ローマの法律
そよそよと、柔らかい風が吹いた。
目の前の怪盗は、帽子を上げた姿勢のままで、笑顔を崩さずに静止していた。その姿はまさに、アニメの最中に一時停止ボタンを押したみたいで、奇妙なシュールさと、ある種のおかしさをはらんでいた。目を凝らせば彼を投影するスクリーンと、映写機が見えるのではないかと思ったけれど、そんな機材は見当たらなかった。怪盗はこの空間で独立して二次元で、独立してアニメ的だった。
僕はすっかり混乱して、目の前の怪盗をただ茫然と見つめていた。まるで僕までも、テレビの外の誰かに一時停止ボタンを押されたみたいに。
「驚いたかね」
怪盗はそう言って、再びぴょこっと帽子を戻した。怪盗の声は高すぎもせず、低すぎもしなかった。中立と優しさの中間くらいの、ある種の安心感を帯びた声だった。
「…あなたは?」
彼の声で僕は、幾分か落ち着きを取り戻したらしい。質問はスムーズに口から出た。
「吾輩は、怪盗だ」
怪盗はすっと表情を戻し、せわしなく蝶ネクタイを直した。
「………。」
言葉が見つからず困惑していると、頭上からクローバーの、楽しげな声が降ってきた。
(怪盗だよ)
(怪盗なのにね)
(見たまんま)
(盗むのが得意)
からかうような言い方に、少しむっとして上を見ると、「まぁまぁ」と怪盗にたしなめられた。彼がしゃべると彼の口が、餌をほおばる金魚みたいに、ちぐはぐにパクパクと動いた。
「彼らには悪気はないんだ。正しくはおそらく、悪気という概念そのものが欠落している」
概念そのものが。
厚みという概念そのものが欠落した彼に言われると、そのフレーズは異様な信憑性を帯びた。どうやらここは僕の知る世界と比べて、色々なものが欠けているらしい。
(わかんない)
(わかんないよ)
(ふふふ)
クローバーがはやし立てる。はやし立てる、という表現は適切じゃないのかもしれないけれど、そう聞こえるのだからしょうがない。
「君たち、少し静かにしてくれないか。この少年はどうやら、私に話があるみたいだ」
怪盗が、平面のままで器用に上を見上げて、穏やかな声でそう言った。
(はーい)
(静かにするよ)
(静かに)
クローバーたちはそれぞれ、思い思いに返事をすると、それからピタッ、と無口になった。彼らのざわめきが消えると、あたりは平和な、日曜日的な静寂に包まれた。疎水の流れるさらさらという音、風が木の葉を揺らす音、そして時折聞こえる何かの鳴き声。その穏やかな静寂に満足したように、怪盗は一瞬ニコッと微笑み、それから僕の方へと向き直った。
「さて」
こちらを向いた怪盗の表情は、出会った時の真剣な、そしてどこかユーモアを含んだものだった。正面からよく見ると、その中にはどこか無邪気な、それでいて確実な自信のようなものがうかがえた。お母さんに頼まれたお使いを、一人で完璧に成し遂げた少年みたいな。
「今日は、いい天気だ」
そう言うと怪盗は、満足そうに眼を瞑った。再び僕らの間を柔らかい風が抜けていき、茂った草のムッとするにおいや、綺麗な花の甘いにおいなど、いろいろな香りが複雑に混じった春特有の空気が、鼻をかすめた。僕は黙って、怪盗の様子を見つめていた。
怪盗は目を開けると、空間の一点、僕の斜め右上あたりに、とりとめのない視線を送った。
「吾輩、春が好きだ」
僕は何も言えず、次の言葉を待った。
「春は自分の、なすべきことを知っている」
怪盗はゆっくりと、話し続けた。その声には、先ほど僕たちの間を吹き過ぎた風のような、落ち着きと柔らかさがあった。
「それは春に限った話ではない。季節にはそれぞれ、役割がある。工場と同じようなものだ。春には基盤を作り、夏にそれらを組み合わせる。秋になったら出荷され、冬に廃品を回収する。そうしてそれらを使って、また春の作業が行われる。どれが欠けてもいけないし,またどれが過剰であってもいけない。その意味では吾輩は、どの季節をも平等に愛している」
遠くでまた、スズメの鳴き声が聞こえた。
「季節には、それぞれ役割がある」
怪盗はその言葉を、とても大切な呪文のように、もう一度丁寧に繰り返した。
「あの、」
僕はたまりかねて、口を開いた。怪盗は投げていた視線を、こちらに向けた。
「ここは、何なんですか?」
