麦秋至(むぎのときいたる)
「この辺はみーんな、お祖父ちゃんの土地なんだよ。」
車を走らせながらおとうさんはいいました。
「へー、すごーい。」
スミレちゃんは窓から頭を出して大声を上げます。
見渡す限り麦の畑です。
春が終わり夏へと移り変わる5月の下旬。
少し熱をはらんだ初夏の風が麦の穂をさざ波のように揺らしています。
スミレちゃんは田舎のお祖父ちゃんの所に遊びに行く途中でした。お祖父ちゃんの家はとても遠く、行くのは大変でしたが大きなお屋敷や裏手の山、そして、川と楽しい所ばかりでスミレちゃんはお祖父ちゃんの家に行くのが大好きでした。
やがて、車は大きな家の前で止まりました。玄関前で女の人が箒で掃除をしています。
「おばちゃーん。」
スミレちゃんは車から飛び出ると女の人に抱きつきました。
「ああ、スミレちゃん、よーきたな。」
女の人もぎゅっとスミレちゃんを抱き締めます。
女の人はスミレちゃんのおとうさんのお姉さんです。
いつもニコニコして優しいのでスミレちゃんは大好きでした。
「わたし、ダイスケ君の所に行ってくるね。」
お祖父ちゃんの家にでの楽しみの一つが近所のダイスケ君と一緒に遊ぶことでした。
「え、ダイスケ君か?」
突然、ダイスケ君の名前が出ておばさんは戸惑いました。
だけどスミレちゃんはおばさんの様子にも構わず駆け出します。
「ああ、ちょっと待ちんさい。」
おばさんが止めるのも聞かず、あっというまもなく見えなくなってしまいました。
金色の絨毯のような麦畑の横をスミレちゃんは一生懸命に走ります。
ダイスケ君の家は、この大きな麦畑をぐるりと回ったところにあります。とても遠いのです。
スミレちゃんは、ふと、麦畑の切れ目を見つけました。土を盛って作った畦道(あぜみち〉です。
畦道は大人の人が一人通れるぐらいの幅しかありませんでしたが麦畑へまっすぐに伸びています。道の先は遠くて見えませんがきっと畑を横切っているだろうとスミレちゃんは思いました。
麦畑を横切ればずっと早くダイスケ君の家に行ける。
スミレちゃんは畦道に足を踏み入りました。
畦道の土は柔らかく走りにくかったのですがスミレちゃんは構わず、ズンズン進みます。
ズンズン、ズンズン。
元気に育った麦の背はスミレちゃんの背丈とほぼ同じ高さでした。
畦道を行く内にスミレちゃんの右も左も前も後も黄色い麦の海に囲まれてしまいました。
ズンズン。
ズンズン。
いくら歩いても一面麦畑が続きます。スミレちゃんは少し不安になってきました。
その時です。
「おおーい。」
再び声がしました。
スミレちゃんは辺りを見回しました。しかし、誰もいません。
気のせいかと思ったその時。
「おおーい。」
確かに聞こえました。
「誰?」
スミレちゃんは声に向かって応えます。
すると、前方の麦がガサガサと動き何が凄い勢いで近づいてきます。麦に隠れてよく見えませんが黒いまるっこいものが麦の穂先から見え隠れしています。
スミレちゃんは少し怖くなって叫びました。
「誰、誰なの?」
黒いものは止まるとしゃがれた声で答えました。
「ボクだよ、ボク。」
「え、ボクって誰?」
スミレちゃんは声の主に心当たりがなく聞き返しました。
「ボクだよ。ボクだよ。」
しかし、声は同じ言葉を繰り返すだけです。
「え、もしかしてダイスケ君?」
スミレちゃんは困ってしまって当てずっぽうで答えました。
「・・・、そそ、ダイスケだよ。」
答と共に麦畑をかき分けダイスケ君が現れました。
にこやかに笑いかけるダイスケ君を見てスミレちゃんはほっとするのと嬉しいのとで思わずダイスケ君に抱きつきました。
「わー。ダイスケ君、会いたかった。」
「ああ、ボクも会いたかったよ。」
抱きつき返しながらダイスケ君も答えました。
「こんにちわ。
うちのところのスミレ、来とらんかね。」
玄関に現れた女の人、ダイスケ君の所のお祖母さん、にスミレちゃんのおばさんが言いました。
「スミレちゃん?
