクローバーを探し続けた。そして見つけるたび、大切に鞄にしまって、持ち帰った。何か重大な、それでいてささやかな秘密を、ひっそりと胸の奥底にしまい込むように。

そのような僕のクローバーブームは、保育園を卒業するまで続いた。その頃には保育園から帰る道すがら、近くの草むらで四葉のクローバーを探すことが習慣になっていた。見つけたクローバーを持ち帰ると、母が丁寧に水分を抜いて、綺麗な押し花にしてくれた。そうしてそれをラミネートし、しおりや下敷き、簡単なアクセサリーなどを作った。母のそのような作品は、僕はもちろん二つ下の妹にも喜ばれたし、時には父親にプレゼントされることもあった。僕が見つけてくるクローバーは、僕達家族の、ちょっとした絆になっていた。

しかし小学校に上がり、山のふもとの学校にバスで通学するようになると、登下校中にクローバーを探すことは難しくなった。クラスの友人にクローバーを探している者はいなかったし、目まぐるしい学校生活の中には、四葉のクローバーを探せるだけの十分な時間は見いだせなかった。最初はそのような環境を寂しく思いもしたが、新しい生活は未知の物事に溢れていたし、時間はきらきらと神秘的な光をまとって矢のような速さで過ぎ去っていった。新しくできた友達が、より刺激的で、より楽しい遊びを教えてくれた。目まぐるしく、興奮と刺激に満ちた生活の中で、僕の四葉のクローバーへの情熱は、いつの間にかひっそりと失われていた。まるで外気の供給を遮断された、ろうそくに灯った燈火のように。

それ以降、僕の人生で、四葉のクローバーを探すことはもうなかった。


(探すの)

(探す)

(役割だもんね)

(この人の役割)

クローバーが、小さく揺れながら話している。

僕は改めて、彼らを見上げた。四葉のクローバーを一生懸命に探していたあの時期、その周囲を密に囲んで、特別な四葉をひっそりと隠している三つ葉のクローバーたちが、僕は嫌いではなかった。彼らはまるで、親密な森の中で可憐なお姫様を守るガーディアンのように、力強く、連帯しているように見えた。僕はそのガーディアンが、四葉のクローバーを摘み取った僕に腹を立てないよう、いつも慎重に、丁寧に彼らをかき分けた。

僕は上を向いたまま、彼らに尋ねた。

「君たちの中に、四葉のクローバーはいないの?」

答えは、予想できていた。案の定彼らは、口をそろえて否定した。

(いないよ)

(いない)

(三つ葉だけだよ)

(みーんな三つ葉)

僕のもとに降り立った、メアからの通達の小さな紙片。あそこに描かれていた四葉のクローバーには、あふれ出る安心感や、幸福の予感のようなものがあった。それは母親に抱かれた幼児が感じるような、根源的な感情のように思えた。スーパーマーケットや、通販で買える幸福とは根本的に質の異なるものだ。あれを探すためにはおそらく、特別な何かが必要だった。

僕はクローバーに礼を言って、それから怪盗に向き直った。怪盗の表情は、出会った時のユーモラスで、かつ真剣なものに戻っていた。

「四葉のクローバーは、この世界のどこかにあるんだよね」

「おそらく」

怪盗はそう言うと、視線を気持ち一つ分下に落とした。

「ただ、もしかすると、存在しない可能性もある」

「どういうこと?」

怪盗は、注意深く読点を打つように、空白を開けた。

「メアは、不可能な事柄を役割として指定することはない。もちろん難易度に多少の差はあるが、それでも彼が指定するのは、理論上可能な物事だけだ。達成できない役割は、まず与えられない」

怪盗の声は、穏やかではあったが、先ほどまでの柔らかさは欠けていた。その声はどこかしら固く、いくばくかの緊張を含んでいた。

「君に与えられた役割が、四葉のクローバーを『見つけること』であったなら、四葉のクローバーは間違いなくこの世界に存在するし、それを見つけた暁には、君は無事に元の世界へと帰れるだろう。そこには疑う余地はないし、吾輩が外から盗んできたものの多くは、そのような道をたどっている」

怪盗はそこで一瞬、ためらうような表情を挟んだ。陳列された言葉の棚から、適切な言葉を注意深く探し出すように。

「だが、もし君の役割が、『見つけること』ではなく『探すこと』だったとしたら」

ひやっ、と、冷たい風が吹いた気がした。

四葉のクローバーを「探す」こと。それ自体は確かに、クローバーが存在していなくてもできることだ。もしも「メア」が、ありもしない美しい、幸福に満ちたクローバーの幻影を僕に与え、それを求め続けることを僕に要求しているとしたら。