怪盗はふっと微笑むと、ステッキをくるりと回転させた。ステッキの動きもコマ送りのように、カクカクしていた。
「ここは、世界だ」
言っている意味が分からず、僕は眉間にしわを寄せた。クローバーの笑い声が聞こえるかと思ったが、彼らは怪盗の言いつけに忠実だった。
「世の中には、色々な世界がある」
怪盗は僕の目をまっすぐ見たまま、口をパクパクと動かした。僕を見ているはずなのに、その目はどこか、焦点が合っていない印象を受ける。
「君がもともといたところも世界だし、今我々が話しているここも世界だ。その他にもこの世には、数えきれないほどの世界がある。君の想像力が、あと100個は必要なくらいに」
「パラレルワールド、ってことですか?」
SF小説で見たことがある。パラレルワールド、並行世界。可能性の数だけ、宇宙が無数に分岐するとか、そんな話だったと思う。
「パラレルワールド、か」
怪盗の表情は、穏やかなままだ。
「君の思うそれとは、この世界は幾分か異なっていると思う。だがそれは、吾輩と君の単なる解釈の違いかもしれないし、またそれが違っているのは『この世界』だけでの話かもしれない。いずれにせよ、ここにおいて、無数にある世界がなんであるか、それらにどのような呼び名をつけるかは、あまり重要なことではない」
そう言って怪盗は、シルクハットに手を当てた。彼の顔には、あるはずのない帽子の影(もちろん、帽子も二次元なのだ)がきっちりと浮かんでいて、怪盗が帽子に触れると、それはリアルに揺れた。
「では、何が重要なんですか」
彼は、微笑みを浮かべたままで、上を見上げた。
僕もつられて、上を見た。空は相変わらず青くて、所々におまけのような雲が浮かんでいた。僕の視線の先、ちょうど僕たちの真上に当たる位置にも、小さな小さな雲が見えた。南に昇り始めた太陽が、少し眩しかった。
「季節には、役割があると言ったね」
怪盗が、口を開いた。真上の雲が、ちょっと大きくなった気がした。
「それは、季節に限った話ではない」
雲は少しずつ、でも確実に大きくなっていた。よく見ると、ゆらゆらと揺れているような気もする。
「この世界では、すべてのものに役割があるんだ。草木にも、鳥にも、もちろん吾輩にも」
僕の視線の先で巨大化していた白い何かは、ある時点ではっきりとその姿を現した。くっきりと輪郭を持ったそれは雲ではなく、また巨大化していたわけでもなかった。
「君は、もともとこの世界の住人ではない。だが、すでにここに入り込んでしまった。正確には、吾輩がここに連れてきた」
それは、一枚の紙片だった。小さな一枚の四角い紙が、ひらひらと左右に揺れながら、それでも方向性を失わず、真っすぐに僕らの頭上へ落ちてきていた。その紙の中に一つの磁石が埋め込まれていて、それが僕の中にあるもう一つの磁石と、ささやかな力でひきつけあっているかのように。
「この世界に入ったからには、君にも役割が与えられる。ローマに入った人間は、ローマの法に従わなければならない」
紙片はどんどん近づいてくる。僕は反射的に、それに向かって手を差し出していた。神から聖なる杯を受け取る、神話の中の民衆みたいに。
「君は、君の役割を全うしなければならない」
紙片は優雅に、花びらのように舞い降りてきた。まるでそこだけ、重力が時間に遠慮しているみたいに、とてもゆっくり。そうして驚くほど自然に、僕の手のひらに収まった。
その紙片からは、重みというものを感じなかった。それはきれいな正方形で、僕の手のひらよりも二回りほど小さかった。そしてしわも、汚れもない、はっとするような白色をしていた。重さを感じなかったのは、紙片が小さかったからかもしれないし、もしかするとそれには、重さという概念そのものが備わっていないのかもしれなかった。
「裏側を見てみなさい」
怪盗に促され、僕は紙片を手に取り、裏返した。重みはなかったが、表面はとてもさらりとしていて、その感触はしっかりと感じ取ることができた。
裏返すとそこには、四葉のクローバーが描かれていた。
