第2章 仲の良くない二人 2
「――どうした? 大丈夫?」
電話を切っても、唯子は顔を青ざめさせたまま。
声を掛けてみたものの、聞こえていないかのように茫然。
見かねてサングラスを外し、肩を揺すってこちらを振り向かせる。
「あ、すみません。親友が階段から落ちて、意識不明の重体だって言われて……」
「それじゃ、早く病院に行かないと。さあ!」
「あ、でも……。鳴海沢さんは――」
「時間がないだろ。このまますぐに病院に向かって! 俺のことは気にせずに」
「は、はい」
思考が停止している唯子をけしかける。
急かす。
再度、急かす。
薄いピンクの軽自動車は急発進。
病院に向けて走り出した。
「すみません。なんか、付き合わせてしまうことになってしまって……」
「俺のことはいいから。それより、親友のために急いで駆けつけてあげないと」
「そうですね。ありがとうございます」
何の因果か、唯子と共に病院に向かう破目に。
この場で車を降りる選択肢もあった。いや、むしろそうするのが普通だ。
そうしなかったのは、ちょっとした気まぐれ。
唯子の記憶の中に見えた、学生時代の三角関係。
起こりそうな何かに興味が湧いた。
何も起きなければそれまでのこと。それでも、友人のことまで心配してくれる優しい人物を演じておけば、今後プラスに働くかもしれない。
『俺のことはいいから』なんて、自分のセリフながら笑いがこみ上げそうだ。
なんという偽善。
なんという謀略。
ハンドルを握る唯子の横顔は、変わらず思い詰めていた。
『凪ヶ原総合病院』。
闇の中にライトアップされて、看板に書かれた名称だけが浮かび上がっていた。
「先に行きますね」
駐車場に車を停めた唯子はそう告げると、足早に駆け出す。
完全に部外者だというのに、一緒になって駆け出すのも不自然。早歩きで後に続くが、話の大事な部分を聞き漏らさないか少し心配だ。
しかし、それはすぐに杞憂に終わる。
ホールでエレベーターを待つ唯子。
なんでまだこんな所にいるのやら。
「五階だったっけ?」
「……あ、はい。お願いします」
時間外窓口で聞いておいたフロアのボタンを押す。
横には思い詰めた表情の唯子。
流れる重い空気。
呼吸音すらも立ててはいけない、そんな緊張感。
永遠にすら思えたわずかな時間。
目的の五階に到着すると、エレベーターのドアが開く。
「先に行きますね」
デジャブかと思わせる言葉を残し、唯子はまた駆け出す。
だが、エレベーターを降りて目と鼻の先、ナースステーションのすぐそばに目的の病室はあった。ドアには『面会謝絶』の札。
すぐ脇のソファーには、頭を抱えたまま腰掛ける男。
今日は肌寒いというのに、服装もトレーナーにスエット、そしてサンダル履き。慌てた様子がうかがい知れる。
そして唯子はその男に近づき、恐々と声を掛ける。
「中澤君……メグはどうしてこんな……」
「ああ、唯。久しぶり…………」
男は顔を上げかけたが、またすぐに俯き、床を見つめる。
中澤という男もまた思い詰めた様子で、周りの景色も目に入っていないようだ。
唯子は中澤の隣に座ったが、ソファーにはまだ余裕があったので、彼女の陰になるようにそっと座る。
「中澤君……。どうしてメグは、こんなことになっちゃったの?」
「さっき、二人で晩飯の買い物してアパートに帰った時に、『先に鍵開けてくる』って階段を駆け上がってる最中に転んで……。そのまま、下まで転げ落ちたんだ……」
唯子の問いかけに、中澤は重い口をゆっくりと開く。
言葉の合間、合間に漏れるため息。
沈痛な面持ちで、絞り出すような、か細い声。
唯子の目にも、涙が浮かび始める。
「俺は両手に荷物を抱えてたから、少し後ろから付いて歩いてたんだけど……。あっという間に転がり落ちて、どうすることもできなかった……」
「そういえば、メグってよく転んでたよね……」
「それで……、ぐったりして動かないから慌てて救急車呼んで、この状況さ」
中澤はそこまで言うと、両手で頭を抱える。
両眼もきつく閉じ、嗚咽を堪えているかのようだ。
空気の重苦しさは、さっきのエレベーターの比ではない。
長く続く沈黙。
長い長い沈黙。
やっと少しばかり空気が緩んだところに、唯子が質問を加える。
「……一緒に、暮らしてたの?」
「ああ……、すぐそこのアパートでね。結婚はまだ考えてなかったけど……」
「そっか……」
再びの沈黙。
友人に起こった不慮の事故に、途切れない涙を流す唯子。
組んだ両手に額を当てたまま俯き、祈るような体勢の中澤。
そして時折、ナースステーションからこちらを伺う看護師たち。
一見すれば、同情を禁じ得ない可哀そうな人たちの図だが、俺には違和感しか浮かばない。全ては中澤と目を合わせればはっきりするが、こちらに意識が向いていないこの状況、利用しない手はない。
コッソリと唯子を連れ出し、物陰でアドバイスをする。
「あの様子じゃ、入院準備も何もしてなさそうだ。川上さんがここに残って、彼を一回家に帰してあげた方がいいんじゃないかな?」
「確かに……。そうですね、アドバイスありがとうございます。鳴海沢さんて、いつも冷静で頼りになりますね」
「それほどでもないさ」
さっそく中澤のところへ戻る唯子の背中に、心の中で呟く。
『――上手くやってくれよ』