「…僕は永遠に、この世界でクローバーを探し続けることになるかもしれない」

迷い込んだ、元居た場所とは別の世界で、永遠に四葉のクローバーを探し求める僕。それはまるで冥界への入り口を見つけられないでいる死者のように、ひどく宿命的で、救いのない光景だった。彼のために開く扉は、最初から用意されていないのだ。

「あくまで、可能性の話だ。どんなものにでも可能性というものはあるし、その話をし出すときりがない。君をずっとこの世界にとどめておきたいと、メアがもしそう考えたのなら、その気持ちには大いに共感できるがね」

そう言って怪盗はウィンクした。彼の言葉は彼の存在そのもののようにチャーミングで、僕の緊張を優しく、手際よく凍解させた。

僕は深く息を吐いて、意識して肩の力を抜いた。様々な考えが僕の頭を、忙しない特急列車のように次々に交錯していった。それらは無数の可能性であり、その中には僕に幸せをもたらすものも、絶望をもたらすものも含まれていた。だがそれらの行きつく先、特急列車の終着点として僕が現実的に考えられることは、一つしかなかった。

僕は改めて、目の前のユーモラスで紳士的な怪盗を、正面から見据えた。

「どっちにしろ僕は、四葉のクローバーを探すしかないよね。ローマにはローマの法律があるし、差し当たって僕には、急いで向こうの世界に戻らなければならない用事もない」

客観的に見て、今の僕にはほかに取りうる選択肢は見当たらなかった。

それに。

僕はもうすでに、僕のもとに降り立った、あの四葉のクローバーに心惹かれていた。小さいころに漠然と抱いた、混ざり気のない純粋の希望のような、または何の不安もない眠りの間に訪れる、美しく無邪気な夢のような、そんな幸福があそこにはあるような気がした。あのクローバーを探してこの世界を冒険するというのは素晴らしいことであり、それはこの世界のシステムとは別の次元で、僕の使命ですらあるように思えた。それがたとえ救いのない、絶望を含んだ結末が待っていたとしても。そのような無条件の心の震えは、僕が久しく忘れていたものだった。

怪盗はにっ、と、無邪気な笑顔を作ってみせた。

「健闘を祈っている」

僕も笑った。そしてもう一度首を曲げて、ふわふわと漂うクローバーたちに視線を移した。

「行ってくるよ」

クローバーは手を振るように、その小さくかわいい体を揺らした。

(君の役割)

(探し物)

(どこにあるかな)

(見つかるといいね)

僕は彼らに向かって微笑みを浮かべた。その表情は混じりけのない、心からのものとして自然と顔に表れた。

「ありがとう」

そう言って僕は、ゆっくりと歩き出した。鮮やかな青空のもとで、緑色のクローバーたちに囲まれて歩く哲学の道は、どこまでも平和でのどかで、僕の心を落ち着かせた。それはいつもの散歩道と、何ら変わりがないように思えた。ただクローバーが浮かんでいて、人間がいなくて、桜が生えていないだけだ。

(見つかるといい)

(見つかるといいね)

(失くしたものが)

クローバーが囁く。その声にはかすかに、親密さのようなものが含まれていた。

すれ違う時怪盗は、彼らしい微笑みをたたえていた。真剣さとユーモアと、かすかな自信を混ぜあわせた微笑みだ。僕は2,3歩歩を進め、そして再び、振り返った。

「一つ聞きたいんだけど」

疎水の流れる音が、優しく空気を満たすように聞こえてきた。

「この世界でもし、与えられた役割を放棄したら、どうなるの」

怪盗は、メアから与えられる役割が、この世界における唯一の法だと言っていた。それ以外には基本的に、制約のようなものは存在しないと。ではその唯一の法を犯したとき、そのものはどのように裁かれるのか。

四葉のクローバーを探すことを、放棄するつもりはなかったが、純粋な興味があった。

怪盗は、二次元の体をくるりと反転させ、こちらを向いた。

「消えてしまう」

怪盗の声はまるで、明日の天気を伝えるニュースキャスターのように、淡々としていた。

「…消える?」

その言葉の意味を、しばらく頭の中で考えた。消えるというのは、この世界のシステムからか、それとも存在そのものが、失われてしまうのか。それはつまり、役割を全うしないと、死んでしまう、ということなのだろうか。

