第3章 メスを持てない男 3
今日の夢は昨夜の外科医か。
あの男の記憶しか見ていないのだから情報は偏っている。それに俺は医者じゃないから、あの男の行動が正しかったかどうかもわからない。しかしそれを差し引いても、怪しげな匂いがしたのは確かだ。
(さて、どこから手を付けるかな……)
傍らに脱ぎ捨ててあったコートのポケットに手を突っ込み、メモを取り出す。
『剣持 建夫。凪ヶ原総合病院、元外科部長』。
昨夜書きとめた情報を、電話番号と共に携帯電話に打ち込む。
(この病院は、確か……)
病院名には聞き覚えがある。唯子の親友、メグが入院してる病院だ。
病院なら一般人がうろついていてもおかしくはない。しかし、病棟となるとそうもいかない。患者や関係者かどうかは顔を見ればわかるだろうし、面会人にしても面会証が必要だ。
そして、直接メグを見舞うほどの親密さはない。と、なれば手段は一つ。
この間の事件の時に、成り行きで交換した唯子の携帯番号に電話をかける。
「急な電話で申し訳ないんだけど、凪ヶ原総合病院の評判を知りたくてね」
『どうしたんですか? 突然』
「医療ミスがあったっていう話を耳にしたんで、実際のところどうだったのかなってね」
『確か二年ぐらい前に、週刊誌に載った時は結構な噂にはなりましたけど……。なんか、推測ばっかりで信憑性に乏しかったですね――』
その程度の記事で、院長が責任を取らされたのか。
それに、急な話でドタバタしていた割には、後任人事はすんなり決まったようにも思える。
ますますもって怪しい。
見え隠れする謀略。
予感が違うものへと、徐々に姿を変えていく。
『――うーん……。鳴海沢さんて、水野江工業を調べてたり、今度は病院のことを聞いてきたり……。ひょっとして、探偵さんなんですか?』
探偵。便利な職業かもしれない。
話を聞く度にいちいち理由を考えるのも面倒だし、そういうことにしておくか。
「まあ、そんなところだよ。それで、この間の親友にも話を聞けるとありがたい、かな」
『わかりました。またお見舞いに行こうと思ってたところですから、今度の水曜日が休みなんで、良ければご一緒しましょうか』
「そうか、助かるよ」
『それじゃ、仕事に戻りますね。では……』
本当は、メグに話を聞きたいわけではない。
唯子と同い年のメグじゃ、出てくる情報なんて大差ないだろう。
そんなものは建前。病院に潜り込む口実ができればそれで充分だ。
水野江工業の情報が得られないので、唯子にはもう用はないと思っていたが、思わぬ収穫。携帯番号も早まって消去しなくて良かった。
地元民で職業も不動産関連、今後も役に立つ機会があるかもしれない……。
「私を、鳴海沢さんの助手にしてくれませんか?」
待ち合わせ場所にした凪ヶ原総合病院の玄関に到着するなり、唯子が声を上げる。
唐突過ぎる頼み事に言葉を失う。
突然、何を言い出すのか。
「助手って……何の話?」
「鳴海沢さんて、探偵なんですよね。私、小さい頃から憧れてたんです、探偵の助手に」
探偵に憧れるのではなくて、その助手に憧れるところが唯子らしさか。
しかし、そんなことを言われても色々と迷惑だ。
そもそも、俺は探偵じゃない。
「俺は、助手は取らない主義で」
「そうですか……残念」
「でもまあ、これからも相談することはあるかもしれないから、そのときはよろしく頼むよ」
「はい、わかりました。何でも言ってください、ボス!」
唯子は冗談めかして、大げさな口ぶり。
わざとらしく、ピンと伸ばした右手を額にやり、敬礼のポーズまで取ってみせる。
それじゃ警官だろう。思わずため息が漏れる。
この件が片付いたら携帯番号は消してしまおうか。付きまとわれてはたまらない。
「だから、助手は取らないって……」
メグの病室に到着。
あの時の個室とは違って、一室六人の大部屋に移っていた。
だいぶ回復したということだろう。
「メグ、元気にしてた?」
「あ、唯。いつもサンキューね」
「随分と元気になられたようですね、鹿島さん」
「あ、あん時の。おかげで、もうすぐ退院できそうだよー」
親友同士の和気藹々としたムード。
そこに割って入る、場違いな俺。
そしてメグのようなタイプは、あまり得意ではない。
「今日はちょっと、鹿島さんに聞きたいことがあってお邪魔しました」
「メグでいいって。名字で呼ばれんの、あんま好きじゃないんだ」
「じゃあ、メグさん。あんまり大きい声じゃ言えないですけど、この病院で起きた医療ミスについて何か知ってますか?」
「えー、そんなことあったかなー。唯、知ってる?」
唯子に話した建前上、一応筋は通しておく。
期待はしていなかったが、予想通りの展開だ。まあ、こんなものだろう。
そして、本番の調査に向かおうとすると、カーテンの向こうから声が掛かる。
「どんなことが知りたいんだい? お隣さん」
びっくりして部屋を隔てるカーテンを開くと、そこにはベッドに横たわる老女。
髪は真っ白で、鼻には酸素チューブ、点滴をしたまま顔だけこちらに向けている。
「何か、ご存じなんですか?」
「あたしゃ、この病院は長いからね。何でも聞いとくれよ」
「じゃあ、一体どんなミスだったんですか?」
「知らん! ――」
思わず手で顔を覆う。
大見得切っておいて、直後にこれか。
かまって欲しいだけの年寄りの戯言だったか。
「――剣持先生にもわからんもんが、あたしにわかるわけないじゃろ。患者はまだ子供だったみたいじゃが、手術も成功して順調に回復してたらしいよ。でも、ある日突然急変してそのまま亡くなった。いくら調べても、納得いく原因はわからなかったって話じゃ」
「週刊誌にも記事が載ったんですよね?」
「ああ、じゃがあんなもん、記事とも呼べんわ。あたしゃ当時から入院しとったが、話題にはなったよ。でも、入院患者の誰も信じとらんかったし、あっという間に噂も消えていった。あれじゃ、院長先生と剣持先生がかわいそうじゃ」
第一声に幻滅したが、よくよく聞いてみれば剣持の記憶通りだ。
これは、思った以上の有力情報かもしれない。
「人も随分と入れ替わったみたいですね」
「院長先生が責任を取って辞め、剣持先生も格下げになってその後辞めてった。副院長が院長になって、内科部長が副院長に。看護師長も、その時に入れ換わったんじゃったな。事務の方でも何やらあったらしいが、そっちまではわからん」
「詳しい情報ありがとうございました」
「こっちこそ、ちょっとした退屈しのぎができたわ。また、いつでもおいで」
貴重な情報提供に感謝して、老女に深々と頭を下げる。
「それじゃ、メグさんもお大事に。川上さんも、どうも」
さらに、二人にも感謝して頭を下げる。
とはいっても、病院潜入の口実に使っただけだが。
――そしていよいよ、本格的な情報を求めて病室を後にした。