第3章 メスを持てない男 2
タイル張りの壁。大きな照明。そして規則的に聞こえてくる電子音。
自宅の居間、寝室と同列に並べてもいいほどに当たり前すぎる日常空間、凪ヶ原総合病院第一手術室。
今日の患者は中学二年の男子。やや難手術ではあるものの得意分野。
さらに、何かが降りてきているのではないかと思えるほど、今日のメス捌きは冴え渡った。縫合を終えて深く息を吐き、手術室を後にする。
ガッツポーズをしたい衝動に駆られるほどの、会心の出来栄え。
家族への説明もつい饒舌になる。
『ご安心下さい。手術は成功ですよ』
『本当ですか。ありがとうございます。やっぱり、先生にお願いして良かった』
家族の喜ぶ顔を見ると、病棟へ戻る足取りも軽い。
そして、いつも以上の働きをした両手を眺め、表情を緩める。
今ではこの腕も評価を受け、見学に訪れる者も少なくない。
出世と反比例してメスを握らなくなっていく者は多い。しかし、執刀してこそ外科医。これが持論だ。外科部長となった今でも、率先して毎日のようにメスを振るう。
そのうち、衰えと共に否が応でもメスを握れなくなっていくのだから、それまでは一人でも多く、身に着けたこの技術で患者を救わなければもったいない。
久々の非番。
目覚ましも掛けず熟睡していたが、電話でたたき起こされた。
休みだというのに病院からか……。
まあ、いまさら珍しいことでもない。むしろ、これだけ寝かせてもらえただけ、今日はましな方だ。
『うーん……。どうした? ……なんかあったのか?』
『部長、先日の患者さんの容態が急変しました。至急、お越し願えませんか?』
『な、なんだって? そんな馬鹿な……。わかった、すぐ行く』
二日前の会心の手術。術後の経過も安定していた。
しかし、絶対などない。こんな事態は、うんざりするほど経験してきた。
だからわかっている。
充分すぎるほどわかっている。
だがそれでも、何かの間違いであって欲しいと祈らずにいられない。
慌てて最低限の支度を済ませると、病院へ向かうために車に飛び乗る。
(信じられない……。昨日帰る直前だって、元気そうにしてたじゃないか……)
駆けつける、集中治療室。
そこは、必死な指示が飛び交う戦場と化している。
当番医師や看護師の懸命な救命処置。しかし、効果が現れていないのは、弱気な表情を見れば明らかだ。
『状況は、どうなっている!』
執刀医として、外科部長として、一人の医師として、救命処置にあたる。
ありとあらゆる手を尽くすも、患者は一向に息を吹き返さない。
時間だけが刻一刻と過ぎていく。
(なんでだ……。順調に回復していたはずなのに……)
椅子に座り、天井を見上げる。
机に積み上げたカルテ、検査結果、そして写真類。目の前にあるのは、患者がこの病院で過ごした生き様の全てと言ってもいい。
何度もカルテを読み返した。
何度も写真を見直した。
それでもやはり、この事態を引き起こした原因と呼べるものは浮かび上がってはこなかった。
医者になりたての頃であれば、ひどく落胆し、涙もこぼしていただろう。だが、自分は必要以上にくよくよするほどの駆け出しではない。
失敗したのなら潔く認めるし、相応の責任も取る。
しかし、原因の特定もできないままでは、遺族に納得のいく説明もできない。
『人の身体とは不思議なものだな。思いもよらぬほど強く、思いがけず弱い。君が常に最善を尽くしていることは良く知っている。今回は残念な結果に終わったが、あまり根を詰めるなよ』
優しい言葉に振り返ると、院長の姿があった。
医師としての知識や技術を教わったのが学校だとすれば、医師としての生き方を教えてくれたのがこの院長だ。
今回も短いながらも癒される励ましの言葉に感謝し、起立して一礼。
院長は頷きながら静かに去っていった。
『納得いく説明をしてくれ!』
応接室のテーブルに無造作に放り投げられた週刊誌。
表紙には【医療ミスか!? 不可解な死!】という見出しが躍る。
あれから一ヶ月。週刊誌を握りしめてやってきたのは、あの時の少年の両親だ。
この二人には院長同席の下、事情説明を行い納得してもらっていた。
もちろん、心の底からではないだろう。だが、『剣持先生に診ていただいた上でのこと。仕方ないです』とまで言ってくれていた。
しかし、週刊誌にこんな記事が掲載されては、再び憤るのも無理はない。
『記事には、人為的なミスと書かれているんだが』
『死亡後、ありとあらゆるデータを見直しました。それでも、本当に原因はわからなかったんです。むしろ、なぜこんな記事が書かれたのか不思議で仕方ないところです』
こんな回答で納得してもらえるとは思えない。
だがそう答えるしかない。それが真実なのだから。
『死は最善を尽くした結果。そういうことなら仕方がない。でも、こんな噂が持ち上がったのなら黙ってはいられません。今日は帰りますが、納得行く結論……必ず、出してもらいますよ』
そう言い残し、遺族は帰った。
しかし、病院内には不穏な空気が流れ始める。
『病院名は出ていないものの、地元民ならここだと誰でもわかる。ひどいイメージダウンだ』
『何もせずにやり過ごす……。って、わけにはいかんでしょうな』
『当事者には、しかるべき責任を取ってもらわないとねぇ』
会議室は学級会レベルの糾弾会場だ。もはや、話し合いではない。
出席者は様々な言葉を語るが、結局その意味は全て同じだ。
この事態の収拾を図る方法は一つしかない。覚悟を決めるか……。
『この事態を招いたのは私のせいですので、辞職を持って責任を取らさせていただきます』
言葉と共に、深く頭を下げる。
無駄に長引く会議にも、これで終止符が打たれることだろう。
満場一致で会議終了。そう思った時だった。
『――責任は私が取る。だから剣持君には部長職を辞してもらった上で、病院には残ってもらいたい。先のない私と違って、剣持君はまだまだ成長できるはずだ。今回の件で、その道を閉ざしてはいけない』
異議を唱えたのは院長だった。
納得のいかない者も何人かいたようだが、院長の辞任であれば対外的にも申し分ない。そう結論付けられた。
結局、院長は病院を追われ、副院長が院長に昇格。空いた副院長のポストには内科部長が就任。私は外科部長を解かれ、医長に降格。
そして、長い長い会議が終了した。
許された在籍。だが、その代償は尊敬する院長の失脚。
これでは、私が院長を追い出したようなものではないか。申し訳なく、居たたまれない気分だ。
嫌がらせや不遇も度重なる。
だが、辛酸を舐めてでも医師として成長する。きっとそれが、身を挺してくれた院長への一番の恩返し。そう言い聞かせて耐え続けた。
当直は誰よりも多く、受け持ち患者も要注意人物ばかり。心身ともに疲労は増すばかりだが、そんなものは大した苦難ではない。
だが、どうしても耐え難い嫌がらせが一つある。
メスを握らせてもらえない。
何度も直訴したが、過去の失敗を理由に許可は下りない。
せっかく院長に繋いでもらった外科医生命だが、執刀できなければ意味がない。存在価値を見出せないここに、自分の居場所はない。
今日まで元院長の顔を思い浮かべては、何度も思いとどまってきた。
しかし、それも限界だ。心は折れた。
元院長に心の中で何度も詫びる。
――そして今日、凪ヶ原総合病院に別れを告げた。