第3章 メスを持てない男 ~後日談
どんよりとした曇り空。
寺の山門は、昼だというのに喧騒とは無縁の、厳かな雰囲気に包まれている。感受性が豊かな者であれば、心が洗われると感じるのかもしれないが、そんなものは持ち合わせていない。
倦怠感が身体を包む。
そして後悔。
どうして、ろくに確認もせずに安請け合いしてしまったのか。待ち合わせ場所が、こんなに辺鄙な場所だったとは。
「こんな場所に呼び出して、すまんね」
「いえ……」
少し遅れて到着の剣持。
左手には新聞紙、右手には花束。
寺で花束とくれば墓参りだろう。口数少なく剣持の後に続く。
「ここだ」
そう言って剣持は立ち止まると、ポケットに忍ばせていた線香を取り出し、ライターで火を点け、手で扇ぎ消す。
「死なせてしまった患者の墓だ。良かったら、お前さんも供えてやってくれ」
半分の線香を受け取ると、墓前に供え、軽く手を合わせる。
面識のない人物の冥福を祈るなど柄ではないのだが、剣持の表情を見ると無下にもできない。
場所を譲ると、続いて線香を供える剣持。
さらに手に持っていた新聞を広げ、墓前に供えると、両手を合わせて目を閉じた。
供えられた新聞に躍る【凪ヶ原総合病院、事故に見せかけた殺人】の見出し。
院長は律儀なのか、小心なのか、すぐに警察へ通報したらしい。あの日の翌朝には、副院長、外科部長、看護師長が揃って逮捕されたことを伝えるこの新聞が、街を賑わす結果となった。
「ありがとう」
そう言って、剣持は手を合わせたまま、穏やかな表情で頭を垂れた。
一般的な感謝の言葉。しかしその重みは、感謝の二文字では到底言い表せない重厚さ。そして感じ取れる、心の奥底から湧き上がる剣持の思い。
発した言葉と共に、両頬を伝う涙。
俯いたまま、沈黙を続ける剣持。
だがやがて、肩が小刻みに震えだす。
「ありがとう」
一般的な感謝の言葉が繰り返された時、剣持は泣き崩れ、嗚咽も漏れていた。
さすがに、剣持が落ち着きを取り戻すには時間を要したが、三度目の感謝の言葉は、曇りのない爽やかさだった。
「実は、今日が彼の命日だったんだ。三回忌に真実が報告できて、本当に良かった。お前さんのお陰だ。ありがとうよ」
剣持が借りた手桶とひしゃくを住職に返していると、一組の夫婦が入れ違いに手桶を借りにきた。記憶の中で見覚えのあるこの人物は、確か患者の遺族だ。
命日だというなら、墓参で鉢合わせも不自然ではないか。
「覚えてて下さったんですね」
「こんなことぐらいしかできなくて、すいません」
気まずい沈黙。
お互いに、次の言葉を探しているようだ。
先に見つけたのは遺族。
「手術後の先生の顔、今でも忘れてません。自信を持って、やり遂げた顔をしてらっしゃった。やっぱり、手術は成功してたんですね……。新聞、拝見しましたよ。……でも、息子は死んじまった……。帰っちゃこない……」
遺族は俯いて拳を握りしめる。
行き場のない怒り。
そんな思いが、ひしひしと伝わってくる。
「心中、お察しいたします」
「剣持先生の手術の失敗だったんだ。運が悪かったんだ。そう言い聞かせて暮らしてた時の方がマシでした。こんなことを言っちゃ申し訳ないんですが……、静かに眠っていた息子を墓から引きずり出されて、また殺された。そんな気分です」
申し開ける立場の剣持でさえも、口を堅く閉じて沈黙。
遺族の、この思いに挟める口など、どこにもない。
それほどまでの威圧感。
「ここには、ちょくちょく親類縁者も墓参りにきます。顔を合わせたら、また思い出しちまう……。だから、気持ちはありがたいですが、もう来ないでやって下さい」
遺族はそう告げると、手桶とひしゃくを借り受け、墓地の方へと消えていく。
剣持は黙ったまま、それを見送っていた。
「良かったんですか? あれで」
「良かったさ。お前さんのお陰で出入り禁止になる前に、彼に報告することができたんだからよ」
まあ、これ以上は当人同士の問題だ。
口を挟むこともない。
「そんなことよりも、だ。旨い店に予約を入れてあるから、お礼にご馳走させてくれよ。そのために、今日は来てもらったんだからな」
「別に、礼には及びませんよ」
「及ぶ、及ぶ。お前さんは俺にとっちゃ、命の恩人だってばよ」
喜んでもらえて悪い気はしないが、大げさすぎやしないだろうか。
それにそもそも、剣持を救おうと思って行動したわけではない。
行動した結果、ついでに剣持も救われただけの話だ。
「そんな大げさな」
「大げさじゃねえよ。俺の手術は失敗じゃなかったって証明されただけでも、充分感謝に値するさ。それに、お前さんのお陰で決心もついた」
「なんの決心です?」
「元院長が、小さいながらも病院開いててな。そこでまた、メスを握らせてもらおうかと思ってたんだ。外科医にとって二年のブランクは致命的だが、何もしてなかったわけじゃねえ。まぁ頑張ってみるさ」
そこには記憶を見た夜の、自棄になっている剣持の姿はなかった。
――きっと、亡くなった患者を手術した後の会心の表情は、こんな感じだったに違いない。