「メアの通達に使われた紙片を、覚えているか」

怪盗の声は、相変わらず平坦だった。

「うん、もちろん」

空からひらひらと、天啓のように舞い降りてきた紙片。あの純粋すぎる白さと、滑らかすぎる感触は、今でもありありと思い出すことができた。

「あの紙片は、君に役割を伝えた瞬間、ぼんやりと光り出したろう。そうして細かな幾片もの光の粒子となって、やがて消えた」

僕はその場面を思い出した。僕の手のひらで輝きだした紙片は、そのまま少しずつ輪郭がぼやけ、やがてふわっと、空気中に溶けるように消えてしまった。無数のミクロサイズの蛍が、一斉にどこかへ飛び立っていったみたいに。

「役割を放棄したものは、消えてしまうんだ。ちょうどあの紙片のように」

穏やかな声は、それがこの世界のシステムであり、犯すことのできない決まりであることを示していた。

あの光に包まれた紙片。あれを今取り戻すことは不可能だろうということは、なんとなく僕にも分かった。あの柔らかくて、幻想的な光の中には、確かな不可逆性のようなものが含まれていた。僕の世界の「死」よりも、ある意味では優しくて、そしてある意味では絶対的な片道切符。それがおそらくこの世界で、「メア」が与える唯一の法に背いたものの、たどる道だった。

「ありがとう」

僕は笑った。そしてふと思いついて、怪盗に言った。

「四葉のクローバー、盗んだりしないでね」

怪盗は一瞬きょとんとして、それから満ち足りたような笑みを浮かべた。

「君にとって大切なものを、盗みはしないさ」

僕は笑顔のまま、軽く右手を振った。怪盗はぴょこっとシルクハットを持ち上げ、クローバーはふわふわと揺れた。

緑色に染まった空間の隙間を、春らしさをふんだんに含んだ風が、楽しげに吹き過ぎていった。


哲学の道を、疎水に沿って当てもなく歩いていくと、徐々に周囲のクローバーがまばらになり、緑色の密度が薄くなった。振り返ると、僕の歩いてきた道には、鮮やかな緑のグラデーションが浮かんでいた。僕と怪盗が話していたところはクローバーが密に集まっていて、空間を緑色で埋めているが、その数はそこからだんだんと減って、今では僕の周りに、ぽつぽつといくつか浮かんでいるだけだった。まるで昼と夜との隔たりのようなその光景は、クローバーのいるあの場所が、この世界の境目だということを思い出させた。

歩いていると、蝶や小鳥や、草むらを跳ねるバッタなど、たくさんの生き物とすれ違った。彼らは春が来ることを待ち望んでいたかのように、生き生きと飛び、羽ばたき、躍動していた。僕を包む光景は純粋にのどかで、小学生の書いた絵画のように見えた。タイトルは「はる」。そこには桜は、描かれていない。桜には本質的に、和やかな春を象徴することはできない。

そんなことを考えていると、正面から、大きなコイが空中を泳いできた。

大きさは一メートルに満たないくらいで、体の色は黒よりのグレー。見た目はどこにでもいる、平均的なコイだ。うろこがカラカラに乾いているが、全く意に介した様子はない。彼はちらりと僕を一瞥すると、右の胸びれを軽く持ち上げた。まるで顔見知りの隣人に、散歩の途中で偶然会ったかのような仕草だ。反射的にこちらも手を上げると、彼は何事もなかったように、立派な尾ひれを悠々と動かし、そのままどこかへ泳いでいった。

あっけに取られて、しばらく呆然としていると、頭上から声が降ってきた。

「驚いておるな、少年よ」

びっくりして上を見ると、一本の欅の木が、どっしりと枝を広げていた。頑丈そうな幹は、僕が三人分くらいの太さがあって、太い根が地中から、そのほんの一部をのぞかせている。その周りには無数の苔が、欅を慕う親衛隊のようにびっしりと生え揃っていた。枝の間に、何やら本のようなものが引っかかっている。と思ったら、欅は器用に枝を動かし、その本を閉じた。そして閉じた本を、太い二本の枝の間に、大事そうに立てかけた。