それはとても鮮やかな色をしていて、そしてとても、柔らかかった。絵というにはあまりにも鮮明で、でも写真というにはあまりにも、現実感がなかった。その色は僕が先ほどから見ている空中のクローバーと似てはいたが、その二つの間には本物と、精巧に作られた贋作とのような、本質的な隔たりがあった。真っ白な紙片に描かれた四葉のクローバーからは、輝かしい幸福の予感のようなものが、どうしようもなくあふれ出ていた。美しすぎて、現実に存在することを許されなかったため、紙の中でひっそりと眠っているような、そんな印象すら受けた。
僕はそのクローバーに見惚れた。その美しさ、内側からほとばしる限りなく明るい、そして優しいものの気配に、吸い込まれた。
次の瞬間、穏やかな白い光が、ふわっ、と手の中の紙片を包んだ。
その光はぱらぱらと、輪郭のぼやけた細かい粒に分かれ、徐々に空気中に溶けるように滲んでいき、やがて消えた。
光が消えると、手の中の紙片も、四葉のクローバーもなくなっていた。
僕の手の中には、あの異様に白い紙片の、さらさらとした感触だけが残っていた。一匹のモンシロチョウが飛んできて、僕の広げた指先に止まり、何かを確かめるようにじっとした後、また飛び立っていった。
「君は、四葉のクローバーを探さなくてはならない」
怪盗の声が、茫然とした僕の頭に、遠い世界の歌声のように、響いていた。
(びっくりしてる)
(びっくりしてるよ)
(ふふふ)
頭上から降ってきたクローバーの声で、僕は我に返った。
指の先にはまだ、先ほどの紙片の現実感のない、さらりとした感触が残っていた。それを確かめるように手を握り、もう一度開く。僕を包む春の陽気は、どこまでものどかだった。
「僕は、四葉のクローバーを、探さなくてはならない」
じんと滲んだ思考のままで、ぼんやりとそう口にしていた。言葉にすると、つかみどころのないままにふわふわと浮かんでいた何かが、わずかに輪郭を帯びた気がした。
怪盗はじっと、シリアスとユーモアを混ぜたような表情で、僕を見ていた。
「そうだ。それが、君に与えられた役割だ」
僕は怪盗のほうを見た。そうして少しずつ、先ほど彼の口にした言葉を思い出した。彼の声は不思議と、アロマのように僕の心を落ち着かせた。
「この世界は、僕がもともといたところとは、別の世界なんですよね」
言ってからふと、目の前のちぐはぐでどことなくユーモラスな存在に、敬語というものは不似合いだと感じた。
「そうだ。この世には、実に様々な世界がある」
世の中にある、様々な世界。
僕は怪盗の言葉に、少し思いを巡らせてみた。途方もなく広大で、どうしようもなく概念的な宇宙空間に、たくさんの世界が泡のようにぽつぽつと浮かんでいる。それらの中には大きなものも、小さなものもあるし、具体的なものもあれば、抽象的なものもある。忘れ去られた記憶のようにぽっかりと空いた宇宙空間において、それらは砂粒のように小さく、意味を失っているように見えた。そしてそれらの砂粒のうち、何の変哲もない一つの中に、クローバーが浮かび、僕と怪盗が話している。
ぼんやりと思い浮かんだのはそんな光景だけれど、それは考えれば考えるほど遠い景色だった。これを相手にするには、確かに怪盗の言ったとおり、想像力が100個ほど要りそうだった。
僕は諦めて、ひとまず記憶の糸を手繰りながら、この世界の形を確かめることにした。
「この世界では、すべてのものに役割がある」
怪盗の言葉を反芻する。怪盗は短く「そうだ」と答えた。
「この世界にいる者は、その役割を全うしなければならない」
「そうだ。どんなところにも、秩序というものはある」
「ローマに法律があるみたいに」
怪盗は、満足そうに頷いた。
「君はなかなか飲み込みが早い」
(わかるのが早いね)
(理解が早い)
(賢い子)
(ふふふ)
クローバーが揺れる。彼らの声はそよ風に溶け込み、自然の一部のように聞こえた。
「そして僕の役割は、四葉のクローバーを探すこと」
「そうだ。君はこの世界で、四葉のクローバーを探すのだ」
地図をたどるようにゆっくりと、怪盗の言葉、そして先ほど起きた出来事を頭の中で整理する。ピースの欠けたパズルを、懸命に組み立てているような気持ちだった。
「あの紙は何だったの?」
空中にいきなり現れ、ひらひらと、僕の頭上に舞い降りた紙片。はっとするほど真っ白で、消え入りそうなほど滑らかな手触りの、四角い紙。あの紙の感触は、ふわりと付与されたしるしのように、僕に指先に残っていた。
「あれは、メアからの通達だ」
「メア?」
