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四葉のクローバー  作者: とある貝
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世界の入り口

朝起きると、僕の心はバラバラになっていた。

いや、ふわふわになっていたと言った方がいいかもしれない。統一性を失っていた、という表現もできる。

とにかくその日僕は、自分の精神を形作っていた何かが、決定的に失われていることに気づいた。僕がいるのはいつも通りの僕の部屋だし、着ているパジャマだっていつもと変わらない。目覚めた僕の心に爪痕を残すような、生々しい悪夢を見たわけでもない。今日の眠りは、夢を伴わない、深く安らかなものだった。それにもかかわらず僕の心は、昨日までとは明らかに、何かが違っていた。

僕はひとまずベットから抜け出し、習慣としてやかんに水をそそぎ、火にかけた。お湯が沸くまでの間に、掛け布団を綺麗に揃えて、寝間着から私服に着替えた。白いカジュアルシャツに、グレーのパンツ。普段からよく着る服装だ。スズメだって鳴いている。何一つ特別なことはない、平凡な朝。しかしそれらの日常的な動作の最中にもずっと、何かしらのほつれのようなものが、陰気臭い部屋の隅で息をひそめる茸のように、胸の奥に執拗に残っていた。

やかんがピィーと、けたたましい音を立てた。僕の澱んだ、ピントのぼけた思考に一閃、鋭いナイフを入れるような音。僕は火を止め、戸棚からインスタントの粉を出して、簡易的なコーヒーを淹れた。

机に座り、コーヒーを啜る。そしてぼんやりと、暗闇で落としたコインを探すように、違和感の正体について考えた。

一体この感覚は何なのだろう。僕の心が無数の小さな破片に分かれて、空中をふわふわと漂っているような感覚。もともとそこにあった秩序や、方向性のようなものは失われて、思考がとりとめなく、それぞれ別々の方向に走っている。それは漠然として、ひどくぼんやりとした感触だったが、それでも起きたばかりの僕の心に、一つの確実な変化としてもたらされていた。

僕は身の回りの状況を、一通りざっと点検した。そこに何か、この違和感の原因となるような、些細な変化があるかもしれないと思ったのだ。しかし僕を取り巻く状況は、いつもと何ら変わっていないように見えた。部屋の間取りも、家具の配置も、マグカップの感触もいつも通りだ。天気だっていい。

僕はゆっくりとマグカップを傾け、コーヒーが喉を過ぎていくのを確認した。このわだかまりを、熱い琥珀色の溶液と一緒に腹の奥へと流し込み、そうして何事もなく、また日常が始まることを期待して。しかし心の中の、落ちる気配のない油汚れのような違和感は、流れていった液体のことなど気にもかけずに、図々しく同じところに居座っていた。そこにはおそらく、特別な類の洗剤が必要だった。

僕はため息をつき、それから立ち上がって、再びキッチンへと向かった。できるだけいつも通りに、食パンを二枚トースターに入れ、つまみをひねる。そしてしばらく、トースターの前で立ち尽くす。時計の音が、やけにうるさい。

トースターの色は白だ。サーモスタットの色は、赤。人口的な夕焼けのようだと思う。チク、タク、チク、タク。

チン、と音がして、食パンが焼きあがった。

僕はなるだけ無感動に、パンにイチゴジャムとマーガリンを塗る。できるだけまんべんなく、そして均等に。

チク、タク、チク、タク。

テーブルに戻り、コーヒーを飲む。ジャムを塗った食パンをかじる。コーヒーを飲む。マーガリンのほうをかじり、またコーヒーを飲む。

チク、タク、チク、タク。

音が混ざって、味がよくわからなかった。入れ替わっていたような気もする。コーヒーがジャムの味で、ジャムがマーガリンの味、そしてマーガリンがコーヒー。

チク、タク、チク、タク。

僕はマグカップを置いた。そして大きく一つ、息をついた。

僕の心はバラバラになっている。


味のわからないパンと、味のわからないコーヒーをとりあえず胃の中に収め、それからしるしとして、紅茶を淹れた。

チクタクとうるさい時計は、8:30過ぎを指している。網戸にした窓から、いかにも春らしい風が吹き込んできて、カーテンを揺らした。窓から見える空は、季節が春であることをひけらかすように青かった。そこには少しばかりの雲があったが、それらはあくまで付属品に過ぎず、圧倒的な青さの中で、刺身のつまのようにひっそりと浮かんでいた。時折聞こえるスズメの声が、陳腐なのどかさを演出していた。どこにでもある、お手本のような日曜日の朝だった。

僕はそれらの景色をぼんやりと眺め、それから紅茶を一口口に含み、部屋の中を一通り眺めた。サッシ窓があり、木製の大きめの本棚があり、簡素なシングルベッドがあり、申し訳程度のテレビがあった。必要なものはとりあえず揃っていて、必要のないものはほとんどなかった。観葉植物を買おうと思った時期もあったが、それは大抵のふとした思いつきと同じように、時の流れの中でいつのまにか忘れられた。今僕の部屋の中には、特筆すべきもの、何かしら目を引くものは何一つなかった。大学二回生の八畳一間の一室を、「普通」という尺度でランク付けしたら、ある程度上位に入るだろう。

