祭編―1―
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青の絵具を塗ったような空。
緑の絵具を塗ったような山。
その景色に土手に寝転がっていた武はぎゅっと目を閉じた。
―――――父、祐輔の秘書・野口が絶叫した後のことはあまり記憶にない。
気がついたらこの空の下にいた。
なので何県かわからない。何県なのか知る手かがりもない。
なにせ見渡す限り山、山、山、山―――――。東西南北、山しか見えなかった。
携帯は圏外。電車もない。コンビニもない。車もない。
引っ越した家は畳とふすまと障子でしきられた平屋の古い日本家屋。近くに家はなく、舗装されていない道の両脇は田んぼと林。
その道を通り、昨日は、ひきずられるようにしながら父に学校へ連れていかれた。
着いてみると校舎は木造。よくいえば昔、絵本で見たお菓子の家にそっくりだった。しかし決しておいしそうではない。そして、
教室に入るとスライムが走り回っていた。
(…もう、だめだ……)
ショックのあまり、とうとう現実にない世界が見え始めた。
「はいはい。みんな静かにしてねぇ――。転校生を紹介するよ。今日から一緒に勉強する武くんと聡史くんだ」
そう思って立ちつくしていると 担任だと名乗った中年の男が、ぼさぼさの頭をかいて、
「村は子供が少なくてねぇ。だから小・中・高、同じ教室で勉強してるんだ」
と言ったことで、なんとかスライムが小学生だと分かった。分かったが、
(小中高が同じ……?)
―――――教室だと…?
「中学生は君一人、高校生も一人だからねぇ。武くんはちょっと寂しいかなあ。まあ、教える方としては楽で助かるけど」
ああ、はいはい、静かに…と走り回るスライム…、もとい小学生に言いつつ、
「武くんは左の窓側の前から三番目の机。聡史くんは右の後ろから二番目の机ね――」
レンズの厚い眼鏡を指で押さえて、担任が言った時だった。
「うんこ!」
下から急に大声が聞こえ、お腹のあたりに妙な感触をおぼえた。
反射的に顔を下に向けると、聡史より小さい子が自分の目の前に立っている。そして武の白いシャツに何か茶色いものがついていた。
「ああ、武くん、大丈夫。それは、うんこじゃなくて牛糞だから。章夫、家から牛糞をもってきちゃダメだって言ってるだろう」
(ぎゅ………………)
「ぎゃああああ!」
悲鳴をあげて失神し、目が覚めた時には保健室らしきベッドに寝かされていた。
そのまま学校から飛び出した。だいぶ走って目に飛び込んできた川の土手におり、汚れたシャツの代わりに着せられたらしい、黄ばんだ体操着を乱暴に脱いだのだった。
そして今日――――。
生まれて初めて学校をさぼり、昨日の土手に寝転がっていた。
学校をさぼったら、ゲーセンに行ったり、青少年立ち入り禁止の場所に行ってドキドキしたりするのだろうが、ここにはそんな危険で楽しい場所などない。
それで仕方なく、このひとけのない土手に来た。まあ、ここでなくても人は居ないが。
(うう…)
東京に帰りたかった。
あいまいな色の空に灰色のビル。モノトーンのグラデーションは目に優しく、車の騒音、人の波が母の胎内のごとく心の平穏を与えてくれる東京に。
あの場所で、M/YRグループの御曹司として、学年トップとして、学校中の生徒から向けられる妬みと嫉みと殺意の視線を一心に浴びたい。
(なんで…。どうして…)
前々から変わっていると感じていたが、よもや父がここまで変人とは想像もつかなかった。
どうすれば、あれだけ大きな会社を捨てられるのか。どうして、ああも引越しの手際がいいのか。
なんで、どうして……と、武は夕方になるまで土手に寝転がってさまざまなことを嘆き続けた。挙げ句に、
(いや…、まて…。もしかして…)
あまりにもあり得ない状況に、とうとう今までの自分の人生の方が夢だったのではないかとさえ思い始めた。
(交通事故に会い、昏睡状態になって、ずっと夢の中で自分は大きな会社の息子だと思っていた…)
が、突然目を覚ました――――。
(は…、なに考えてるんだ、僕としたことが…)
あまりのショックで頭が混乱しているんだ。しっかりしろ…と、武は自分に言い聞かせた。
とにかく家に帰って確認…。いや、元の生活に戻してくれと父に頼もう。
そう思って腕時計を見た。授業が終わる時間を見計らって帰らないと、学校をさぼったことがばれてしまうからだ。
(大丈夫だな…)
