祭編―4―
右によろよろ。左によろよろ。くるっとまわって、はい。よろよろ。
(お…わった…。おわった…。おわった………)
やじろべぇのように体を揺らす武の頭は、それしか考えられない。
(おわった……)
「よっしゃあ、走れ、走れぇ」
(うぎゃああ……!)
言われなくても必死で走った。いや、逃げた。
どこから持ってきたのか、どうやって持ってきたのか、
「心配すんな。そいつは俺の飼っているウリ坊の“いのしんじ”君だ。ひとりじゃ退屈するだろうと思って、わざわざ連れて来てやった」
(どこがウリ坊だ!立派な猪じゃないかあ!)
「心配すんな。飼い猪だから人に慣れている。普段は放牧してるが呼ぶとすぐ出てくる。かわいいぞ」
(それ、ただの野生の猪じゃないかあ!)
立派な牙を向けて猪が突進してきた。もう必死で逃げるしかなかった。しかし猪の速いこと、速いこと。お尻に牙が何度も刺さりかけ、そのたびに飛び上がった。よく、ぐさりとつらぬかれなかったものである。
「“いのしん子”ちゃんはどうした?俺は“いのしん子”ちゃんの方がよかったぞ」
「すみません、声はかけたんですが、デートだからと断られて」
デートだと!?
拝殿に寝転がった和也が、がばっと起きて大声を出す。
「野郎…、どこの猪だ…。“いのしんたろう”か!“いのしんたろう”だな!?」
「いえ、“いのしんたろう”は“いのしんか”ちゃんと、つき合ってます」
「なんだとお!許さん!」
涼介と和也が腹の立つ会話をする中、これがマラソンと称して2時間続いた。その間、山中を猪から逃げ回る。ただ逃げるだけではない。どこからともなく涼介が現れ、ふいに体を押してきた。重心を失い、転び、時にはまた崖から落ちそうになる。これに「あ…」とか「う…」とか、つい短い声を出してしまうと容赦なく拳固が飛んできた。
次に川に放り込まれた。
紙には滝行と書いてあったが、滝はなく、顔を水面にだすたびに涼介が手にした棒をふらせてきて、何度もおぼれそうになった。
夏だというのに凍死しそうなくらい凍えた武の前で頭の悪い会話をし、ぎゃはぎゃはと大笑いしながら夕飯を食う。終わると後片づけをさせられ、神殿の雑巾がけをさせられた。
風呂では背中を洗わされ、背丈だけは高い二人が浴槽を占領するので、冷えた体をお湯で温めることも出来ない。
自分の体を洗うのもそこそこに風呂を出ると、そのまま座禅をくまされた。
ふたりは横でずっとしゃべり続け、武が少しでも体を動かすと、涼介が警策でびしばし叩いてきた。
「なあなあ、おまえ、どっちがタイプ?」
「……………………」
涼介にも腹が立ったが、和也という男にもむかっ腹が立った。
この男は本当に何もしなかった。聞こえてくる会話を耳にするに、女のことしか頭にない。一日中、ごろごろ寝転がり、週刊誌のグラビアを穴があくほど見ていた。
「ほれ、どうよ?」
それだけならまだしも、今にも猪の牙に刺されるという瞬間、突然、巨乳アイドルのグラビアを目の前にぶらさげる。
「俺さあ、おっぱいは、でかいのも好きだけど、どっちかとつうと、こう、手にすっぽり入るくらいが好みなんだよなあ。そのかわり、太ももはむっちり…」
見た目、ガリガリのくせに足は速く、こっちが死ぬ思いで走っているのに、顔の前にグラビアを置いたまま余裕で、しゃべりながらぴったりと後ろからついてくる。
(ぐお…!)
そして連携プレイか、グラビアで視界ゼロになったところを涼介が横から蹴ってきた。そのまま、どおんとに木にぶつかり、何度も気を失った。
座禅をくんでいる時も、
「ようよう、おまえさぁ、いのしん子ちゃんと、いのしんかちゃんと、どっちがタイプ?」
雌ならなんでもいいらしく、出っ歯の口をにやにやとさせ、いやらしい目つきで聞いてくる。
(馬鹿か!馬鹿か!馬鹿か!馬鹿やろう!)
