涼風至(すづかぜいたる)
「涼風ちゃん?」
萩野千秋はお弁当の箸の手を止める。
「なんだアキ、知らないんだ」
冬子は少し意外そうな顔をした。
「最近、結構有名よ」
「聞いたこと無い」
「ふーん。
涼風ちゃんの正体が何かは誰も知らないんだけど、とにかく願い事を叶えてくれるそうよ」
「願い事?」
「そそ、夜中の零時頃、部屋の東と西に風鈴を吊るして、窓を少し開けるの。
そして『涼風ちゃん、涼風ちゃん、お越しください』って唱えるの。それで、東の風鈴がチリンと鳴ったら、部屋に涼風ちゃんが来たってことになるのよ。
で、涼風ちゃんが部屋に来たら願い事を言って、お供え物をするの。
西の風鈴が鳴ったら、涼風ちゃんがお供え物を受け取って帰った証拠で、涼風ちゃんが無事に帰ったら願い事が叶うんだって」
千秋は胡散臭そうな目で冬子を見る。
「叶うんだって、と言われてもねぇ。
大体、供え物って何よ?
油揚げ?」
「特には決まってないそうよ。
願う人が大切に思うもの、手放したくないものなら何でも良いんだって」
「意味分かんない」
「むー。反応鈍いなぁ。興味ない?
千秋は何か叶えたい願いとかないの?」
冬子の言葉に千秋は内心ドキリとした。
「そんなの……、無いわよ」
嘘だった。
本当はある。
だが、その事を知られたくはなかった。
例え、親友の冬子にさえもだ。
頬が少し熱い。赤くなっているかもしれない。千秋は冬子に内心の動揺を気づかれまいとして懸命にお弁当を見つめる。
「ふーん。ま、とにかく、その涼風ちゃんの事だけどね……」
ハムサンドを頬張りながら、冬子は再び話し始めた。
深夜。
「涼風ちゃん、お出でください
涼風ちゃん、お出でください」
叶えたい願いがあった。
それを叶えるために千秋は『涼風ちゃん』を呼ぼうとしていた。
しかし、風鈴は一向に鳴らない。
(私、なにやってるんだろ)
さすがに馬鹿らしくなった。窓を少し開けていたからと言って、この状況で風鈴が鳴る訳がない。
もうやめよう。
そう思った時、チリンと風鈴が鳴った。
千秋は慌てて部屋を見回す。
何か変なもの現れた訳でも、灯りが突然消える、ような異変が起きることもなかった。
見た目には普段と変わらない自分の部屋だった。
だが、なにか部屋の空気の質が変わったのが分かる。
何かザワザワした感触に千秋の肌が自然に粟立つ。
『涼風ちゃん』がいることを千秋は確信する。
心臓の鼓動が一気に早くなる。
自分で望んでおきながらおかしな話だ。
千秋は首を横に振り、気を取り直す。
怖い思いをするのが目的ではない。『涼風ちゃん』にお願いをするのが目的だ。
「お願いします。どうか、私を鰆崎春彦先輩の恋人にしてください。
お供え物はこれです」
千秋は持っていたハサミで自分の長い髪をバッサリと切った。
中学からずっと伸ばして大切にしていた自慢の黒髪だった。
昼、冬子と話をしていて自分の大切な物の話題が出た時、真っ先に思い付いたものがこれだった。
少し間があり、チリンと西の窓の風鈴が鳴った。
鰆崎春彦。
千秋の一年先輩にあたる。
高校二年生。
サッカー部所属。最近、受験準備で引退した三年生に替わり主将に任命された。
細面で、キリリとした眉、すーと通った鼻筋。おまけに長身。
十人の女子が十人、格好良いと表現する部類に属するイケメンだった。