武は立ち上がり、川沿いの道に戻った。
家に帰りつくとドアではなく引き戸を開けて中に入った。みしみしと音を立てる木の廊下を歩き、しみのついたふすまを開ける。と、そこに父、祐輔が居た。
「ああ、おかえり、武。ちょうどよかった」
父は、昔からあるであろう色あせたテーブルの前に座り、なにかを懸命にやっていた。
「え…と…。お湯を先に入れるんだっけ…。それともお茶っぱが先だっけ…。え?あれ?」
「父さん…」
「ん?なんだい?」
「それ、ワカメ…」
「え?ああ、そうなんだ。それで増えたのかあ」
ワカメがてんこ盛りになった急須を感心したように父が眺める。
「父さん…」
「ん?なんだい?」
「僕、交通事故にあったことある?」
「いや、あってないよ」
「一度も?」
「一度もないよ。ああ、“風疹”には、かかったねぇ」
「じゃあ、僕は昏睡状態になったことないよね」
ないねぇ…と言いながら父はいろいろな袋を開けていた。
「じゃあ、じゃあ…」
僕はM/YRグループの御曹司で……と言いかけた時、
「ぎゃあああああ!」
なんと、あろうことか奥のふすまを破って、家の中に熊が入ってきた。
悲鳴を聞きつけらしく、体長3メートルの熊が、前足を上げ、グオオオ…!と武めがけて襲いかかってきた。
しかし恐怖のあまり、逃げるどころか腰が抜けて立つこともできない。武はがくがくと体を震わせながら、父に向かって助けを求めるしかなかった
「と、父さん!助けて!熊が!熊が…!」
だが、祐輔は、なにかを始めると周りが見えなくなる性格だった。今はお茶を入れることだけに気をとられ、咆哮をあげる熊が真後ろに居るのに気づかず、まだ袋を開け続けている。
「ああ、ごめん、もう少し待ってねぇ。今、お茶がはいるから」
「父さん!お茶なんかいれてる場合じゃない!早く!熊!熊が!」
「武、熊じゃないよ。伸治くんだよ―――。息子が失礼なことを言ってすまないねぇ。伸治くん」
「いえ、お気になさらず。大学でもよく間違われましたから」
「そうだったの?」
「はい。大学の敷地に猟友会の人がうろうろして……。まあ、弾は全部外れましたけど」
撃たれたんだあ…、それは面倒だったねぇ…と、父は熊を気の毒そうに見た。
(い、いや…?)
武は手の甲で両目をこすった。そしてよくよく見る。
(熊じゃない……。人だ……)
だが、でかい―――。でかくて、でかい。縦も横も。
体長3メートルは大げさだったが、恐らく身長2メートルを超えている。その身長に日本人離れした筋肉がこれでもかと盛り上がっていた。首回りなど恐らく母のウエストより太い。
短い黒髪の下の眉も太く濃くて、そのうえ真っ黒に日焼けしているので熊に見えたらしい。
「祐輔さん…、その…、お茶は結構です…。今日は“お伝え”にうかがっただけですので、すぐに失礼します。涼介が祭りの準備をひとりでしているので手伝ってやらないと…」
伸治が急須からあふれたワカメと、たくさんの袋からこぼれた落ちた海苔やコショウ、砂糖などなどがテーブルの上や下に散らばっているのを恐々と見ながら言った。
すると熊(実際は人だったが…)にさえ驚かなかった祐輔が、びくっと大きく肩を上げた。
「そ…そう…だね…」
声まで震わせ、た、たける…と呼んで畳に正座するように言ってきた。その隣に座り、がたがたと震えている。
「それでは…」
と、正面に伸治が正座をし、両手を畳について頭を下げた。
「かしこくもかしこくも―――。本日は御役申しつかりて参上いたし候なれば、なにとぞ御身すこやかに…」
「は!ははあ!」
伸治の変な台詞に、祐輔が思いっきり畳に頭を打ちつけた。ゴツッと鈍い音がする。
(うひゃ…!)
見ていた武の方が痛いと言う風な声を心の中で上げると、
「た、武!ほら!お前も!」
ひたいを赤くした祐輔が、がばっと起き上がって息子の頭をつかみ、同じく畳に打ちつけた。
「いた…!」
祐輔から力いっぱい頭を畳に叩きつけられて今度は本当に声が出た。しかし父はガチガチに緊張して、自分がどれくらいの強さで息子の頭を叩きつけのかも分からずに、うわずった声を出す。
「つ、つ、謹んで賜り…そうろう…!」
「みつよに御身、すこやかに…」
ははあ…!と、祐輔がまた答えた。二人はそれから5秒ほど頭を下げたままで、武も父に頭を押さえられ続けた。
「それでは明日」
伸治が先に頭を上げ、そう言い残して逃げるように居なくなった。恐らく、長居すると何かこの世のものでないものを飲まされると恐れたのだろう。