僕が目をしばたかせていると、一本の枝がにゅっ、と伸びて、僕の目の前に差し出された。

「私は、欅の木だ」

どこかで聞いたような自己紹介の仕方だった。

握手を求められている、と気づくまでに、数秒かかった。伸ばされた枝を握り返し、上を見上げた。今日はよく、頭の上から話しかけられる。

「この世界ではさ、」

自分で発した声は、思いのほか落ち着いていた。おそらく僕自身、この世界の奇妙さに徐々に慣れてきたのだろう。

「例えば、ティッシュペーパーでも口を利くの?」

少し間があり、それから欅の木はゆさゆさと、貫禄のある大きな体をゆすった。どうやら、笑っているらしい。

「ティッシュペーパーが、メアに黙れと言われていなければな」

「なるほど」

僕はため息をついた。欅の木の役割は黙ることでもないし、さっきのコイの役割は、挨拶をしないことでもないのだろう。つまりはおそらく、そういうことだ。

「少年、君はなかなか、理解が早い」

頭の中に、欅の太い声が響いた。その聞こえ方は、クローバーのときとよく似ていた。

「さっき怪盗にも、同じことを言われた」

「ほう」

欅が、楽しそうに声を上げた。

「さては少年も、かの怪盗の盗品か」

僕は笑った。

「おじさんも、なかなか理解が早いほうだよ」

欅はもう一度、大きく体をゆすってみせた。彼が笑うと、何枚もの硬い葉っぱが、はらはらと頭上に降り注いだ。

「それ」

僕は欅の、枝分かれしたくぼみに置かれた、一冊の本を指さした。

「おじさん、本読むんだ」

欅は頷いた。正確には、巨木の全体がわずかに揺れただけだけれども、多分頷いたのだと思う。

「本を読むというのは、欅の性分に合っている」

「そしておじさんの役割は、本を読まないことでもない」

「そのとおり」

欅は満足そうにそう言った。表情がない分、彼の声色は彼の感情を、いくらか雄弁に表現していた。

「何の本?」

欅は慣れた手つきで、立てかけてあった本を枝の先の葉の上にのせ、にゅっと僕に差し出した。

差し出された本は、相当読みこまれているようだった。ほとんどのページがよれて、所々が破れている。ヴィトゲンシュタインの、「論理哲学論考」。ぺらぺらとページをめくると、文字の大部分がかすれて、薄くなっていた。何か所かに、暗い緑色の線が引いてある。

「ヴィトゲンシュタインを知っているか?」

その名前は、大学の哲学の講義で、何度か耳にしたことがあった。

しかし哲学専攻でない僕にとっては、それはあくまで単位を取得するための有用な情報の一つであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。彼の本をきちんと読みこんだこともなければ、彼の思想を深く学んだわけでもない。知っているのは彼がウィーンの哲学者であり、友人のラッセルが手を焼くほどの頑固者だったということくらいだ。

「名前は聞いたことがあるけど」

爽やかな、暖かみを増した風が、僕達の間を吹き抜けていった。欅は気持ちよさそうに、柔らかい風に身をゆだねた。

「語りえぬことに対しては、我々は沈黙せねばならない」

欅の言ったその言葉は、詩のようにも、または聖書の一行の引用のようにも聞こえた。

「この本の、もっとも有名な主張だ。だが、世間の多くのものは、この言葉が本当に主張したいところをわかっていない」

彼の声は穏やかで、そこには非難の色は混ざっていなかった。ただ淡々と、事実を事実として述べていた。

「おじさんは、それがわかったの?」

僕は先ほどの本の、何度も繰り返し読まれたであろう形跡を思い返した。

答えるまでに、欅は少し間を開けた。

「私は最初、この本を手に取り、とりあえず一通りに目を通した」

欅は語り出した。

一羽のスズメがやってきて、彼の枝の、やや細めの一本にとまった。

「それから次は、比較的じっくりと細部まで読んだ。わからないところに線を引き、一度目に流し読みしたところに、もう一度深く目を向けた」

スズメは彼の枝の上で、何もせずにじっとしていた。その姿は、欅という要塞に取り込まれ、安心しきっているように見えた。

「三回目は、徹底的に理解し、分析した。本の注釈を読み込み、不明な背景知識があれば、怪盗に頼んでそれについての本を手に入れた。ほかの哲学者と、ヴィトゲンシュタインの当時の関係性や、彼の周囲の交友関係もあらかた調べた。この本を深く理解するには、そういった作業が必要だった。

四回目は、原書を手に入れ、ドイツ語でそれを読み解いた。ドイツ語を必要な分一通り学び、その知識と、それまでに得た知識とを総合して、注意深く訳と、原文をたどった。ニュアンスの違いによる取りこぼしや、訳者の解釈との齟齬などに惑わされないように」

