それは優しい響きだった
『昔々にあった物語』
例え、どんなお話であろうとこの書き出しで物語を紡ぐ男がいた。優しそうな顔をした、独身の老人。その老人は、とても不思議な物語を紡ぎ出すのだった。また、その老人も不思議な雰囲気の持ち主だった。
何百年も生き続けているように感じられたかと思えば、ただの少年のように感じられる時もある。ボケているわけでは、ない。ただ、例えどんな時であろうと、陽だまりのような印象を受ける老人だった。
ある日、彼に何故こんなお話が書けるのですかと尋ねてみた。彼は人のいい笑顔を浮かべていった。
「あれらは全部、『昔々にあった物語』だよ」
彼はそう言うと、一冊の薄い本を私に渡してきた。その本はとても古いモノで、皮の表紙が色あせて、ボロボロになっていた。表紙は、何かの絵が描いてあったのがかろうじて分かるほどのものだった。怪訝な顔をすると、老人は目を細めた。
「これはね、世界にたった一つの本さ。僕が初めて描いて、初めて製本した本だ。僕の原点を知りたいと思うなら、一読するくらいの価値はある」
その言葉を聞き、私は慎重にその本を開く。そうでもしなければ、この本は捲るだけで破けてしまいそうなのだ。それだけ年季が入っているといわれれば、納得してしまいそうなほどには。
それに、この本に記されている内容も、『昔々にあった物語』なのだろう。一ページ目をめくれば、年月のせいでかすれてしまった、不思議な生き物のイラストが描かれている。おそらくは、表紙にもこの生き物の姿が描かれていたのだろう。私は老人を信じ、ゆっくりとこの本を読み進めた。
ある街に、一人の少年がいた。その少年には、学というものがなかった。字を読むことが出来ず、書くこともできず、簡単な計算すらできなかった。そして、少年には自分を表すための名前すらなかった。
親という言葉すら知らない少年。そんな彼が知っているのは、たった一つのことだった。それは、生きるということである。しかし、彼にものを教える人間など周りにはいなかった。ゆえに、少年が生きていくためにしたことは盗みであった。彼は生きるために、盗みを覚えたのである。
ある日のこと。生きるために奪い続けていた少年に、転機が訪れる。孤児院の院長を務めている人物との出会いである。この人物の名は、アルマトーレ。近年は頭のほうを中心にガタがきはじめているものの、立派な学を持っている人間だった。そんな彼が孤児院を経営しているのは、子供のころは貧乏で己の好奇心を満たすことがほとんど出来なかったからだ。もっとも、彼は持ち前の賢さと運の良さで勉強する場を与えられたのだが。しかし、その経験からか、彼は人間には等しく学ぶ機会が与えられるべきだという思いを抱いていた。ゆえに、未来ある子供と、町の人々と気兼ねなく触れ合えることができるように、アルマトーレは孤児院を開いたのだ。
そしてアルマトーレは盗みをしている子どものうわさを聞き、少年のところに赴いた次第だった。少年は暖かな手にひかれ、アルマトーレが経営する孤児院へと迎え入れられた。
少年は字の読み書きを教えてもらった。少しばかり、難しい計算だってできるようになった。家があるから、寒さに身を震わせることだってない。ご飯も決まった時間に食べることができる。これだけ見れば、少年は幸せ者だろう。だがしかし、少年には相も変わらず名前が与えられていなかった。自分はそれ以外の何物でもないという証が、なかったのである。
それには、次のような理由があったからだ。アルマトーレは少年に、特別な名前を送りたいと考えていた。だけども、思いつくのは孤児院にいる子どもたちが使っている名前ばかりだ。アルマトーレはお手伝いさんに少年の名前は何がいいだろうかと尋ねたが、どうにもピンと来ないものばかりだった。アルマトーレは心底申し訳ない顔をして、少年にこう言った。
「あともうしばらくの間だけ、待っててくれないかい?きっと、君に似合う名前を送ることを約束するから」
少年は、待つことにした。しかし、そのしばらくはとても長い時間だった。一か月待っても、三か月待っても、半年待っても、少年に名前は与えられなかった。
自分から足を運ぶこともしたが、お手伝いさんは忙しいからと言って少年を邪険に扱った。少年は、自分を邪魔者扱いするこのお手伝いさんには、あまり近づかないようにした。
院長のアルマトーレは一緒に考えてくれるが、決まることはなかった。最近は体調を崩すことも多くなり、会える時間はとても短いものだった。そのうえ、話していることをもう一度最初から言い始めたり、誰が誰だったかが怪しくなってきていた。とりわけ、アルマトーレの目がぼんやりと、ここではないどこかを見ているかのような目は、少年を不安にさせた。少年はその眼を見るたび、心が空っぽでさみしいような気持ちになった。
夏のある日のことだった。アルマトーレが倒れてしまったのは。少年は、お見舞いに行った。部屋に入れば、不思議そうな顔をしているアルマトーレがいた。その顔を見た少年は、嫌な予感がした。どこに目を向けているかわからない、あの顔を見た時よりも。そんなことなど知らず、アルマトーレは首をかしげて言った。
「お前さん、どこの子だい?」
その一言は少年の心に深く深く、突き刺さってしまった。悲しい、さびしい、裏切られた・・・。信じてたのに!ずっと待っていたのに!今までの時間はなんだったんだと、何もかもを放り出して泣き叫びたい。すべてを壊しさってしまいたい。名前を呼ばれることのない自分は、いったい何者だというのだろう。忘れられてしまったのならば、この存在も消えてしまえばよかったというのに!