いや、来とらんがね。」
「はー、そうか。来とらんか。
ダイスケ君に会うとか行って飛び出したんだけどね。」
ダイスケ君の名前が出たとたんお婆さんの表情が曇りました。
「ダイスケって、あんた、話してないのか?」
「はー、話しずらいことやけんの。
話す前に飛び出していってまったし。
まあ、なんにしても来とらんかね?」
「来とらんね。」
「来とらんかー。おかしいなぁ。道々、注意しとったが、どこにもおらんし、ここしか来るとこないんだけどな。」
スミレちゃんのおばさんはしきりに首をひねりました。
スミレちゃんのおばさんは仏壇に手を合わせ、黙祷をします。
「半年前やね。早いような、遅いような。
んで、美知子さんはどうなの。少しはよーなったか?」
ダイスケ君のお祖母さんは首を横に振ります。
「まんだ、ダメだね。ボーと魂が抜けた見たいになっとるよ。」
「そだろうね。急だったからなー。」
おばさんは声を落とし、仏壇へ目を向けます。
そこには、可愛らしく笑うダイスケ君の遺影が飾られていました。
「ねー、帰ろうよ。」
面白いところにつれていってやるとダイスケ君に言われ、スミレちゃんは麦畑をかき分け、かき分け進んでいました。
でも、歩きにくい上に麦が顔や手足にチクチク刺さり、いい加減うんざりしていました。
さっきから帰ろうと言っているのですがダイスケ君は黙ったままスミレちゃんの手を引いて歩き続けます。
「ねぇってば!」
スミレちゃんはちょっと怒って強引にダイスケ君の手を振りほどきました。
「帰ろうって言ってるの。」
「もうすぐそこなのに。」
ダイスケ君は後ろ姿のまま、残念そうに言いました。
「もういいよ。わたし、お家帰る。」
「そう。」
肩を落とすとダイスケ君はゆっくりと振り向きます。
ダイスケ君の顔は真っ黒で目も鼻もなく、大きな口しかがありませんでした。
口からは真っ赤な舌がだらりとたれさがりユラユラと揺れていました。
玄関先でおばさん達はダイスケ君のお祖父さんに会いました。
「あんた、スミレちゃん、見んかったか?」
お祖母さんの問いにお祖父さんは横に首を振りましたが、ふと険しい表情で言いました。
「まさか、麦畑に入っとりゃせんだろうな。」
「?」
顔を見合わせるおばさんとお祖母さんに向かってお祖父さんは叱るように言いました。
「こん時期に子供が麦畑に入ったらムギボウズに取って喰われるぞ。」
「ムギボウズって、あんたそんな迷信、今時流行らんがな。」
「馬鹿者。流行るとか流行らんとかあるか。
わしゃ、今から畑んいく。お前らも人集めて連れてこい。」
お祖父さんはそう言うと畑に向かって駆け出して行きました。
「いや、いや、いや、いや。」
スミレちゃんは必死に走ります。
チラッと後ろを見ると真っ黒い塊が麦畑をかき分け追いかけてきます。
生臭い息が首筋にかかります。
「おとうさん、おかあさん、おばさん、だれか助けて。」
スミレちゃんが大声で叫びます。
と、突然視界が開け、茶色い道が現れました。
道と畑の段差に躓き、スミレちゃんは勢いよく転んでしまいました。すごく痛かったですが歯をくいしばって我慢します。
起き上がると麦畑の方を見ます。
赤い夕日をバックに金色の麦が静かに風に揺れているだけでした。
さっきまで自分を追いかけていたあの恐ろしいものはどこにも見当たりません。
スミレちゃんは夢でも見ていたのか、と思いました。
その時です。
「おおーい。」
どこからか声がして、スミレちゃんはドキリとしました。
道ばたの向こうから誰かがこちらにやって来るのが見えました。
「おおーい。大丈夫かぁ。」
誰かが助けに来てくれたのか。
スミレちゃんは、ほっと息をつくと声に向かって叫び返しました。
「こっちー、こっちよー。」
「おおーい。今、行くぞー。大丈夫かぁ。」
低い大人の男の人の声でした。きっとおとうさんが探しに来てくれたのでしょう。
「おとうさーん。」
夕日をバックににこっちに歩いてくるのは確かにおとうさんでした。スミレちゃんはおとうさんに走りより抱きつきました。
「おとうさん、スミレ、すっごく怖かったんだ。
麦畑でね、ダイスケ君に会ってね。
一緒に歩いていたら、ダイスケ君がダイスケ君じゃなくなって。
真っ黒で、真っ赤な舌出したオバケになってね。
スミレを追いかけてきて、スミレ、怖くて、一生懸命逃げてね。」
スミレちゃんは震える体をおとうさんに押し付けて、一生懸命説明しました。
おとうさんもスミレちゃんをしっかりと抱きしめて、スミレちゃんの話を聞いてくれています。
ポタリ。
おとうさんの体に顔を埋めたスミレちゃんの首筋に何か液体のようなものが落ちました。
「ん?」
ポタリ。
また、落ちてきました。
「おとうさん、なに?」
スミレちゃんが顔を上げるとおとうさんの顔は真っ黒で口だけが三日月のように開いていました。
口からは真っ赤な舌が垂れ下がっています。
舌の先から涎がポタリとスミレちゃんの頬に垂れました。
2017/5/31 初稿
次話は6月5日を予定しております。
螳螂生