そのような普通の部屋の真ん中にあって、僕の心だけが明らかに場違いでそぐわない存在だった。そこは間違いなくいつもの僕の部屋なのに、ひどく居心地が悪く感じられた。「普通」という属性に属する本棚が、ベッドが、沈黙という形をとって普通じゃない僕を非難しているようにさえ思えた。

チク、タク、チク、タク。

僕は立ち上がり、残った紅茶を流しに捨てた。それから財布と、家の鍵だけをポケットに入れて、身だしなみのチェックも、髪型を直すこともせずに、家を出た。青すぎる空には魅力を感じなかったが、あのまま僕の形に合わない、急によそよそしくなった自分の部屋で、じっとしているよりは幾分かましだった。


くたびれたスニーカーを履いて、ドアノブを回して扉を開けると、溢れんばかりの桜が真っ先に目に飛び込んできた。

京都の一角、哲学の道の沿に、僕の暮らすアパートは位置している。琵琶湖疎水がキラキラと流れ、古都としてのプライドをしっかりと持った並木道が、静かに横たわるような場所。時間の流れを少しだけ緩め、そこを歩く人々に一定の猶予のようなものを与えるここが、一年のこの季節だけ、堂々と自らを誇示するように見事な桃色に包まれる。それはいささか大きな意味を持ちすぎてしまったために、一時的に哲学の道を飲み込んでいるようにも見える。毎年春に、なんの迷いも疑問もなく、圧倒的な満開を迎える桜。彼らのその疑いのない華やかさは、しばしば人々の心や思い出を、置き去りにしていく。


空間を我が物顔で占拠した桜並木は、春の疎水沿いで並外れた存在感を放っていた。その重力に吸い寄せられるように、日曜日の哲学の道には、朝にもかかわらず人通りが多かった。観光客と思しき外国人のカップルや、愛らしい子犬を連れた上品な老人。彼らは咲き誇った桜に羨望の眼差しを送りながら、その存在感に急きたてられるように、どことなく落ち着きが無くみえた。

僕はばらばらになった心をかかえて、ひとしきりそれらの光景を眺めた。それから心のざわめきを、桜がもたらす季節的なざわめきに当てつけるように、桃色の空間に向かって歩いた。近づくとそれは僕の心を一層掻き立て、心の破片の一つ一つをいたずらに、無作為に躍らせた。僕の心が火にかけられたポップコーンのように、桜に煽られてとめどなく弾けていることを感じながら、一方で僕はどこか無感情に、他人事のようにその光景を眺めていた。

ハラハラと舞う小さな桜の切れ端の中を、僕はあてもなくゆっくりと歩いた。塗装された道の両脇には、名前も知らない控えめな花が精一杯背を伸ばしていて、その上をミツバチがくるくると回っていた。彼らは時折花に留まると、その足に目一杯の蜜を携え、そしてまた次の花へと飛び立っていった。ポチャン、と、魚が跳ねる音が聞こえた。


風が、僕の横を吹き過ぎた。まだ冬の名残の残った、鋭い風。僕は小さく一つ、身震いした。

そういえば、家を出た時よりも、風が強くなっている気がする。先ほどよりも沢山の小さな桜の破片が、くるくると、無造作に宙を舞っていた。それに合わせて、景色が僕の視界の中で少しずつ、輪郭を失っていく。目を凝らしてみたが、周りの景色はどんどんピンク色に溶かされ、桜の中に含まれていった。ミツバチの黄色も、疎水の青も、草花の緑も、全ての色は水を垂らした水彩画のようにぼんやりと滲んでいき、その上を空間を占拠した桜のピンクが、次々に上書きしていった。風は、どんどん強くなっている。花びらの圧力に息苦しくなり、僕はたまらず両手を顔の前で交差させ、仁王立ちで踏ん張ったまま、目を瞑った。

ビュウ、と、一際強い風が吹いた。

一瞬よろけかけたが、なんとか体制を立て直すと、もう先ほどまでの圧力は感じなかった。恐る恐る手を下ろし、目を開ける。

僕を包んでいた桜の花びらは、もう影も形もなくなっていた。その代わり、僕の周りは今度は、若々しい緑色で覆われていた。


小さな緑色の何かが、僕の周りに沢山浮かんでいる。

丸のような三角のような、独特な形をした何か。目を凝らすとそれらは、普段道端でよく見かける、三つ葉のクローバーだった。少し小さめの沢山のクローバーが、何らかの均衡を保つように、ふわふわと空中に浮かんでいる。彼らは根を下すことも、太陽を仰ぐこともせず、当たり前のようにそこにあった。

(何か来た)

(何か来たよ)

クローバーから、声が聞こえる。いや、声はおそらく、僕の鼓膜を震わせているわけではない。それは例えるなら、僕の真上からピンと張った糸が降りて来て、僕の脳のある部分に直接振動を伝えているような、そんな聞こえ方だった。

(人間だね)

(人間だよ)