スズメは動かないままだった。枝の上で、欅の言葉に耳を澄ませているようにも見えた。

「そして、五回目」

欅はまるで、大事なページにしおりを挟むように、ゆとりのある空白を開けた。

「私は徹底的に文章を解剖し、その作業はもう、これ以上できないというところまで来ていた。思いつくことはすべてやったし、その頃にはもう、本は今のようにボロボロになっていた。私も、本も、これまでの妥協のない、緊密で厳格なやり方に摩耗していた。そこに至るまで、およそ五年の月日が流れた」

五年。僕は彼が、ある種の重みとともに放ったその数字に、圧倒された。彼のがっしりした体躯は、一年一年地道に年輪を重ね続け、幾たびも雨風にさらされることで、獲得されたものなのだ。そして彼は、その歳月のうち五年を、一冊の本を読むことに費やした。その事実は、大学二回生で、まだ19年しか生きていない僕には、途方もない遠い世界の出来事のように思えた。

「私も、本も、限界だった。だが私にはどうも、この本にはまだ、隠された一面がある気がした。ボロボロになるまで読み込んで、書かれた言葉をほとんど暗記してしまっていたのに、それでもこの本がまだ、私から隠している何かがある。理由はわからないが、当時の私にはそういった強い確信があった。だから私は、最後にもう一度、この本を通して読むことにしたんだ」

欅の声は、一つの冒険談を語るかのように、堂々としていた。僕は何も言えずに、彼の言葉に耳を澄ませていた。

「私はもう一度本を手に取った。そしてページを開き、考えた。私はこの本を一体、どう読むべきなのだろうかと。思いついた方法はすべて試したし、この本の主張しようとしていることは、おおむね私なりに理解していた。それでもその時私は、この本をもう一度読み返すことが必要だと感じていたんだ。わかるか、少年よ」

僕は黙っていた。その質問はおそらく、答えを求めていない類のものだった。

枝の上で沈黙していたスズメが、さっと迷いなく羽ばたいていった。駅に留まっていた列車が、定刻にきっかりと発車するように。

欅は再び、語りだした。

「五回目、私はこの本を、一冊の詩集として読むことにしたんだ。そこにある哲学的な言明や、形而上的な命題の一つ一つに、あえて意味を求めずに、言葉が組み合わさってできた美しい芸術作品として鑑賞した。その響きや、奥にある大きな流れの胎動を感覚的に楽しんだ。哲学書をそのように読んだことは今まで一度もなかったし、それは私にとって、間違いなく意味のある体験だった」

彼は再び、意味を含んだ空白を開けた。いったん立ち止まり、そこにある流れや文脈に、ゆとりを与えるための空白。彼の生み出した余白は、潮が少しずつ満ちるように、柔らかく空間を埋めていった。

「それで」

僕は言った。ゆとりを得た流れには、堰を外して動きを生み出す作業が必要だった。

「隠されていたものは、見つかったの?」

欅はゆっくり、小さく揺れた。おそらくそれは、彼なりの微笑みだった。

「『論路哲学論考』を詩集として読み終えた時、不思議な感覚が残っていた。今まで私がその本に対して感じていたのとは、まったく違った印象が残っていたのだ。しばらく離れていた故郷の、見覚えのある風景の一つ一つが、小さかったころとは全く別物に見えるように。それは実に素晴らしい光景だったし、どこか懐かしくさえあった。これがこの本の隠していた、そして私が求めていたものなのだと思った」

どこかで鳥の鳴く声が聞こえた。その声は欅の過ごした歳月に寄り添うように、優しく響いた。

「だが、本当に面白いのはここからだ」

欅は言った。彼の声には彼の人生を、心から楽しむような矜持があった。

「この本を詩集として読み終えた後、私は何気なく、ぼんやりとページを繰っていた。懐かしい思い出のアルバムを、なんとなく眺めるような気持でね。すると所々の文章で、これまで自分が与えていた解釈とは、全く違う解釈が浮かんできたんだ。そんな文は決して多くはなかったが、それでもこの本の一部の主張は、まるで全く別物であるかのように、新鮮さを伴って私の思考に飛び込んできた」

葉の間から落ちる木漏れ日が、彼が喋るたびにゆらゆらと揺れた。それらは天から遊びに来た、陽気な太陽の妖精たちのように見えた。

「驚いたよ。私はそれまで、文字通り穴が開くほどこの本を読み込んだし、これ以上不明瞭で、ぼんやりとした個所はないと思っていた。そこにまだ解釈の余地が、しかも全く新しい考えの入り込む可能性があるなんて思いもしなかった。にもかかわらず、この本はその時、いやそれ以降もずっと、読むたびに新しい顔をみせてくるんだ。私が血眼になって探索した世界で、もうこれ以上何も見つからないと思っていたところに、『ほら、まだここにも宝があるぞ』と笑顔で言われたような気分だった。悔しくもあったし、同時に心から、その感覚を楽しいと思った」

