祭編―3―
「祐輔の子を…」
整った眉を、真守がわずかに上げた。こんな風に彼が驚くのは非常に珍しい。
「しかし、村長。祐輔の子は……」
「分かっておる。分かったうえで言うておるのじゃ。仕方あるまいて…」
かなりの年寄りなのだが、村長は小さな子供がすねたように口をへの字に曲げた。
老人はソファに座っていた。真守は彼のななめ前に立ち、視線を床に落としている。そのままの格好で、
「祐輔には、なんと……」
「おまえに言うたのと同じように言うたわい。他におらんから、おまえの子に守子をやらせるとな」
「納得したのですか?」
「ああ、すぐに帰ってくると言いおった」
はっとして真守が顔を上げた。あまりにも意外だったらしい。
「ま、普通であれば、おまえには関係ないことじゃが、祐輔の子が守子となればそうもいかん」
村長は白く長い眉の下から、そんな男をちらりと見る。
「おまえと祐輔の間に何があったか知らんが、そう言ったわけじゃ。私情をはさまんと手伝うてくれ」
と口にすると、
「はさむものがありませんがね」
わずかも表情を変えず、答えたのを見て、
「まあな、おまえに私情をはさめと言う方が無理な話じゃからな。まったく…。つまらん男じゃな。おまえは」
本当につまらない…と言う風な顔をした。しかし、真守の方はこれにはなにも言わず、再び視線を床に戻すと、襟のあたりを右手でしきりに触り始めた。
「祐輔の子を守子に……」
彼がこうした仕草をするのは、思考している時に見せるくせだった。
「…おっしゃる通り、現段階において、ほかに手段がない。涼介は如月………」
自分に語るというより、ひとりごとのようにつぶやく姿を、村長はこれもまた長く白いひげを指でさすりつつ眺めていた。
この男は昔から無口であった。そうした男が、ひとりごとであれなんであれ、これだけ雄弁に語るのもまた珍しいという風に。
(祐輔と…)
――――――祥子。
祥子……。
『……私と結婚してほしい』
やっとの思いで口にした言葉に、華奢で小柄な彼女が風に押されたように振り返った。
その時に着ていた薄青い花柄のワンピースは、確かに風で幾重にも折り重なり、波を作っていたのを覚えている。それは波間に浮かぶ白い鳥に似ていた。
「真守くん……」
万華鏡のように、さまざな色を見せる大きな瞳を、壊れたガラスに変えて自分に向けた。
淡い唇を噛みしめ、震わせて。
「ごめんなさい…。許してほしいと、どんなに願っても駄目よね…。そんなのは自分勝手で…」
見開いた双眸から涙があふれるのを黙って見ていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい…。でも、私にも心がある…。願いがあるの…」
唯一、村以外で自分が口をきいた女性。
「それが叶った…。叶ったの…。…祐輔が…」
知っている―――――。
知っていた。
祐輔、おまえは私が嫌いだった。知っていたよ。
だからだろう?だから、こうして祥子を奪い、祥子は罪を犯したように私に謝り続ける。
(祥子……)
君のせいじゃない。君のせいじゃない。悪いのは私だ。君の気持ちを知りながら、プロポーズした私のせいだ。
私は傲慢で強欲で自分勝手で…、だから分かっていながら君を失いたくなかったんだ。
「悪かった…。その…、知らなくてね…。だから今の言葉は忘れてくれ…」
「真守くん…!」
「元気で…」
たわいのない会話。くだらない言い合い。怒って泣いて、あきれて。涙がでるほど笑えたのは君のおかげ。
何ものにも代えがたい幸福な日々――――を、
与えてくれた小さな存在。
「待って、真守くん!」
もういいんだ。だから祥子、その手を放してくれ。
「あなたは…!私を憎む権利があるわ!」
「祥子……?」
「いいえ、いいえ。そうじゃない…」
長い髪をふり、眉間に強くしわを寄せ、細い指を白くするほど握りしめる。
「私が憎んでほしいの…。あなたが憎んでくれれば、罪の意識が薄れるわ…」
「馬鹿なことを…」
言わなくていいのに。
「そうよね。自分勝手よね…。でも、そうしてくれないと祐輔と居られない。祐輔の顔を見るたびに、私は自分がいやでいやでしょうがなくなる。ひどい人間…。自分の存在に耐えられなくなる…」
「祥子…」
「私を許せない、憎いと真守くんが思ってくれれば、自分の犯した罪への贖罪となるの。だから、お願い…!」
お願い――――――
そう言い続けたのを、これまで忘れたことはない。
「村長…」
愛しい祥子。私はひとときも君を忘れたことがない。