体の中を渦巻く不快感の中、少年はふと気づく。目線が高い。自分は、一体いつ床に手をついたんだ?それに、なんだってこんなにも周りが騒がしいんだ?
一体なんなのだろうと思い、少年はあたりを見回す。そして、壁に立てかけられている姿見に移るものを見て、その目を疑った。
鏡に映っていたのは、怪物だった。それを見て後ずさると、鏡の中の怪物も後ずさった。少年はそれを見て、気づいてしまった。自分こそが鏡に映る怪物なのだと。
少年は怖くなり、無我夢中で逃げ出した。後ろから聞こえる悲鳴を聞かないよう、ただ夢中で走り去っていく。自分がどうやって孤児院から出たのかも分からなかった。そんな中、頭に浮かぶのは鏡に映ったあの恐ろしい姿である。
背には鎧のような甲羅があった。その甲羅には、幾本ものトゲがついていた。口には恐ろしいほど鋭い牙があった。手足は体から生えている長い毛で見えづらいが、鶏の足を太くしたような感じだった。だというのに、地面を駆ける速さは馬の比ではなかった。一度だけ見たことがある駿馬よりも、この体は速く走っている。
気がつけば、暗い森の中にいた。木は高く、生い茂っている葉が月の明かりさえも遮っているようだった。人などほとんど来ないのだろう。倒れている草などはなく、背の高い草ばかりだった。冷たい風が、怪物となった少年の体をなでる。
彼は、とても心細くなった。昔は一人でも平気だったというのに、今はあの家に帰れないのがとても悲しい。寂しくてしかたない孤児院だったが、恐いと思うことはなかったのだから。しかし、この姿で帰ることができるのだろうか?答えは否だ。みんな、この姿を見て悲鳴を上げていた。何より、自分を拾ってくれたアルマトーレは僕のことを忘れ去ってしまった。
でも、もしかしたらこれは悪い夢なのかもしれない。夢からさめれば、僕は孤児院のベッドの中にいるんだ。アルマトーレが僕のことを忘れてしまったのも夢。そして、朝一番にアルマトーレに「おはよう」を言うんだ。それから、二人でまた僕の名前を考えるんだ。今度こそとびきりの名前を、アルマトーレにつけてもらうんだ。
少年は大きな木に(今の姿では、その木のほうが小さいのだけれど)寄りかかり、この悪い夢から早く覚めることを願った。そのうちに、彼はまどろみの中に落ちてしまった。
少年は、自分の顔に何かが乗っているのを感じ、目を開けた。しかし、そこは孤児院ではなかった。見渡す限りの緑。目の前にある青々とした葉っぱ。少年はあまりの驚きに、その場から飛び起きた。一瞬、アルマトーレに出会う前の自分が脳裏をよぎった。家なんてものはなかったから、あの時は野宿が当たり前だったのだ。だが、自分の目に映った、鱗に覆われた人のものではない手をみて、昨日のことを思い出した。
怪物になってしまった自分。お手伝いさんと小さな子ども達、自分よりも年上の者たちの悲鳴。そして、大好きだったアルマトーレに忘れ去られてしまったこと。
夢ではなかった。この事実は、少年にとって悲しいことだった。目から、涙があふれてくる。我慢しようにも、自分の意志など関係なく流れ落ちてくる。少年はとうとう、声をあげて泣いた。その声は咆哮となり、森の動物たちを震えあがらせたが、そんなことなど知るよしもなかった。
どれだけ泣いたことだろう。朝日はすでにある程度高いところまで昇っていた。顔もなにやら、カピカピしていてチクチク痛い。
だが、泣いて少しはすっきりしたのだろう。少年は、どうやったら人間に戻れるかを考え始めた。しかし、いいと思えるような案はどれだけ考えても出てこなかった。おとぎ話にはこの手の話は多いが、自分は魔法使いにあった覚えはない。それに、お話の中では呪いを解く人間は、誰しもが特別な人間だった。この状況には当てはまらないし、参考にもならないだろう。だから少年は、孤児院で学んだ『わからなければ人に聞く』というのを実行しようとした。
