【序章3】偉大なる初代大カーンの最期
チンギス・ハンはその後、城を取り囲んでの兵糧攻めの体制に入った。やがて数ヶ月が過ぎ、ついに城内の食料が底をつきはじめたのである。兵士達は雑草まで口にし、飢えをしのぐありさまとなった。
「皆、今日までよく頑張ってくれた。礼を申すぞ。皆もわかっているとおもうが、城内の食料は底をつき、我ら残念ながら万策つきたといって過言ではない。
よって余はこれよりモンゴルに降伏を申し出、城を開城しようと思う。皆の意見をうかがいたい」
西夏の宮廷の百官達は皆沈黙したままである。皆、必死に悔しさに耐えているが、誰しもが他に策がみあたらない様子だった。
「お待ちくださりませ。私に策がありまする」
と突然自信ありげに声をあげたのは、王のまだ若い側室で、名をアミンといった。このアミンという側室は、もともと乞食をしていたが、たまたま通りかかった王の臣下が美貌に気づき、王の後宮に入れた女性であった。その出自については詳しいことは相手が王であろうと、なかなか語ろうとしなかった。
「女子の出る幕ではないわ」
百官の中から非難の声があがったが、王はそれを制してアミンに意見を求めた。
「まず敵に降伏のための使者を送ります。その次に王をはじめ百官そろって敵を受け入れるため、しばしの猶予を求めるのです。その間降伏の証としてまず私が、チンギス・ハンのもとに出向きます。チンギス・ハンが私を夜の相手として誘ったところを、見事命奪ってみせましょう」
「うむ、名案ではあるがチンギス・ハンほどの者のこと、相手がそなたであろうと、おいそれと隙をみせるとは思えぬ」
と、王は乗り気でない様子である。するとアミンは王の耳もとで何事かささやいた。
「しかし、それはさすがに人の道に反するぞ」
王は明らかに驚いた様子を見せた。
「今は国が滅びるか否かの時、多少の犠牲はやむをえぬかと」
王はしばし沈黙した後、アミンの策に同意した。
やがて降伏の使者が西夏王とチンギス・ハンの間を往来し、予定通りアミンが数名の侍女と下僕の男五名を伴い、美しく着飾って、最初の降伏の証としてチンギス・ハンのもとへ赴いた。
「その方、顔を上げい」
アミンが頭をあげると、そこに六十を越えているとは思えない、頑健な意思の塊のようなチンギス・ハンの顔があり、かたわらには息子達と数名の兵士が控えていた。チンギス・ハンはしばしじっとアミンを顔を眺めた後、
「一室を与える。わしの指示があるまで控えておれ」
といったきり、足早にその場を去ってしまった。
やがて夜が来た。アミンは与えられた部屋で、寝ていた五人の下僕を突然おこした。下僕達がまだなにがなにやら理解できぬうちに、アミンは、
「誰か来て! 犯される」
とこれは西夏の言葉ではなく、モンゴルの言葉で大声でわめきはじめた。
結局、下僕達はかけつけた見回りのモンゴル兵に取り押さえられてしまった。弁明しようにもモンゴル語はまったく喋ることもできない。アミンは再調査のため、もう一度チンギス・ハンのもとへ赴くこととなった。
「私はもともとモンゴルの人間でございます。西夏王に捕らえられ、側室としてやむをえず仕えておりましたが、このたび西夏王に偽りを申し、こうして脱出の機会をえたのでございます」
と、これも流暢なモンゴル語で、嘘とも真ともわからぬことをいいだした。
「その言葉、偽りはあるまいな」
チンギス・ハンのかたわらに控え念を押したのは、チンギス・ハンの四男にして、フビライの父にあたるトルイだった。
「命を助けていただければ、お礼のことばもござりません」
アミンはいっそう平伏していった。
「そのほう、今一度顔をあげい」
チンギス・ハンはしばしアミンの顔を穴の開くほど観察した。青白い顔をしているが眼光は鋭く、その瞳の奥底にかぎりない叡智が宿っているかのようである。背丈は高いが、一方でどこか幼女のようなあどけなさも感じられる。
チンギス・ハンは史上類を見ない性豪でもある。ある学者の計算によるとチンギス・ハンの遺伝子を受け継いだ子孫は、こんにち世界中で千六百万人もいるというから驚倒するよりほかない。結局アミンは、武器等を隠しもっていないか念入りに調べられたうえで、まんまとチンギス・ハンの寝室に潜入することに成功してしまったのである。アミンは体がかすかに透けてみえる妖しい、ほのかに青白い絹の衣装でチンギス・ハンのゲルに通された。