忘れられるはずがない。そうだろう?だから、君は自分を憎めと言った。
ならば…、
「祐輔の子が万全に守子を務められるよう、できる限りのことをさせてもらいます」
君が望むことを、私はしよう。
――――――杉、ブナ、ヤマモモ、椋木、ケヤキ、笹、クヌギ、サカキ、タブの木、もみの木…。
北から南までたくさんの木々が日本にはあり、目を楽しませてくれる。
しかし、武はそうした木々の名前を知らない。ただ、うっそうとした樹木を呆然と見上げていた。
(うそだ……)
自分は20メートルくらいの高さから突き落とされた。
そう、突き落とされた。あの涼介という野郎に間違いなく突き落とされたのだ。
そして、
(奇跡…)
だった。
幸運にも落ちたのは川の深い部分だったらしい。それでもあの高さから落ちて、無事とは奇跡としか言えなかった。
ごぼごぼと水中を潜ったのを覚えている。
そこから記憶はないが、気がついたら川にある岩と岩の間にはさまっていた。その岩をなんとかつかみ、川岸に上がって仰向けに倒れこんだ。7月とはいえ、川の水は心臓が止まるくらいに冷たい。全身が震え、がたがたと歯がなった。
そうしていると、おーい、おーいという声が崖の上から聞こえてきた。
「大丈夫かあ?聞こえたら返事をしろお」
だが、黙っていた。これも罠。でなければ突き落とした張本人が、こんなセリフを言うはずがあるか。
『いついかなる時も声を出してはならない』
つまり、そういうことだろう…と。
いっとき、同じ言葉が聞こえ続けたが、沈黙を続けていると、しばらくして、
「助けがいらないって言うなら自力で上がってこい。さっさとしろよぉ。神事は始まったばかりなんだからなあ―――」
(やっぱり…)
「いまから30分以内に神社に戻れぇ。1分遅れるごとに一発のペナルティだ。それと熊、出るからからなあ…」
(くっ…)
なぜ逃げなかったのか自分でも不思議だった。
がくがくとした手足を這わせ、森を抜けて迷いながら戻ったのは2時間後。
戻るとむろん、涼介から今度は警策でケツを叩かれた。
「いち、に、さん、し、ご……………」
ひゃくろくじゅうに…、ひゃくろくじゅうさん…、
その後の記憶はない。武は途中で気を失ってしまったのだった。
「和也さん」
「ん?」
「これは殴っていいですかね?」
ああ…と、週刊誌のグラビアを寝転がってみながら、
「どうだかねぇ…。まあ、初日だし。死なれてもねぇ…」
「ずいぶん優しいですね…」
「しょうがないじゃん。ほんとびっくりするくらいヘナチョコなんだもん」
「………………………」
「不満なのはわかるよぅ。俺だってウズウズしてるし」
「そういえば、よく手を出しませんでしたね」
うん…と言いつつ、
「……俺、なんか今、一回やり始めたら止まらなくなる気がしてさ………」
グラビアを見たまま和也が小声で言うと、涼介の体に鳥肌が立った。
3年前の悪夢を思い出す。
この“ばか…ずや”が野獣と言われる恐ろしさを、いびきをかいて寝ているタコ野郎は知るまい。自分がどれだけ優しいかをこんこんと言ってきかせたい。
「ついてないよなあ…。俺、これが最後だぞぉ。ありったけのストレスを発散するつもりだったのにさあ…」
ヒヒヒヒ…と不気味な笑いが週刊誌の下から聞こえる。和也の頭の中はスプラッタ・ムービーに違いない。
「ああ、でも俺、こいつ結構、気に入ったかも」
「は?」
地球がこっぱみじんになったような驚き方を涼介がした。が、和也はグラビアを見たままで、
「なんだろな?宮野の人間に間違いないのに、こいつ、せんぜん俺らと違うべ。まるっきり。正反対っつうかなんつうか…、なんか青虫に似てね?」
「青虫…」
懐かしいなあ…、昔よく取って焼いて食ったなあ…、うまかったなあ…と、和也が言うのを聞きながら武の寝顔を涼介はむずかしい顔つきで見た。
(これは殴るべきじゃねぇか?殴るべきだろう…。殴ろう…)
いびきだって声を出していることになるだろうが…と。
「いいか、よく聞け。これより神事のスケジュールを発表する」
(スケジュールって…)
どこでついたのか、髪の毛にからまっていた一本のワラを取りながら、武はムスッとした顔をした。
あれから涼介にケツを蹴られて目を覚ました。蹴られて、うぎゃ!と声をあげたせいで、また蹴られ、
「馬鹿が!なんど言われれば分かるんだ!このタコ!」
と罵倒された。さらに、
「てめぇみてぇなアホは初めて見たぞ。あ?どこの世界にそのまま落ちる奴がいるよ?」
(いきなり崖から突き落とす人間がまず居ないだろうが!)