始めに向かった国は、神様とやらを信じている国。しかし、尋ねる前に国の人々は悲鳴を上げていなくなってしまった。なにやら豪華な建物の方にも足を運んでみたけれど、誰もいなかった。神様という人も、自分の前には現れなかった。
次に向かった国は、沢山の知識があるという国だった。だけど、武器を持った恐い人たちにさんざん追いかけ回された。槍や刀で斬りかかられても、甲羅と鱗のおかげで全然痛くなかった。だけど、武器を向けられるだけでもとても恐かった。
恐い人たちから逃げている内に、犯罪の多い国に辿り着いた。寂しくて、汚くて、とても寒いところだった。そこで出会った人々は皆、人間から怪物になった少年のことを嘲笑った。なんて汚い、なんて醜い、貴様は畜生にも劣る存在だからそうなったのだと、はやし立てた。少年だった怪物は、その声に追われるかのようにその国から逃げ出した。
彼は、いくつもの国を、幾年もかけて巡った。山を越え、川を渡り、時には海の向こうにさえ行った。たとえ些細な噂だろうと、耳にしたらすぐに行動した。次の国に行けば戻れるかもしれない。その人物に会えば、怪物から人になれるかもしれないという一縷の望みを持って。
だがしかし、怪物の言葉に耳を傾ける人間は、誰一人としていなかった。多くの人間はこの姿を見て一目散に逃げる。時には、武力を持って駆逐しようとする。またある時は、遠い国に売り飛ばされそうになったこともあった。自分の背にある甲羅を狙う人間も、少なからず出てきた。
怪物は人間が嫌になり、人間に戻るのが馬鹿らしくなり、人と共にいることに価値を見いだせなくなり、
怪物は――――― 『独り』に なった。
深い、深いビルカの森の奥に、大きな洞窟があった。そこには、人間だった怪物が住んでいた。しかし、怪物本人は自分が人間だったことなど、綺麗に忘れ去っていた。だが、それも無理もない話ではある。何故ならば、少年が怪物になってしまったときから、人生が五回は送れそうなほどの年月が経っていたからである。
森の中でいつも通り狩りをしていると、聞き慣れない音が聞こえてきた。何がいるのかと思って鼻をこらせば、狼どもの臭いと、昔何処かでかいだような臭い。
首を動かし、あたりを見れば、狼に追いかけ回されている人間の子どもが目に入った。様子を見れば、狼たちは人間の子どもで遊んでいるらしい。いわゆる生殺しとかいう奴だろう。それとも、なぶり殺しだっただろうか。
怪物はそこまで考えて、また狼たちの方に目をやった。数は五匹だ。朝食にちょうどいい。怪物は狼たちの前に躍り出て、次々と口の中に放り込んでいった。毛だらけの皮膚に牙を突き立て、咀嚼し、骨を砕き、あふれ出る血で喉を潤す。
狼たちを胃の中に納めたあと、怪物は自分を見つめている子どもに気がついた。食べ終わるまで、その存在をすっかり忘れていた。
子どもは、怪物を見ているだけでぴくりとも動かない。呆けているのか、目の前のことに理解が追いついていないのか。そんなことなど、怪物にはどうでも良かった。狼たちを食べて、この腹は満たされている。無理に食べることはない。それに、こんな子どもが誰かに何かを言ったとしても、真に受けられるはずがない。子どもの妄想じみた言葉として捉えられるだけだ。そう判断し、怪物はその場から立ち去ろうとした。
が。急に、尻尾に重さが加わった。一体なんだと思い、そちらに目をやれば、自分の尻尾にしがみついている子どもの姿があった。怪物は眉根を寄せ、尻尾を一振りして子どもを振り払った。後ろに目などくれず、その日は自分の寝床へさっさと帰っていった。
三日後のこと。怪物が、鹿を食べていたときだった。何かが足早にやってくる。その音はだんだんと、自分の方へ近付いてきた。茂みから、一際大きな音を立てて何かが飛び出してきたと思ったら、オオカミに追い掛け回されていた子どもだった。子どもは怪物を見て、近付いてこようとした。しかし、怪物がうなり声を出すと、その足を止めた。怪物は食べかけの鹿を咥え、洞窟へ帰っていった。