時折、欅の枝のいくつかが、彼の感情に合わせてがさがさと動いた。その度何枚かの欅の葉が、ひらひらと木漏れ日の上に降り注いだ。

「そしてある時、私は気づいた。おそらく変わっているのは、本ではなく私なのだと。この本を読むたびに私という主体が変化し、だからこそその解釈も変動しているのだと。それはあの五年間、必死に正しさを求めてこの本を読み込んできた私にとって、ある意味では絶望的で、またある意味ではどうしようもなく、おかしさをはらんだ結末だった。私がこの本に学んだ一番の事実は、『世界は変動する』ということだ。ちょうどアメーバが、あるいは水が、その形を自在に変えていくように。世界に合わせて私が変化し、そして私に合わせて世界が変化する。すべては流動しているし、すべては相対的なんだ」

欅は満足そうにそう語った。

彼の声には穏やかさとある種の深み、そして清々しさが含まれていた。それらは欅が、確かに積み重ねてきた年月の重さを感じさせた。

すべては流動しているし、すべては相対的。

彼の言葉は特徴的な余韻と共に、僕の頭に響いていた。

僕は流動する世界と、四葉のクローバーについて考えた。僕は僕のいた世界から、怪盗に盗まれてこの世界にやってきた。そしておそらくは、四葉のクローバーを見つけ出し、向こうの世界に返っていく。クローバーはただこの世界で、僕に見つけられるのを待っている。流動していくこの世界において、ばらばらの僕の心は簡単に流され、四葉のクローバーはしっかりと根をはる。僕は世界の波にのまれ、あえなく溺れている自分を想像した。周囲につかまれそうなものは何もない。何もできずに流されていくと、空中に一つの、四葉のクローバーが浮かんでいる。そこは異様に明るく、希望に満ちた光に包まれている。僕は必死に、その光に向かって手を伸ばゆす。

そこまで想像したところで、にゅっと、目の前に欅の枝が伸びてきた。

枝に広がった、頑丈なたくさんの葉の上に、『論理哲学論考』が置かれている。

僕は上を見上げ、目で欅に問いかけた。

「この本は、少年にプレゼントしよう」

穏やかな声で、欅は言った。

「…おじさんの、大事な本じゃないの」

「心配はいらない。この本は誰の手元にあっても、役割を果たすことができる」

「役割」

欅は一呼吸置き、大切な約束事を復唱するかのように、言った。

「与えることだ」

欅の声には、心からこの本を慈しむような響きがあった。

僕はもう一度、視線を落として本を見つめた。長年にわたって読み続けられた本はぼろぼろで、しかしその姿はどこか、満ち足りているようにも見えた。彼は確かにその生涯の中で、欅に何かしらを与え、そしてその存在を焼き付けていったのだ。夏の夜空に余韻を残す、鮮やかな大輪の花火のように。

「でも僕には、哲学の知識はほとんどない」

「時間をかけて読み解けばいい。本はいつでも、そこにある」

僕は小さく、首を振った。

「僕にはあまり、この世界での時間はないんだ。探し物をしなければならない」

「ほう」

欅は興味深そうに、がさっ、と体を揺らした。

「それが少年の役割か」

「うん」

「何を探している」

風にあおられ、欅の葉が一枚、僕のそばにひらひらと落ちた。

「四葉のクローバー」

欅は何も言わなかった。少しの間、穏やかな沈黙が僕らを包んだ。

「私はかれこれ、この地で300年生きている」

そういった欅の声は、先ほどよりもやや慎重な響きがあった。

「だが、この世界で、四葉のクローバーなるものの話は、一度も耳にしたことがない」

欅の言葉は多少残念ではあったが、どこかで分かっていたことでもあった。僕は笑って、欅に言った。

「そうじゃないと、探し甲斐がない」

 僕の使命であり、宿命であり、この世界における終着点となるクローバー。そう簡単に見つかるわけはないと、覚悟していた。

欅はそっと、差し出した枝を僕の頭にのせた。その感触は、思いのほか柔らかだった。

「いい顔をしている」

欅の枝や、その包み込むような声、堂々とした立ち姿には、ある種の安心感があった。

欅がポン、と、僕の頭を叩いた。

「空は、もう探したのか」

「空?」

いぶかしがる僕に、欅は言った。

「四葉のクローバーは、空にあるかもしれないだろう」

僕は空から舞い降りてきた、あの美しい紙片を思い出した。真っ白な、一枚の小さな紙片。そこに鮮やかな緑で描かれた、どこか希望に溢れ、幸福の予感を含んだクローバー。確かにあの特別なクローバーにとって、空の上はとても似合いの居場所かもしれない。