人間、心も体も余裕がなくなると、普段はつんと軽蔑のまなざしを向けるだけですむものも許せなくなる。また声を出せないのは怒りをため込む要因となり、武の脳内は和也のせいで爆発寸前までいった。
が、その怒りも持てたのは2日だけ。
3日後には意識が朦朧とし、5日後には完全に意識が飛んだ。6日を過ぎる頃に、一度奇跡的に復活したが、10日目には魂が抜けた。
そして祭の当日、いつもより早く11時にたたき起こされた武は、二人に祭の衣装を着つけられていた。あっち向け、こっち向けとこづかれたが、
(おわっ…た…。おわった…。おわった…。おわった…。おわった…。おわった…)
――――という喜びというか、念仏みたいなものしか頭に浮かばなかった。
「でけた。でけた」
和也が最後の紐を結び終え、武の腹を右手でぽんと軽く叩き、
「うん、孫にも衣装ってほんとだな。なんか、それらしくなったわ」
出っ歯の口元をほころばせて、満足げな顔をした。
と、これに念仏を唱えていた武の意識がぴくっと反応し、むっとした顔をした。
それはそうだ。涼介と和也のようなブサイクコンビと違って、女子高生の間でフアンクラブまで存在する武だ。
その美貌に白八藤紋の衣冠を身につけると、少々…、だいぶやつれてはいるものの、光源氏のようだった。それを孫にも衣装などと…。
(孫…、孫……………、タケ…、タコ…)
「着付け、終わったか」
そうしているところに社務所の障子をあけて伸治が入ってきた。
「ほおい、準備オッケーでぇす」
「お、中々いいじゃないか」
「でしょ?」
「ああ、孫にも衣装だな」
やってきた伸治は和也と同じことを言った。
これにもむっとしたが、それだけ。声には出ない。そのせいかどうか、伸治は武の表情に気がつかず、
「よっしゃ、じゃ、俺らも着替えようぜ」
ふたり組に声をかけると、その場で来ていた服を脱ぎ、あっという間に三人とも白い衣冠に着替えてしまった。
(孫にも衣装………)
いつもはダサいTシャツと伸びきったジャージの三人組だが、真っ白な衣冠に着替えると、それなりに見えるのに、武は心の中でつぶやいた。
「そんじゃま、行くとするか」
伸治はぎゅっと指貫(はかまの紐)を結び終えると、片手で軽々と武を持ち上げ、腰抱きにして社務所を出た。
こうして一行は山の頂上へ向かって歩き出した。
伸治に抱えられた武は大人しかった。熊に抱えられるのは一度経験済みだし、反対に、
(はあ…、楽だ…)
と、これまで10日間、逃げ回った山を眺める余裕さえできた。
彼らは15分もせずに頂上にたどり着いた。
山の中腹にある神社から頂上まではかなりある。山の中を逃げ回ったために、その距離をいやでも知った武は、彼らの足の速さに思わず、はあ…とため息をついてしまった。
三人とも底なしの体力である。
頂上に着くと、伸治は武を降ろした。ふらつく足をなんとか地面に踏ん張り、武は背筋を伸ばして、眼前に広がる大きな岩を見上げた。
(ほんとに洞窟がある……)
山には木々が生い茂っていたが、頂上に着くと薄茶色の小石と土だけで、草も生えていない空き地があった。わずかに傾斜がついているが、平らに近いと言っていい。
その空き地の先に切りたった崖がそびえ立っていた。
20メートル位の高さだろうか。岩肌は灰色で、所々に木や草が生えている。
(あそこから入るのか…)
武たちの立つ側から見て右側に入口らしき穴が見えた。
「さあて、準備に取りかかるか」
和也が穴の方に向かって歩き出した。涼介も彼の後に続く。
武も自分をここまで運んでくれた伸治に頭をぴょこんと下げると、彼らの後を追った。
入口の大きさは、幅3メートル、高さ4メートルと言ったところだろうか。
思った以上に大きかった。中は当然真っ暗で、それぞれが持っていた懐中電灯をつけて中に入った。
さ…さ…と履いている足袋の下から、混じり気のない軽い足音が響く。
履いてきた靴は入口の前で脱いでいた。神聖な場所だから土足厳禁なのだそうだ。
武はてっきり衣冠と同じく、よく神主が履いている昔の靴をはくのだろうと思っていたが、ここに来る時、和也たちはスニーカーだった。元々脱ぐからスニーカーでOKということである。そういう意味で言うと、衣冠に付き物の冠もつけなかった。まあ、邪魔だし、万が一例祭の最中に居眠りをして、落ちたら音を立てるしな…と思った武だった。
足袋一枚になったが不快感はなかった。洞窟の地面は砂や小石、土もない。むき出しの岩があるだけで、なめらかな岩肌に、ひんやりとした感触が返って気持ちよかった。
入口とほぼ同じ大きさの横穴を20メートル位歩いただろうか。
横穴の先に、それよりも大きな黒い岩が、前を塞ぐように立っていた。
(行きどまり……?)