心の中で悪態をついた。もちろん、声に出せないので目の前のニキビ野郎には聞こえず、そいつに偉そうな顔で、
「普通、蹴落とされたら、岩肌か手近にある木とかに手とか足とか、とにかく体の部分をあてて、落ちる速度をゆるめて落ちていくのが常識ってもんだろうが。そのくらい章夫でも出来るぞ」
(章夫…。章夫って、あの…)
牛糞――――――。
ふるふるっと嫌な記憶に頭をふる。それから、へっと目を見張り、
(待て…。このヤンキー…)
と言うと、ヤンキーがかわいそうになる位、目の前の野郎はひょろひょろガリガリのキモ野郎だが。
(こいつ、小学生を崖から蹴落としたのか?…それ犯罪…。いや、さすがにそこまでは…)
などと疑いの目を向けてみた。が、キモ野郎はまったく気がつかず、横柄な態度で、
「守子鳴の目的は、すべて例祭を完璧にこなすことにある。よって一日の始まりは、この通りに覚えるんだ。つまり…」
言いつつ、一枚の紙を渡してきた。それには、
23時30分から7時まで座禅。
8時までに朝食を済ませ、就寝。
14時:起床・昼食。
15時よりマラソン。滝行。
19時:夕食。
20時から神社の掃除。
22時:風呂。
22時30分から23時半まで体力作り。
と、書いてある。
(23時30分から朝の7時まで座禅?うそ…。あ、いや、そうでもないのか…)
一晩、洞窟において無言で過ごすのだと父、祐輔からも聞いている。だとしたら、これくらいの時間になる。
(うう…。安請け合いしなきゃよかった……)
章夫のことを忘れ、武は、がっくりと肩を落とした。
よくよく考えてみたら、かなり大変な例祭ではないか。
座禅と言うからには椅子には座らない。かと言って正座ではもたないから座禅という形になるのか。その格好で約8時間近く無言で座り続けなければならない。後、
(…思ったより、ちゃんと考えられている?)
最初の一行が夜の座禅から始まっていた。
つまり、これが一番大事だということだからではないか。
夜に座禅を組まされるのは、例祭の時間を考えてのこと。
通常、”守子鳴”は1カ月やるんだけどね――――。とも祐輔が口にしていた。
(それでか…)
一カ月の期間は、体を慣れさせるためのものというわけに違いない。それにしても、
(無言…)
8時間ちかく、わずかでも声を出してはならないと言うのも、かなりきつい。
キモ野郎の暴力に怒りはあったが、一方で納得せざるを得ない面も見せられた。
武は馬鹿ではない。伊達に小中、学年トップだったわけではなかった。なので、気がついた。
普段、意識しないので分からなかったが、人間、意外に声を出す。少なくとも自分は結構、声を出した。
ふいをつかれて声を出したのだ。
洞窟で、ただじっと座っているだけで何があると言うわけでもないだろうが、たとえば虫に刺された(洞窟ならあり得る)とか、こうもりが飛んできた(洞窟ならこれは大いにあり得る)とかで、ふいに声を出すことが今の自分なら十分にあり得る。と痛感させられた。
これも慣れ。なにをされても声を出さないのも慣れるしかないというわけである。
そう考えると、彼らのしたことがそれほど無茶にも思えなくなった。
人間、慣れとは恐ろしいものである。
武は、自分が彼らから非人道的な暴力を受けていることを、慣れのせいで忘れてしまったようであった。
(父さん、あんなに喜んでたしな…。それに、これをうまく終わらせれば、東京に戻りたいという頼みもすんなりと聞いてくれるかも知れない…。まあ、幸い、僕は10日で済むわけだし…)
それもあるし、こいつらに出来たことを自分が出来なかったとなるのが、くやしいと言うのが大部分であるが。
なので、少しの我慢、我慢と言い聞かせた。
また声を出さないということは、見方を変えれば、このキモ野郎どもと無理に話す必要がないということだ。そっちの方がどれだけ気が楽か…と、ポジティブに思うことにした。
(いや、待て…)
しかし、プラス思考に持っていった武が、目を紙に滑らせていくと、わなわなと震え始めた。
(マラソン?滝行?神社の掃除に体力作り?なにこれ?なにこれ?)
「よし、14時58分、外に出るぞ」
涼介が社務所の柱時計に目をやり、立ち上がった。
(へ……?)
一瞬でも、こいつのやり方に納得した自分が馬鹿だった。
15時、マラソン―――――。
昼ごはんは?
と口に出来ず、とたんにお腹がぎゅるぎゅると鳴った武は、涼介にバシバシ蹴られた。