千秋は、中学の頃から春彦に想いを寄せていた。
誰にも内緒にしているが高校を選んだ理由の7割は春彦と同じ高校に行きたい、だった。
高校に入ったら先輩に告白を、と意気込んでいた千秋であったが、入学後の内偵の結果、先輩のアモーレの座に挑んだ数多の先人達の見事な迄の轟沈ぷりを目の当たりにして二の足を踏んでいた。轟沈した先人達が皆、自分よりもハイスペックだったのも千秋を萎えさせた。
正攻法では無理。それが、千秋が出した結論だ。
だからこその『涼風ちゃん』だった。
で、あるのだが結果はお願いした当の千秋本人でさえ驚くものとなった。
『涼風ちゃん』にお願いして、二日後。
学校の図書室で本を取ろうとしたした時、偶然同じ本を取ろうとした春彦先輩と手と手が触れ合うという、いつの時代の恋愛ゲーム?と思わせる古典イベントが突如発生した。
さらに、『僕も急いでいるので、よければ一緒にこの本を読まないかい?』
からの『そういえば、いつも試合の応援に来てくれてるね。ありがとう。』 + 笑顔コンボが炸裂。
その後の事を千秋は余り覚えていない。
夜に寝る時になってようやく、『涼風ちゃん』スゲー、と思った。
ラスボス化していた春彦先輩を無名の一年生が落とした事で学校は騒然となり、何であんな女がという嫉妬と羨望の目に千秋は曝される事になる。
人から注目をされない平凡な人生を送っていた千秋は最初、その環境の変化に戸惑ったが、すぐに慣れた。
妬みからくる些細な苛めは、先輩との甘い一時をより強く感じるためのスパイス、スイカにかける塩程度のものだ。逆に妬まれる事に千秋は選ばれた者という優越感を感じた。
妬まれる者は常に妬む者より上の存在だからだ。千秋は持つ者である事に酔いしれた。
だが、その幸せも長くは続かなかった。
千秋と先輩が恋人関係になって僅か二週間後の事。
お昼に先輩のお弁当を持っていた千秋に、先輩は深刻な顔をして、とんでもない事を言った。
『好きな人が出来た』
『君とはもう、付き合えない』
それだけいうと先輩は背を向け去っていった。
え、言うことそれだけ?
と内心思いながら、千秋はそれを口に出すことはなかった。それよりも、まず、何故?と言う疑問で頭の中が一杯になった。
昨日までそんな素振りを見せもしなかったのに何故?
そもそも、好きな人って誰?
小川に打ち込まれた杭の後ろに出来る渦のように様々な疑問が沸き起こった。
もっとも、先輩が新しく好きになった人が誰なのかはすぐに分かった。廊下に出た先輩はそこで待つ女の人と一緒に話しを始めたからだ。
かなり明るいウェーブのかかった髪。先輩と同じ位のスラリした長身。大きな瞳に長い睫毛の美人。
榎本夏美。
千秋は、その女の人を知っていた。
学校でも人気の美女で、お金持ちのお嬢様。
千秋が先輩を落とすまでは、先輩の恋人の最有力候補だった。
女子力比べなら千秋に勝てる要因はどこにもなかった。
しかし、だ。
徐々に形勢を逆転されて略奪されるならともかく、たった一日でこんなに見事に逆転されるなどと言うことがあるだろうか。
(何かおかしい。一体、なにが……)
無意識に夏美を見詰めていたのだろう、ふと千秋と夏美の目があう。
夏美は一瞬、驚いたような目をしたがすぐに、勝ち誇ったような目になる。いや、蔑みの目だろうか。
『涼風ちゃん』!