さすが一世の傑物だけあって、チンギス・ハンの寝室での女性との交わりは、まるで狼が獲物をいたぶりつくすかのようであった。たいていの女性は数日もすると身も心もボロボロになってしまう。しかし征服欲の固まりのようなチンギス・ハンをもってしても、このアミンと名乗る女性だけは別だった。支配しようとすればするほど、自らが深みにはまっていくかのようで、年齢からくる衰えもあってか、いつの間にかチンギス・ハンはアミンの膝の上で眠りについてしまった。
アミンは琴を弾き始めた。チンギス・ハンはいっそう心地よくなり、いっそう深い眠りについたが、これが魔物を呼びよせるための合図であることは、さすがに知るよしもなかった。突如として琴の音が悲しげな旋律に変わると同時に、チンギス・ハンは恐ろしい悲鳴をあげた。毒サソリがチンギス・ハンの腹部に恐ろしいダメージを加えたのである。
「みたか! おまえは今まで犯した女の数など一々覚えてはいないだろう。私のことなど忘れたかもしれないが、私はおまえから受けた傷は忘れてはいない」
アミンは勝ちほこったかのように、苦しむチンギス・ハンを見下ろしながらいった。
「このわしが婦女子ごときに不覚をとるとは」
「女ではない。私は仙女だ! この命、とっくにお前に奪われておる」
アミンは謎の言葉を残すと、そのままいずことも知れず、西夏王のもとへ戻るでもなく、姿を消してしまった。
警護の兵士が悲鳴を聞いて、チンギス・ハンのゲルへかけつけてきた時には、すでにチンギス・ハンは意識混濁状態だった。ただちにアミンを捕らえるべく追っ手がさしむけられたが、どうしても行方をつかむことができない。死を覚悟したチンギス・ハンは死出の枕元に、息子達を呼び集めた。
チンギス・ハンには死んだ長男のジュチをのぞいて、三人の息子がいた。死の床のチンギス・ハンは息子達のうち三男のオゴデイを自らの後継者とし、西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。また次男チャガタイには中央アジアにある、かって西遼といわれた遊牧民国家が栄えていた土地を与えるとした。末子でフビライの父にあたるトルイには、何も与える約束をしなかった。しかしモンゴルは基本的に末子相続制で、ゆくゆく本拠地モンゴル高原が与えられることは、暗黙の了解だった。
ひととおり遺産相続を言い渡すと、チンギス・ハンはしばし目を閉じ、深いため息をついた。
「わしが大ハーンとなった頃、モンゴルはあまりに貧しく、力なく……。故にわしは他国に侮られぬ国をつくろうとし、今日まで戦い続け……。わしは死を恐れぬ。死は荒涼とした砂漠に一点のオアシスをみつけるがごときもの。我死した後も西夏との戦いを継続せよ。敵を殲滅することこそが、わしにとって最大の供養」
チンギス・ハンはもはや目が見えない様子で、その声は次第、次第に小さくなっていった。ただ眼光は虚空をにらみながら、蒼き狼の末裔として強い意志だけは失っていない様子でもあった。
「わしが死んだ後、我が魂は蒼き狼の末裔達の心に宿り生き続けるであろう。わしの遺骸は、我が愛する故郷モンゴルのブルカン嶽のふもとへ葬ってくれ。わしの望みは唯一つ……。モンゴルを今よりも強く、そして大きく」
拳を天にむけてふりあげたチンギス・ハンは息子達が泣き崩れる中、そのまま逝った。時に西暦一二二七年夏のことである。しばし静寂が周囲を支配した。人類史が生んだ最大の傑物の最期にしてはあまりに静かすぎた。チンギス・ハンの死を秘して、西夏攻めは継続され、数日して西夏は完全にその命脈費えさったのであった。
モンゴルへと戻るチンギス・ハンの棺の列は、その途上出会った者を何人たりとも殺した。動物でさえも命を奪った。葬儀は三ヶ月にもわたって盛大に挙行され、遺体は地下に埋葬されたが、ほどなく植林がなされ、墓のありかを隠蔽してしまった。チンギス・ハンがいずこに眠っているのか、世界史上最大のミステリーの一つである。
チンギス・ハンは死んだが、その志は蒼き狼の末裔達へ、そしてフビライへと継承されていくのである。