その次の日、またもやあの子どもが怪物の前に現れた。水を飲もうと、綺麗な水がためられている場所へ行った時のことだった。子どもの手に桶が握られていることから、この水辺は人間達も使うのだろう。ここはもう使えないと思い、怪物は別の場所に行こうとした。
「待って!」
怪物の背中に、幼い声がかかる。それを無視して、怪物は森の中へ入っていく。それからほんのちょっとだけ時間をおいて、小さな音が聞こえてきた。どうやら、あの子どもがついてきているらしい。始めは無視をしていたが、いつまで経ってもついてくる。怪物は後ろを向き、何十年かぶりに声を発した。
「・・・何のようだ、子ども」
子どもは、丸い目を更に丸くしていた。声をかけていたが、人の言葉を喋るとは思ってもみなかったのだろう。だが、その目はすぐに輝きだして、小さな口を開いた。
「君は何?」「怪物だ」
「お話に出てくる龍みたいだね」「違う。あいつらは空を飛ぶ」
「見たことがあるの?」「昔な」
「凄い!ねえ、君に仲間はいるの?」「そんなものはいない。私は独りだ」
次から次へと出てくる質問に、怪物はうんざりし始めた。いっそのこと、小腹を満たすためにこの子供を食べてしまおうかと思ってしまうくらいには。もっとも、それを実行する前に子どもが時間を気にして切り上げてしまったが。
桶いっぱいの水を持った子どもは、立ち去る時に声をかけた。
「また明日!」
怪物はその言葉に、素っ気なく返事を返す。
「もう私の前に現れるな」
そう言ったはずなのに、子どもは怪物の前に現れた。そのあとも、子どもは飽きることなく怪物に会いに来た。怪物も、子どもが自分の所に来る度に追い返していたが、とうとうこう言ってしまった。
「・・・・・・・・・勝手にしろ」
子どもは満面の笑みを浮かべ、怪物の所に毎日来るようになった。怪物はいつしか、小さな訪問者を受け入れるようになった。
怪物が子どもを受け入れ、少しばかりの教育を施すようになってから数ヶ月。子どもの名前を知った。それまでは「子ども」、だったり「チビ助」などという感じで呼んでいたのだが。この子どもの名前は、「アレン」というらしい。何故今頃になって名前を伝えたのか聞いたところ
「身長が伸びたんだよ!だから僕、もうオチビじゃない!」
「・・・・・・チビ助」
「もう違うってばァァアア!!!」
小さな拳で叩いてくるが、甲羅のおかげで痛くも何ともない。尻尾をアレンに巻き付け、無意味な行動を押さえつける。そうしてこの子どもがむくれるのはいつも通りで、小さな口を目一杯とがらせるのだ。そのふてくされた顔を見て、内心ほほえましく思っているのは怪物だけの秘密である。
「怒るな、チビ助」
「ちがいますぅ。アレンですぅ」
「拗ねるな。昔々にあった話を聞かせてやる」
こう言えば、この子は機嫌をいくらか直す。アレンは、話が大好きだ。冒険の話を聞かせれば、とたんに目を輝かせる。将来の夢は、伝説とされている生き物たちに出会うことらしい。
だが、今日せがまれた話は心躍るような冒険の話でもなければ、龍やペガサスが出てくる話でもなかった。せがまれたのは
「君の話が聞きたい!君が生まれた時のこと、君が子どもだった時のこと、君の名前を聞かせて!」
その言葉を聞いた時、怪物の頭の中は真っ白になった。出会って数ヶ月、自分のことについて聞かれなかったのは奇跡だろう。そもそも、怪物の頭の中からは、自分について聞かれると言うことがすっぽりと抜け落ちていた。
怪物は、口を開いては閉じ、頭を上げたかと思えばすぐに下げるという行動を繰り返した。尻尾もなにやら、しきりに地面を叩いている。しばらくして、怪物はようやっと口を開いた。
「あー、自分にはな・・・アレン。その、名前が・・・・・・ない」