眉をひそめた僕に、怪盗は説明を続けた。名前のわからない小さな蝶が、僕の視界の隅を、楽しそうに横切っていった。
「この世界には、秩序がある。そして秩序のある所には、必ずそれを統べる存在がある。流れる川に、源泉となる水源があるのと同じように、あるシステムの根幹には、それを支える定点のようなものが必要なんだ」
歌うように言葉を紡ぐ怪盗の声は、あくまで穏やかで、落ち着いていた。
「我々の世界にも、秩序を支える存在がある。我々に役割を与え、そしてその役割が問題なく果たされているかを監視する存在。それを我々は、『メア』と呼んでいる」
秩序を僕たちに与え、監視する存在。
「神様のようなもの?」
僕が言うと、怪盗は「ふむ」と、考え込むそぶりを見せた。彼の動作は、それがどんなものであれ、一つ一つがどこかしらコミカルに映った。
「君のイメージしている『神様』とは、世界の全て、文字通りすべてを把握していて、はるか遠く、空高い一点から我々を見下ろしているような存在、といった感じかな?」
「そんなところだと思う」
「そして必要に応じて、我々に天罰を与えたり、または幸せをもたらしたりする」
「それはたぶん、解釈の余地があるだろうけど」
「ふむ」
怪盗はコツコツと、地面にステッキを打ち鳴らした。次元の足りないステッキからは、次元の足りない音がした気がした。
「おそらくそのイメージは、半分ほど正しくて、半分ほど間違っているだろう。我々の言うメアは、あくまで我々に役割を通達し、それを監視するものであって、それ以上でもそれ以下でもない。そのような存在を想定した方がしばしば話が簡単だから、便宜上それに名前を与えてはいるが、メアが本当の意味で『ある』のかどうかも定かではない。というか、我々にとって、それはどちらでもいいことなんだ。メアが本当に存在していようが、していまいがね」
怪盗の話は、幾分か概念的ではあったが、それでも言わんとするところのいくらかは伝わってきた。ローマの法に従うには、まずはその仕組みを知らなければならない。
「我々にとってメアとは、生まれた時からそこにあり、適応することが求められるシステムなんだ。それがこの世界において、唯一とも言っていい決まり事だからね。そこには信仰のようなものはないし、だからメアに何かを祈ることも、また感謝することもない。メアは、いうなればシステムであり、環境だ」
「その『メア』が、僕に僕の役割を知らせるために、あの紙を使ったの?」
怪盗が頷く。相変わらず、ぴょこ、という音が聞こえてきそうな動きだった。
「そうだ。メアは役割の通達に、実に様々な手段を用いる。ある時は空気に意思を混ぜるし、またある時は直接映像を送る。我々のように最初からこの世界にいるものは、初めから自分の役割を知っているが、君のように外から来たものは、それを知らない。だから通達する必要がある」
「怪盗は、この世界で生まれたの?」
彼は最初から、この世界にいるらしい。文字通り次元が違う怪盗が、どのように生まれ、そしてどのように生きてきたのか、見当もつかなかった。
「そうだ。吾輩はある時点までは存在していなかったし、それ以降は確かに、この世界に存在している。吾輩はある瞬間、魔法のように、この世界に現れた。そしてその時から、吾輩の役割を知っていた」
「怪盗の役割?」
怪盗は笑って、器用に片眼を瞑ってみせた。
「盗むことさ」
「…盗む」
生まれながら、盗むことが役割。奇妙な響きだが、怪盗なのだから当然だという気もした。彼を生み出したのも「メア」なのだとしたら、「メア」にはなかなか、ユーモアのセンスがあると思う。
(彼は盗むんだよ)
(盗むのが得意)
(怪盗だもんね)
楽しそうな声が降ってくる。ふと、気になって聞いてみた。
「クローバーは?君たちにも役割があるの?」
喋ること。浮かぶこと。揺れること。いろいろ浮かんだが、返ってきた答えはどれとも違っていた。
(あるよ)
(もちろんある)
(お出迎えと)
(お見送り)
クローバーが言うと、それは保育園のイベントのように聞こえた。そういえば、僕がこの世界に入った時、真っ先に目に入ったのはクローバーだ。
「僕のことも、出迎えてくれたの?」
(そうだよ)
(出迎えたよ)
(それが役割)
(ふふふ)