千秋は突然、夏美が自分と同じように『涼風ちゃん』の力を借りたと確信した。
「涼風ちゃん、涼風ちゃん、お出でください」
「涼風ちゃん、涼風ちゃん、お出でください」
風鈴がチリンと鳴る。
(来た)
肌を見えない虫が這いずるような感触に怖気立ちながら、千秋は願いを言う。
「どうか、もう一度先輩の恋人にしてください。
鰆崎春彦さんを私に返してください。
お礼はこれです」
千秋の目の前にあるのは服やアクセサリー、アイドルの限定アイテムだった。千秋はそれらのものを破ったりハサミで切ったりした。
しかし、なんの反応もない。
千秋は少し焦る。
どれもこれも千秋のお気に入りで手放すのが惜しいものばかりだった。だが、『涼風ちゃん』はそれでは満足しないようだ。
少し考えて、千秋は、あることに思い至る。
今回、用意したものは確かに千秋には大切なものかもしれないが代わりを手に入れることが出来るものばかりだった。つまり、『涼風ちゃん』が要求するのは、代わりが効かなく、差し出す人が差し出すのに苦痛を伴うものと言うことなのだ。
「どうしよう、そんなもの急に用意なんてできないよ」
千秋は冬子が教えてくれた『涼風ちゃん』のルールを思い出す。
『……涼風ちゃんを呼び出して、満足させられるお供え物を用意できなかった場合、涼風ちゃんは怒って、その家に居る者を皆殺しにするって話よ』
当然、今回用意しなくてはならないお供え物は、前回の髪の毛よりも自分にとってはお供えしにくいものでなくてはならない。しかも、金品で代替えできないもの。
千秋はキョロキョロと辺りを見回す。
と、自分の手に視線が落ちる。
『涼風ちゃん』は自分に役に立つものを求めている訳ではない。お願いをする者がどれ程、その願いを叶えて欲しいのかを見たいのだ。
ならば……
千秋はナイフの先を左手の小指の爪の先に押し込む。
鋭い痛みに耐えながら、そのままナイフを縦に立てる。
「ひぐっ」
思わず声が漏れる。
ペリッと小指の生爪が剥がれ、血が吹き出る。
「小指の爪を捧げます。
これでどうでしょうか?」
ジンジンという痛みに堪えながら千秋は見えない相手に問いかける。
チリンと風鈴が鳴った。
次の日、昼の休憩時間に鰆崎先輩が千秋の教室に現れた。
一瞬、教室がざわつく。
いつも自信満々な先輩が千秋の前で困惑して、馬鹿見たいに黙って突っ立っている。
あえて千秋は黙っていた。
ようやく、意を決したのか鰆崎は口を開いた。
「その、何て言うのか、ゴメン。
もう一回やり直せないかな。俺達」
「いいですよ」
千秋は小指のバンテージを微かに撫でながら答えた。
胸を撫で下ろし、喜ぶ先輩。
だが、千秋の視線は先輩に向けられてはいなかった。
視線は鰆崎を通り越し、一人の女性に真っ直ぐに注がれている。
廊下から千秋達を覗くその女性、榎本夏美の顔は紙のように白く、拳は今にも皮膚を破り血が吹き出るのではないかと思える位固く握りしめられていた。
千秋の幸せは僅か三日で終わる。
三日後の朝、鰆崎先輩と榎本夏美が仲良く登校してくるのを千秋本人が目撃する。
夏美が千秋の横を通りすぎる時、可笑しそうにクスリと笑うのを千秋は見逃さなかった。
その後、千秋は夏美が何を供え物としたかを調べた。
その結果、鰆崎先輩と夏美の登校を目撃したその前の日、夏美の家のペットの犬が死んだと分かった。
夏美がかなり可愛がっていたという情報もあった。
恐らく夏美は愛犬を『涼風ちゃん』に供え物としたのだ。
それを知った千秋は迷った。
自分に夏美を越える物を供える事が出来るのか?
千秋はもう一度『涼風ちゃん』を呼ぶことが出来なかった。
《やっぱり、捨てられた》
《身の程知らずが、ざまあみろ》
《あんなブスが、先輩の恋人だって言うのが間違ってたんだ》
学校中にそんな、声にならない声が溢れていた。
千秋は耳を塞ぎ、大声で喚きたい衝動を毎日何度も抑えなくてはならなかった。
何故、それ程に言われなくてはならないのか?
私が先輩の恋人であるのがそんなに行けないことだったのか?