なおも声は、僕の頭の中に降ってくる。クスクスと、笑い声も聞こえた。

僕はとりあえず目を閉じて、深呼吸をした。5秒ほどかけて大きく息を吸い込み、そしてその倍ほどの時間をかけて、ゆっくり吐いた。それからまた、時間をかけて目を開けた。

しかし見える景色は、先ほどと全く変わりなかった。相変わらず僕の周りでは、それが当然であるかのように、澄ましたクローバーたちが揺れている。

僕は諦めて、ため息をついた。

それからゆっくりと、改めて周囲を見渡して、驚愕した。

桜が、ない。

今まであんなに圧倒的に咲き誇っていた桜が、ただの一本も生えていなかった。沿道には桜ではなく、欅やブナなど、緑色の木々が植えられている。僕はもう一度あたりを見回し、後ろを振り返ってみたが、それでも桜は見つからなかった。緑、青、白、その他様々な色が目に飛び込んで来たが、景色の中にはピンク色だけが、どうしようもなく欠けていた。

何で?どうして桜が?

混乱したまま、僕はなおも周囲を見回した。密室に閉じ込められた人間が、何かしら脱出の手掛かりを探すみたいに。しかし僕の目に入ったのは、状況解明のヒントではなく、新たなもう一つの謎だった。

先ほどは花見客や、ジョギングをする老人など、朝にもかかわらず周囲はたくさんの人で賑わっていた。しかし今では見渡す限り、哲学の道、あるいはその周辺に、僕以外に人は一人も見当たらなかった。本来人がいるべき土産物屋にも、甘味所にも、がらんとした空洞があるだけで、人の気配は全くなかった。まるで桜が、僕以外のすべての人間を連れてどこかへ消えてしまったみたいに、周囲は不気味なほど閑散として、静かだった。

僕はほかにも、普段と変わっている点がないか、あたりを子細に点検した。見慣れたお店、道端の小さな白い花、琵琶湖疎水を横切る蝶。すべての風景は日常的で、僕にはなじみのものだったが、「桜」と「僕以外の人間」だけが、完全にそこから抜け落ちていた。いつも通りでありながら、決定的な違和感のぬぐえないその光景は、まるで構図の合わない絵画のようにちぐはぐで、得体のしれない不穏さを感じさせた。

(キョロキョロしてる)

(キョロキョロしてるよ)

頭上から、声が降って来る。見上げると沢山のクローバーが、のんきにふわふわと浮かんでいた。

(驚くよね)

(驚くよ)

(びっくり)

(ふふふ)

ここは何だ?人間は?桜は?

宙に浮かぶクローバーに向かって、問いたい疑問がいくつも浮かんだ。声に出そうとしたが、喉の奥でヒュー、という音が鳴るだけで、うまくいかない。結果的に、上を見上げて、不器用に口だけを動かす形になった。

(焦ってるね)

(焦ってる)

(焦らなくていいのにね)

(大丈夫なのに)

クローバーの声は、楽しんではいるが、穏やかだった。少なくともそこに、僕に危害を加えようとするような響きは、聞き取れなかった。

僕はとりあえず、目を閉じて、それから再び深呼吸をした。先ほどよりもずっと大きく、そして深く。

(彼が連れて来たのかな)

(盗んで来た)

(きっとそうだよ)

肺の底まで息を吐ききったところで、そんな声が降って来た。僕は意識して時間をかけて、声のする方へ視線を向けた。

「彼、って?」

今度はうまく、声が出せた。

(彼だよ)

(彼)

(盗むんだ)

(盗むのが上手)

クローバーが口々に答える。彼らの喋り方は、昔絵本で見た、森の妖精を思い出させた。森に迷い込んだ旅人の前に、楽しげに笑いながら現れて、気まぐれに森を案内したり、しなかったりする。

(ほら来たよ)

正面から、一つの人影が、こちらへ向かって来るのが見えた。それはクローバーの中を、まっすぐ一定のペースで歩いてくる。遠目からだとはっきりとはわからないが、その歩き方はどことなく、ぎこちなく見えた。関節のどこがが錆び付いていて、うまく動かせないような、そんな歩き方だった。

人影は、空中のクローバーには構わず、淡々とこちらに向かって来る。僕はただ、じっとそれを見つめていた。

やがてクローバーの霧の中から、その人物が現れた。

いや、人物、ではない。

それは絵だった。デフォルメされた、怪盗の絵。シルクハットを被り、左目には片眼鏡をして、赤色のマントをつけて、ステッキを持っている。黒いスーツをきちっと着こなし、胸元にはこれも赤色の蝶ネクタイがついている。キリッとしてはいるが、チャーミングな目をしていて、口にはくるりとカールさせたちょびヒゲが生えていた。

そして彼は本物の、二次元だった。厚みという概念を知らない、本当の平面。その圧倒的に、別の世界の存在である彼は、見ているだけでどことなく、異質なものを感じさせた。

怪盗はしばらく、真顔の中にユーモアを含んだ視線で僕を見つめ、それから表情を一瞬で笑顔に変えた。そしてアニメそのものの、ぎくしゃくした動きで帽子に手を伸ばし、それをぴょこっと持ち上げた。

「ようこそ」

遠くで、スズメが鳴いた。

お手本のような、日曜日の朝だった。

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