アレンはそれを聞き、目を丸くしていた。名前がないとは、考えてもみなかったという顔だ。怪物は苦笑し、アレンにも分かるよう説明をした。
曰く、自分は独りだった。親がいた記憶さえなく、自分と同じ生き物を見たこともなく、常に独り。そもそも、自分がいつ生まれたのかさえも定かではない。他のモノとの交流もほとんどなく、ただ生きるだけの毎日。独りであれば、名前を呼ぶ者はいない。故に、名前などなくても大丈夫だった。そんなもの必要ではなかったのだと、説明した。
その時のアレンは、泣いていた。声を上げるわけでもなく、ただ黙って泣いていた。これには、怪物の方が驚いてしまった。涙をなめ取り、一体どうしたと聞いても分からないという言葉しか返ってこなかった。
泣き止んだアレンの目は、真っ赤になっていた。鼻に至っては、まだぐずっている。怪物は尻尾で、アレンのことを優しく抱き寄せた。アレンは怪物の首元に顔を埋め、小さな声でこう言った。
「僕が、君に名前をつけてもいい?」
ぽつんと落ちたその言葉をかわぎりに、アレンは語る。君は僕の親友だ。なのに、君のことをいつまでも「君」と呼ぶのは嫌だ。よそよそしくて、寂しくて、空っぽな感じになる。こんな気持ちを抱えながら、君と一緒にいるのは嫌だ。それを理由に、君と離れるのはもっと嫌だ。だから、僕に君の名前を送らせて。
怪物は言った。生きているものに名前をつけるのは、大人の特権であると。名前というのは、この世に生まれ出る時に送られる、一番始めの贈り物。神聖な行為であり、祝福を送るのと同じ意味になる。故に、名をつけるという行為には責任が生じる。子どもが、命を持つものに名前をつけるのは許されていないと。
「じゃあ・・・じゃあ、僕が大人になるまで待って。君に似合う名前を、絶対に送るから」
怪物は、その言葉を何処かで聞いたような感じがした。懐かしくて、嬉しくて、ほんの少しだけ、寂しい気持ちになった。しかし、怪物はすぐにそのことを忘れた。その記憶は、あまりにも遠い彼方の記憶だったから。忘れて、アレンと約束をした。アレンが大人になったら、自分に名前をつけてもいいと。
怪物は、自分のねぐらで目を覚ます。約束を交わした日から、三年が過ぎた。アレンはまだ成人していないが、幼さは抜けたように思える。
体を起こすと、節々が痛かった。だが、それほど痛いというわけでもない。外に出れば、木々の隙間から日差しが指している。朝だと思っていたが、太陽が真上にある。昼になるまで眠っていたとは、自分もとうとう年寄りにでもなったか。だが、頭の方はまだまだ大丈夫だ。体は痛むようになったが、ボケちゃいないさ。
怪物はそうやって自己完結させると、鼻をひくつかせる。臭いで感じられる限り、ねぐら周辺に変な者はいない。何の変わりもないことを確認した怪物は、少しだけ重いと感じるようになった体を動かして、森の奥に入っていく。空腹を訴える胃を満たすために。
アレンがねぐらへやってきたのは、怪物が腹を満たして少し後のことだった。アレンは怪物を見ると、満面の笑みを浮かべた。
「やっほう、親友!」
そう言って怪物の首に抱きつく人間は、アレンだけだろう。どうやって生えているかも知らない長毛に顔を埋め、幸せそうな顔をするのもこの人間くらいだ。お返しに、伸ばしている金髪を歯で梳いてやる。普通は危機感を抱くのだろうが、笑って済ませているあたり、アレンは将来大物になる気がする。
「親友、今日は何をしようか」
聞かれ、思案する。考え事をしていると、尻尾で地面を叩くのがすっかりクセになってしまった。そんなことを、片隅で考える。そうして、口から出てきた提案は
「森の奥に、リンゴの木がある。精霊付きの木だ。美味いぞ」