そう思ったが、よく見ると黒い岩の先にもっと大きな穴があり、両脇が2メートルほど開いていた。涼介たちはその脇を通って奥に入って行った。
(うわ……)
彼らについて黒い岩の脇をすり抜けると、大きな空洞に出た。
通ってきた横穴も、人がふたり横に並んで歩ける位に大きかったが、後ろの洞窟は武の想像を超えた大きさだった。
高さはゆうに8メートルはあるだろう。円形上に広がる地面の直径は多分20メートル位あり、ちょっとした小劇場の広さだった。外から見た時にはそれほど大きいとは思わなかっただけに、武は少し感動した。
「おまえは、そこで見てろ」
涼介は上を見ていた武を、先ほどすり抜けた黒い岩の方に押しやると、和也と二人で例祭の準備を始めた。
本来、守子と世話役の3人がかりで祭礼の仕度をするのだそうだが、手順を知らない武は手伝いにならないと言うので和也と涼介だけで行なった。
(ふぅん……)
手持無沙汰で上を見ると、天井部分に小さな穴があるのを見つけた。どうやら山の頂上まで続いているようで、その穴からわずかだが陽の光が射しこんでいた。
ぽつん、ぽつんと地面に光の輪を描く洞窟で、懐中電灯を持った先役、前役の二人が背負ってきた荷物を降ろし、中からいろいろなものを出し始めた。
懐中電灯とは別に、涼介がカンテラに火を入れる。洞窟はぐっと明るさが増し、先ほどよりも鮮明に内部の様子が見えた。
(あれはなんだろう……)
すると岩肌だけだと思っていた地面の中央に、直径3メートルほどの円が描かれているのが分かった。その両脇にも、それよりややこぶりの円があり、中に奇妙な線と象形文字のようなものが見える。
円の8か所には石で造られた蜀台があり、その蜀台に和也と涼介が、白い和ろうそくを立て始めた。
二人はろうそくを立てる前に、なにか唱えて印を結ぶ。その動作は、ろうそくを1本立てるごとに行われた。
奥の岩壁の下にも左右に大きい石の蜀台があった。これに涼介が右に白、左に黒い色のひときわ大きい、ろうそくを立てた。
次に両側の壁の端に御札のような物を張り、十字にしめ縄をかける。そのかけ合わさった中央部分には赤い房飾りのついた丸い鏡がかけられた。
鏡は相当古い物であるのが、なんとなく武にも分かった。
遠目ではあるが、漆が塗られた木彫りの縁飾りが、歴史の教科書に載っていたものによく似ていたからだった。中の鏡も銅製の黒っぽい鈍い色をしていた。
(変だ……)
洞窟の入口の端にある岩に腰かけていた武は、全体をぐるりと見渡した。
いつもは騒々しい世話役二人が、ろうそくを立てるときに何かをつぶやく以外は無言で準備をしている。その声が奇妙だった。ろうそくをたてる音も、足音も。
音が反響していないのである。
洞窟は円形状をしている。なのに反響音がまったくしないのだ。
こうした洞窟は岩肌に音が当たって、木霊のようにあちこちから音が響くはずなのだが、それがまったくない。そのため通常そうした音にかき消されて聞こえない、かすかな音まで聞こえてくる。
(なんだ……。おかしい…。これ…)
まぶたが重い。意識が遠のく。
疲れが戻ってきたんだろうか。
(あ……)
ぽん…と武は肩を叩かれた。
はっとして顔を上げると、涼介のニキビ面があった。どうやら準備は終わったらしい。前役が無言で顎をしゃくるのにうながされて、武は彼らと洞窟を出た。
わりあいと短く感じられたが、外に出ると長い夏の夕暮れが始まっているのに驚いた。
ここに来たのは確かに昼前だったのに……。
(なんだろう…。耳鳴りがする……)
気持ちが悪くなって、目をかたく閉じると頭を振った。頭を振ると音が消えた。ほっとした気持ちで目を開ける。
(な…んだ…?)
開いた目をさらに大きく見開いた。眼前に和也と涼介が居たからである。
だが、いつも見上げている背の高い二人がずっと下に見えた。訳はどちらも片膝をついていたため。その格好で武に頭を垂れていた。
そして見たこともない独特の拝礼をした。
ふたりの左手には銅製の小さな鐘が握られていて、これを凛……と同時に鳴らす。
鐘の音が山々に長く響いて聞こえる中、和也、涼介の声が一糸乱れずに重なり、聞こえてきた。
低くもなく高くもなく、
だが、鳩尾に、びん…と響く太古の音のような……。
「これより、”“知・極・封・跳梁”の式を執り行い奉りてそうらえますれば、守子様――、守子様におかれましては、お役目万象、恙無く参られたまいてそうろう―――」
凛……。
「かしこくも、かしこくも。御影の端より、阿吽、供願い奉りてそうろう――――」
凛……。
「御身、万事、騒擾なかれ、御身、万事、騒擾なかれ」
凛……。
(あ……)
この瞬間、武は、まったく別世界に入り込んだ気がした。