「でも僕は、翼をもっていないし、飛行機やヘリコプターに乗ることもできない」

冗談を言ったつもりはなかったが、欅はゆさゆさと笑った。

「空を飛ぶのに、翼も、特別な道具も必要ない。想像力の持ち合わせさえあれば、少年は自由に空を飛べる」

「…想像力?」

「見ていなさい」

欅は自らの葉を一枚ちぎり、そしてそれを、ひらりと空中に放り投げた。投げられた葉は、空中でピタリと、直立の状態で停止した。欅は宙に浮かぶ葉に向かって、オーケストラの指揮者のように、枝を優雅に振って見せた。

空中で静止していた一枚の葉っぱは、欅の枝の動きに合わせ、くるくると楽し気に宙を舞い始めた。上にはね、左右へ流れ、一回転して、それからよく慣らされた鳩のように、すいっと欅の枝に戻っていった。そしてあたりはまた、元のような静寂に戻った。

僕は茫然と、その様子を眺めていた。

「イメージすることが重要だ。思い描けば少年は空を飛べるし、宇宙へも行ける」

欅はまるで、出来の悪い生徒に丁寧に勉強を教えるように、穏やかな口調で僕に言った。

欅の言葉には、この世界ならではの説得力があった。

僕は目を閉じ、一つ大きな深呼吸をした。そして自分が空を飛んでいる情景を、頭の中に思い描いた。できるだけ明瞭に、そして具体的に。

僕が自然に思い浮かべたのは、空中を身軽に、自在に歩行している僕の姿だった。まるでそこに見えない階段があるかのように、軽やかなステップで空中へと昇っていく。近所のスーパーへ買い物に行くように気軽に歩き、すれ違った小鳥に、軽く手を挙げて挨拶をする。そこでは空間と僕とは一体であり、自然な流れの一部として、僕は空を歩いている。

僕はそのイメージをしっかりと、損なわないように保ちながら、ゆっくり右足を持ち上げた。そして空中の、僕の膝くらいの高さの空間に、空気の階段を思い描いた。僕のためだけに用意された、透明な階段。大丈夫。それはきちんと、そこにある。

右足を踏み出すと、足の裏に柔らかな感触があった。弾力のあるソファの上に登ったような、ふわふわとした感触。そこに体重を預けると、拍子抜けするほど簡単に、体は浮いた。

一度浮いてしまえば、後は簡単だった。僕は空中を、自由自在に歩行することができた。空間は僕のために足場を用意してくれたし、目に見えなくとも僕には、それがどこにあるかが分かった。僕は空中を駆け巡り、頭上の空気を足場にして、反動をつけて一回転した。そこには空間そのものとコミュニケーションをとっているような、心地よい親密さがあった。

「上手いじゃないか」

空中で正面から聞く欅の声には、今までとは違った新鮮味があった。

「ありがとう。楽しいね、これ」

欅は満足そうに体をゆすった。彼の姿は正面から見ると、先ほどよりも大きく、頑丈そうに見えた。

「その調子で、空も探してみるといい。探し物はもしかすると、雲の上にあるかもしれない」

欅のその言葉は、どこか示唆的に聞こえた。僕はただ、曖昧な笑顔を浮かべ、頷いた。

欅は初めて会った時と同じように、一本の枝を差し出した。その所々に苔がむし、たくさんの葉が茂った枝は、欅が重ねた歳月の、重さと確実さを思わせた。

僕はそれを握り返した。欅は握られた枝を軽く揺らし、そして自然に引いた。

「健闘を祈っている」

欅の厚みのある声は、僕に輪郭を持った勇気を与えてくれた。

僕は手を振り、空気を蹴った。欅もその枝を、ゆさゆさと振り返した。

空気の階段を一段登るごとに、あれほどがっしりとして雄大だった欅の姿が、徐々に、しかし確実に小さくなっていった。


高いところに昇るほど、周囲に生き物は少なくなり、景色はどんどん簡素になっていった。時折カラスやスズメとすれ違ったり、ポツンと小さな花が浮かんでいることはあったが、それでも地上と比べると、空の上は圧倒的に静かだった。太陽はすでに天頂近くまで登っていたが、気温は高度が上がるにつれ少しずつ、肌寒くなっていった。