夏美先輩と春彦先輩はお似合いと言うのか?
何がお似合いだと言うのか。あの女だって『涼風ちゃん』の力で先輩を手に入れただけだ。自分となにも変わらない。
容姿も愛情も関係ない。
問題なのは『涼風ちゃん』に何をお供えできるか、だ。
そんなことも理解できず、勝手に笑い、蔑む者達のなんと多いことか。千秋はなにもかも我慢ならなかった。
そんな人々をどうしても見返してやりたかった。
「涼風ちゃん、お出でください」
「涼風ちゃん、お出でください」
チリン。
風鈴の音。
「鰆崎先輩を返してください。
お供え物は……」
千秋は薄く笑うと手に持ったナタを振り上げ、自分の小指に降り下ろした。
血渋きが舞い、千秋の頬を濡らす。
風鈴はならない。
「はあぁ?
何、足りないの?
一本じゃ足りない?
ああそう。じゃあ、もう一本、持っていきなさい。」
千秋は怒ったように叫ぶと今度は薬指にナタを降り下ろす。
薬指がゴロリと転がると風鈴がチリンと鳴った。
その夜の内に千秋は病院に入院した。
何で指を切断したのか、また何故、切断した指を更に細かく切り刻んだのか尋ねられたが千秋は固く口を閉ざした。
それが『涼風ちゃん』へのお供え物であり、お供え物とした物をまた、くっつける訳にはいかない、などと言うわけにはいかなかった。
入院した次の日の夕刻、鰆崎先輩が姿を現した。
今にも泣き出しそうな酷い顔だった。
千秋は先輩が現れてもなんの感情も起きなかった。
黙っていると、先輩は突然大声で話始めた。
「俺、最近、どうかしてるんだ。
君たちに対して凄く酷いことしてると思うんだけど、自分でもどうにも出来なくて。
許してくれとも、また、元に戻れないか、なんて言える立場じゃないんだけど……。でも、今は君の事しか考えられなくて、な、夏美にも、散々言われたけど……
もう、君なしじゃ、気が狂いそうなんだ」
千秋はシドロモドロな春彦の口にそっと指を立て、黙らせる。
「夏美先輩の事は言わないで。
赦すよ。だってこれはあなたのせいじゃないんだから」
鰆崎は千秋の言葉を自分の謝罪を受け入れてくれたと考え、千秋の膝でわんわんと泣き出した。
千秋はそんな春彦の頭を黙って撫で続けた。
深夜。
8月7日。
まだ暑い夜。
微かにチリンと風鈴の鳴る音がした。
ギシリ
ギシリ
一人の女が階段をゆっくりと登っていく。
明るいウェーブのかかった髪が階段を登る度に微かに揺れる。
「『涼風ちゃん』待っててくださいね。
すぐにお供えしますから。」
女は小さく歌うように囁く。
両親が眠る寝室は階段を上がってすぐの部屋だ。
女の手には包丁がしっかりと握られていた。
2017/08/07 初稿
2017/08/09 後書き追加しました。
2018/05/07 誤字などを修正。
2020/08/07 誤字修正
まだまだ暑い日が続きますが暦上は秋が立ちました。
後半戦突入です。
もうやらないと言いながら、また話が長くなってしまいました。
楽しんでいただければ良いのですが・・・
ちなみに主人公の親友の名前は、柊冬子です。
友人たちには『とうこ』、または『とーこ』と呼ばれるています。
今回のおまじないは完全創作です。
呪術については門外漢ですが自分は、呪術の成否は正しいやり方よりもやる方の念の強さ次第だと思っております。
ですので、面白半分に今回のおまじないをやられて、なにか想定外の事(何が来ちゃったとか)が起こりましても、責任は取れませんのでご了承下さい。
次話投稿は8月13日を予定しています。
次話 寒蝉鳴
ヒグラシ鳴くって、やりにくそうですね。
題名的に(笑)




