たった一人の母
「初めまして、今日からよろしくね」
まだ幼くて無邪気な私の前に現れたその人は、美しくて雪のように白いどこか儚い印象の人だった。
「私はあなたの教育係ってことで呼ばれた雪乃といいます」
そっと差し出されたその白く細い手を握って私も笑った。
「柴咲陽愛です、よろしくお願いします先生」
先生は、私を見てくれていた。
私を認めて、私を自分の娘のように可愛がってくれた。
妹が産まれて、嬉しくなかったわけじゃない。
でも、過剰なほどに妹を愛して私を無視する両親。
やがて、私は妹の陽葵を避けるようになった。
両親に誉められたくて、認められたくて、私を見てほしくて。
生け花も茶道もお琴も、何だって言われるままに身につけた。
どんなに頑張っても両親は私を見てくれない、幼心に諦めかけていた。
そんな時先生は私を、私だけを見て、認めてくれた。
「陽愛ちゃんは、おうちが好き?」
いつもは私の家族に関することを口に出さなかった先生が、静かにその質問を口にした。
「今は、先生といる時が一番楽しいよ」
笑顔で先生を見つめる。
先生は優しく私を抱き締めて、震えているようだった。
「陽愛ちゃん、私を母だと思ってくれないかしら」
先生のその腕に少し力がこめられる。
「母親ってね、みんながみんなあんなのじゃないのよ」
あんなの、それを指す人をわかっていた。
私が親というものに失望していることを先生はどのタイミングでか気づいていたのだろう。
今考えると先生は私が将来親になったときに自分に失望しないように、母親である自分の姿を見てほしかったのかもしれない。
いつも先生とお庭を散歩したり、絵を描いたり、植物を眺めたり。
先生と呼びながら何かを教えられた覚えはない。
あの人は私の母になるためにほぼ毎日柴咲家に通っていたのだ。
雪乃さんが先生から私の母になってからは毎日のように息子を連れてきていた。
それが、蒼太。
「初めまして。春宮蒼太です」
ぺこりと頭を下げる男の子ににっこり笑って手をとった。
「私、柴咲陽愛!よろしくね、蒼ちゃん!」
すぐに仲良くなり、蒼ちゃんと遊んだ日は寂しくなかった。
たまに、蒼ちゃんの幼馴染みだという汐里ちゃんもやって来た。
同年代と遊ぶなんて事が今までになかったから毎日が新発見だった。
蒼ちゃんも汐里ちゃんも大好きだった。
3人で遊ぶ私たちを雪乃さんは優しく見守っていた。
そうやって遊んでいる間だけは、悲しいことを全て忘れられた。
「陽愛、俺、大きくなったら強くなって絶対お前を貰いにいく。だから待っててくれ。」
蒼ちゃんと交わした約束。
「いつだって味方でいるから、ひとりぼっちで抱え込まないで」
汐里ちゃんからの優しい言葉。
「人間はね、根っこの部分は変わらないのよ。だからどんなに辛いことがあって自分を見失ったとしても、陽愛ちゃんは陽愛ちゃんなのよ」
私の唯一の母親、雪乃さんからの言葉。
その言葉を残してある日突然、皆いなくなった。
楽しかった日々が嘘のように何もなくなっていく日々。
一人で、独りで誰からも認められずにただただ過ぎていく日々。
大きくなっていくにつれ、自分の置かれる状況が分かるようになった。
理解するうちに壊れそうになる自分。
両親に愛されている妹のための棄て駒の私。
今までの習い事だって駒の価値を上げるため。
幸せを知ってしまったら、これら全てが辛くて、哀しくて壊れてしまいそうだった。
だから私は、大人しく両親の望む駒になろうと思った。
その為には今までの感情を全て棄てなければならない。
優しい言葉も約束も、なにもかも棄てないと駒になれない。
心に、記憶に鍵をかけて。
全てを忘れて、ただ無感情な形だけの人形になってしまえば自分が傷付くこともない。
最初から諦めていれば、期待しなければ。
そうやって自分を抑えていくうちに、私は私を失った。
大切だったあの日々も、なにもかもを。