精霊という言葉を聞いて、アレンは目を輝かせる。それを見た怪物は思う。この小さな友人は、いつまで経っても変わらないと。人間にとって異形であるもの達の話を聞かせれば、今と同じように目を輝かせる。叶うのならば、アレンのこの一面が変わらず、損なわれることがないように。怪物は、自分でも気づかぬうちに祈りを捧げる。多くの異形と接しても、いるかも分からぬ神という存在に。
この少年の人生に、多くの幸あれと。
幸福だった。幸せの時間だった。自分は、自分が生きていた時間を、生を、堂々と胸を張ってそう答えることが出来る。
怪物は、子どもが大人になるにつれ、自分の老いを感じていった。特に、この一年はそうだった。体が非常に重くなり、足を踏み出そうとするだけで関節が悲鳴を上げる。顔をしかめると、それだけでアレンが泣きそうになる。そのたびに大丈夫だと言っていたが、二ヶ月ほど前から光を失い、それも叶わなくなった。その時、あの陽だまりのようなアレンを二度と見れないことを残念に思ったのは、自分だけの秘密だ。
草を踏みしめる音を、捉えた。数日前に鼻さえ利かなくなった私だが、耳と口だけは正常だ。ボケることもなかった頭のことも考えれば、僥倖と言える。特に、今日という日には。
音が、止まる。そして
「・・・親友?」
おそるおそる、いつもとは違うか細い声で、私を呼ぶ。恐らくは、私がまだ生きているかどうかが不安だったのだろう。陽だまりのような彼が、そこまで不安になるようなことだったのだ。自分がいないうちに、怪物の命が終わってしまうかもしれないという不安は。私の耳が少しでも遠くなっていれば聞こえなかったであろうその声に、私は返事をする。
「入っておいで」
ほっとしたという感情が、空気を介して怪物に伝わってくる。アレンは、怪物の首を抱きしめる。いつものように、これからも怪物を抱擁することが出来るのだというように。それなのに、アレンの顔には笑顔など浮かんでいなかった。怪物は、体から伝わる感覚を頼りに、アレンのほうへと首を向ける。
「アレン、成人の儀は無事に終わったのか?」
「終わった。僕も、これからは立派な大人の一員だ」
その後に続くのは、静寂だった。破ってはいけないような、何処かに神聖ささえも含む静寂だった。しかし怪物は、長く静かに息を吐く。自分の残りの命を考えたら、そうしなければダメだったのだ。
「アレン」
名前を呼ばれ、アレンは肩をはねさせる。怪物には、その気持ちがよく分かる。アレンはただ恐いのだ。そして、自分も。これから伝える言葉を言うのが、酷く恐い。それでも怪物は、口を開く。自分の言葉を、大人になったばかりの子どもに。
「私は、あと少ししたら息を引き取るだろう。これは変えられない」
「お前と過ごした時間は、私の過ごした年月すべてに比べたら、とても短いものだろう」
「それでも私の生涯の中、一番の幸せはお前とともにあったことだ」
「私のような怪物とともにいてくれて、本当にありがとう」
「どれだけの月日が流れようと、」
「私が再び生まれ、」
「お前と出会うならば、」
「敵であろうとも、」
「私はお前の味方となり、」
「友となろう」
「さらばだ、『親友』」
「汝の人生に、祝福を」
アレンは祝福の言葉を受け取った。親類や人間の友人たちよりも早く、怪物からの言葉を受け取った。そしてアレンも、怪物に言葉を贈る。死出の旅に出る、死人に贈る言葉を。
「汝の旅に、祝福を」
「巡るといい、あなたが生きた時間の中を」
「遡ればいい、あなたの記憶を」
「悲しみも」
「苦しみも」
「すべては、あなたの糧のためにあったのだ」
「何かを知るために、それは必要だったのだ」
「分け与えてくれた『親友』よ」
「さらば」
「幾万の日が昇ろうと」
「幾億の夜がやって来ようと」
「私はあなたを忘れない」
「旅立つあなたに、最後の贈り物を」
かつての少年は、もとは人間だった怪物の耳元に口を寄せ、今初めて彼の『名前』を呼んだ。眠るようにして死んだ、怪物の名前。それは、
優しい響きだった。
(了)