僕は自分が、この世界に入った場面を思い出す。ひときわ強い風が吹き、桜がぶわっと舞い上がった。桃色の嵐の中で目を閉じていたら、次の瞬間には桜は消えて、代わりにクローバーが浮かんでいた。妖精のような声で、楽しげに何やらお喋りしながら。あれが彼らなりの、「お出迎え」だったのだろう。
そして彼らが言うには、彼らの役割はどうやら、「お出迎え」だけではないらしい。ふわふわと自由に浮いているように見える彼らも、思いのほか、多忙なようだ。
「お見送り、も君たちの役割って言ったよね?」
上を見上げたまま尋ねる。いくつかのクローバーが、小さく揺れた。
(そうだよ)
(そう)
(お出迎えと)
(お見送り)
ということは、入ってくるものがいるように、この世界を出る者がいるのだろうか。そしてクローバーに出迎えられた僕は、いずれクローバーに見送られ、ここを去ることになるのだろうか。そうでなければ、少し困るけど。
僕は再び、怪盗に向き直った。
「四葉のクローバーを見つけたら、僕はこの世界を出るの?」
「おそらく、そうだ」
怪盗はちょい、と、すました顔でひげをつまんだ。
「吾輩がほかの世界から盗んできたものに、メアは様々な役割を与える。しかしそれはたいてい、一過性のタスクのようなものであることが多い。ちょうど君に与えられた役割のようにね。そしてそれをこなしたものの多くが、クローバーたちに見送られて元の世界へと帰っていく。君もおそらく、そうなるだろう」
「…えっと、てことは、」
怪盗の言葉を、頭の中で反芻する。「吾輩がほかの世界から盗んできたもの」。彼の発した単語の一つ一つは理解できたが、それらが組み合わさったセンテンスは行き場をなくした雨粒のように不確かで、僕の心に染み込むまでに少し時間が必要だった。そういえば確かに彼は、先ほど僕を、「正確には、吾輩が連れてきた」と言っていた。
「僕は、怪盗に盗まれて、この世界に来たの?」
怪盗が胸を張った。二次元の彼がそうしても、印象は全く変わらなかった。
「そうだ。盗むことが吾輩の役割だからな」
僕の頭は、まだ混乱していた。怪盗がいたずらっぽく、にっ、と笑った。
「君はなかなか、盗みやすかった」
「どういうこと?」
首をかしげると、怪盗は楽しそうに、ステッキを一回転させた。自分の役割について語る彼は、どこか誇らしげに見えた。
「吾輩、色々なところから、色々なものを盗んでくる。綺麗だと思った魚のうろこを盗むこともあれば、麗しい令嬢の無垢な心を盗んだりもする。その気になればよその世界から、概念そのものを拝借することだってできる。しかし、この世界で盗むのと、よその世界から盗むのとでは、幾分か勝手が違うんだ」
どうやら彼は文字通り、世界を股に掛ける怪盗らしい。次元が一つ違う体が、異なる世界を行き来する秘訣の一つなのかもしれない。僕は怪盗が、僕らには見えない世界の割れ目を、するりと抜けていく様子を想像した。その姿もやはり、コミカルだった。
「この世界で何かを盗むのは、わりあい難しいことではない。もちろん盗んだ相手に怒られたり、真っ赤になって追いかけられることもないではないが、所詮それはこの世界の中でのものの移動に過ぎない。吾輩の役割が、他のものの役割と摩擦を生じない限り、この世界にひずみが生まれることはなく、調和は問題なく保たれる」
目の前の怪盗が、腹を立てた持ち主に追いかけられている光景が、僕にはなぜか想像できなかった。彼と、「怒り」という俗物的で、ユーモアに欠けた感情に接点があるというのは、不思議なことのように思えた。
「しかし他の世界から盗むとなると、幾分話が変わってくる」
怪盗はそこで、ワンポイントのアクセサリーを身に着けるみたいに、呼吸一つ分空白を置いた。
「どんなものであれ、それがどこかしらの世界に属するならば、そこにはある種のつながりのようなものが生じる。世界というものにシステムがある以上、そこに存在するためには、システムの中に埋め込まれる必要がある。法律の中で生きていくために、その法に適った戸籍や、住民票が必要なように」
怪盗の話はやはり抽象的であったが、僕は黙って聞いていた。抽象的な言葉のほうが、二次元の怪盗には似合っていた。