トン、トンと、一定のリズムで空気を蹴る。周りには一様な、だだっ広い空間が広がっているため、上へ登っても景色はさほど変化しない。体に感じる流れる空気の感触だけが、僕が上昇していることを教えてくれた。

空気の階段を登りながら僕は、欅の言葉を思い出していた。

『探し物は、雲の上にあるかもしれない』

その言葉は喉につかえた小骨のように、僕の心にわずかな痛みを伴って残っていた。バラバラになった心の破片の一つ一つが、欅の言葉に潜在的に反応して、赤く熱を帯びているような感覚だった。その反応は拒絶かもしれないし、また僕に何かを教えようとする、啓示なのかもしれなかった。

雲の上にあるもの。僕が必死に、探しているもの。

再び、ツキッ、と胸が痛んだ。痺れるような、刺すような痛み。十年前から続いていて、今なお消えることなく、僕の心を刺激する痛み。僕はいったん空中で立ち止まり、目を閉じた。

目を閉じると、僕の周りには何もなくなり、静寂が僕を穏やかに包んだ。傍を吹き過ぎる風の音すら、ここではない遠い世界のものに聞こえた。闇はどこか親密さを伴って、僕の周囲を密に満たした。

そこに残ったのは、バラバラになり、形を失い、わずかな痛みだけを訴える僕の心だった。僕はその無音の、僕一人しか存在しない闇の中で、その痛みだけを感じ続けた。暗闇の中で痛みの色に目を凝らし、静寂の中で痛みの音に耳を澄ませた。それは僕の心の奥、無音の闇のさらに深淵に存在する、ある部分を刺激していた。その場所は、地中深くで眠っている、堅牢な永久凍土のようにも、また宇宙の果てにぽっかりと空いた、真空を飲み込む虚無のようにも見えた。僕の心の感じる痛みは、絶え間なくそこを刺激し続ける。ツキン、ツキン、ツキン。

その刺激に反応するように、その場所から何かがゆっくりと、少しずつあふれ出してきた。それは霧のように曖昧で、そして朝日のように確実だった。絶望的でもあったし、希望の光に満ちてもいた。その何かは徐々に、焼き付くような痛みと酔いしれるような甘美さをもって、闇の中を満たしていった。音もなく、気配もなく、ただ確実に世界を、じわりじわりと飲み込んでいった。やがて僕の、バラバラになった心の破片は、すべてその何かのうちに沈んだ。先ほどまでの痛みは、今ではもうその何かの持つ、強大で絶対的な絶望と、幸福とにかき消されていた。

僕はその闇の中で、世界を支配した何かの海に、溺れていた。僕は赤子のようにただ無力に、その中に四肢を投げ出していた。そして目を閉じたまま、その何かに無防備に、自らの全てを預けていた。


(敬太、敬太)

誰かが、僕の名前を呼んでいる。

周囲には春を迎え、はち切れんばかりに咲き誇った桜が枝を広げている。圧倒的な満開の桜の間を、幼い僕はその誰かに手を引かれ、進んでいく。僕はただ、桜の魔力に侵されたように、茫然とあたりを見回している。その頭上から、弾むような声が聞こえる。

(ほら見て、敬太、桜がきれい)

そこで僕は初めて、僕の手を引く人物に視線を向ける。桜吹雪に包まれたその表情は、笑っているように見える。背後の桜にあおられて、表情の細部までは読み取れない。長い髪が、時折吹く風にふわりと揺れる。その背には、まだ幼い妹を背負っている。桜を見ていたその人物が、ゆっくりと僕の方へと、視線を向ける。


そこで、記憶は途切れた。

僕は目を開け、上を見上げる。

僕の頭上には真っ白な雲が、青すぎる空に諸島のように浮かんでいる。地上から見るとちっぽけに見えた彼らは、近づいてみると思いのほか雄大で、一つ一つが確実な意味を持っていた。

僕はその雲の上、遥か天頂にいるであろう、母の姿を思った。

小さな僕の手を引いて、桜並木を歩いた母。

僕が見つけた四葉のクローバーを、心から喜んでくれた母。

十年前に他界した母を、僕の心は今でもおそらく、どうしようもなく、探している。

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