「そのつながりが強ければ強いほど、吾輩にとってそれを盗むのは困難になる。ある所にぴったりとはまっているものを無理に剥がそうとすると、周囲のシステムが故障したり、そのもの自体が損なわれたりする。すでに調和の取れているシステムに、外の世界の吾輩が介入し、その一部を持ち去るというのは、システムの中の単なる移動とはわけが違う。労力もいるし、リスクもある。だから吾輩が外の世界から盗んでくるのは、その世界とのつながりが弱いもの、あるいは弱っているものであることが多い」
川面にきらきらと、太陽の光が反射していた。それは太陽が、本格的な活動を始める前の、ささやかな準備運動のようにも見えた。
怪盗はこちらを向いて、いたずらっぽく微笑んで見せた。
「その点、君はとても盗みやすかった」
僕は今朝、僕に訪れた奇妙な感覚を思い出した。それは喪失感ともいえるかもしれないし、混乱と呼んでもいいかもしれない。しかしどんな言葉も、あの時の感覚、僕の心がばらばらになって、ふわりと風に舞い上がったような感覚を、的確に表してはいない気がした。味がシャッフルされてしまった、ジャムとコーヒーとマーガリン。
「僕と、向こうの世界とのつながりは、弱っていたということ?」
怪盗はまた、上手にウィンクしてみせた。チャーミングな片メガネが、きらりと光った。
「そうだ。老朽化してしまった建物と、それを支える釘のように」
ばらばらになった僕の心は、元の世界とうまく結びつくことができなかったらしい。僕は手ですくった砂浜の砂が、指の間からこぼれる情景を想像した。
「だから怪盗は、僕を盗んだの?」
質問は、あくまで中立的なものだった。怪盗はそれに、中立的に答えた。
「そうだ。それが吾輩の役割だからな」
どこかから、名前のわからない鳥の、不思議な鳴き声が聞こえてきた。
僕は目を閉じた。そして大きく一つ、深呼吸をした。
パズルのピースは、依然として不足したままだった。全体像は一向に見える気配がないし、ピースの形はどれもいびつで、うまく盤面に当てはめることができなかった。それは精巧に描かれた抽象画のように、おそらく何かしらを示唆してはいたが、僕にはそのメッセージを読み取ることができなかった。
しかし何はともあれ、僕はすでにこの世界に入り込んでしまったのだ。クローバーが浮かび、次元の足りない怪盗がいて、システムがあり、それを「メア」が統治する、この世界に。
(ふふふ)
頭上からクローバーの、軽やかな笑い声が降ってきた。
僕は目を開けて、空を見上げた。空はやはり抜けるように青く、そこには相変わらずしるしのような雲がいくつか浮かんでいた。少し高さを増した太陽が、加減を確かめるように、白い光を放っていた。先ほどのクローバーの笑い声も、僕のばらばらになった心も、すべてがその青さの中に、吸い込まれていくような気がした。
どうしようもなく澄みきった空を見上げていると、ふと、なぜか笑いがこみあげてきた。それは自嘲的な笑いでも、また失笑という類でもなかった。まるで春風に乗って気の利いた冗談が運ばれてきたかのような、さらりとした、清々しさをふんだんに含んだ笑いだった。
怪盗を見ると、彼も笑っていた。彼の笑顔はどこか澄ましたところがあったが、それ以上にユーモアに溢れていて、キュートだった。彼の顔を見ていると、どんどんおかしさがこみあげてきて、僕はこらえきれずに、声を上げた。怪盗もそんな僕を見て、心からおかしいといった様子で、腹を抱えて笑った。役割を終えたおかしさが、すぐさま次のおかしさを連れてくるように、その笑いは際限なく、どんどん増幅されていった。頭上のクローバーたちも、それぞれ思い思いに笑っていた。
どれくらい時間が経っただろう。やっと少しずつおかしさの波が遠のいたとき、僕は笑い疲れ、目には涙が浮かんでいた。怪盗の顔にも線で引いたようなしわが寄り、それはやはり彼に、チャーミングな印象を付与していた。クローバーも徐々に静かになり、そよそよと風に揺れていた。彼らもやはり、笑い疲れたのかもしれなかった。
怪盗と目が合った。言葉は発せられなかったが、そこにはある種の、確かなコミュニケーションが存在した。僕は劇場への入場券を買うように、怪盗の目をしっかりと見て、頷いた。怪盗もまた、確固たる微笑みを顔に浮かべて、頷いた。
こうして僕の、四葉のクローバーを探す一日が始まった。




