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恋愛もの

セカンドステップ

作者: 腹黒ツバメ



〈セカンドステップ〉



 学生時代からのつきあいだったカノジョにフラれた。

 離縁話の間に、さして悶着はなかった。デートの最中、夕暮れ時の喫茶店でカノジョが突然言った「別れよっか」のひと言に、俺はただ頷いただけ。

 そろそろ潮時だと、お互いに薄々勘づいていたのかもしれない。

 とにかくその日を境に、俺たちの関係は途絶えた。

 一週間前のことだ。



「ふぅ……」

 吐いた息は白くなかった。

 吹きつける風はまだ少し肌寒いが、日向に注がれる陽気は本格的な春の到来を布告している。

 背の高い鉄塔が寂しく聳えるこの空き地へわざわざ訪れた理由は、特にない。

 ただ気ままに散歩をしたかったのと、この街で元カノとの思い出の場所を忌避していたら、他に行く宛がなかっただけだ。あの鉄塔に孤独な自分の姿を重ね合わせた、とかでは断じてない。

 しかし隅のベンチにどっかと腰かけた俺の脳内には、未だ元カノの顔が目障りにちらついていた。そしてそれを意識する度、耐え難い脱力感が背中に圧しかかる。

 ――意外と引きずってんのかな。

 自分のことだけど、どうしてか疑問に思う。

 失恋して悲嘆に暮れているのとは違う。

 そう、悲しくはないのだ。

 あの日から俺の胸中では、元カノへのそれなりの未練と、そして解放感が同居していた。それらが混ざり合い、おかしな化学反応を経て“感傷”に化けているのだ。どうせすぐに風化して消える、賞味期限つきのノスタルジー。

「でも……」

 それとは別種の感情もまた俺の心に巣穴を掘っている気がした。

 自分自身でも得体の知れないそいつが、この脱力感を生成する膿となっているのだ。

 過去に戻りたいという欲求はない。

 けれど未来に進むことも暗鬱な気怠さが阻む。

 前にも後ろにも行きたくない。

 ずっとここで孤立無援に空でも見上げていたい気分だ。

 遥か頭上に広がる大空は一片の曇りもない――陰気な感情を抱いた俺のような輩を世界から排斥するような――晴れやかな蒼天だった。


「なにしてるんですか?」


 突然、俺の身体にかかる影。

 声に振り向けば、そこに立っていたのは同年代と思われる女性だった。愛嬌のある丸目で不思議そうに俺を見下ろしている。

「別に……ぼーっと空を見てただけですよ」

「空を見るのが、そんなに面白いんですか?」

「は?」

 どこでそんな勘違いが発生したんだ。傍から見ると俺は相当夢中になって空を眺めているように見えたのだろうか。それも赤の他人に興味を持たれるほど。

 おかしいなと首を傾げる俺の鼻腔を、なにやら妙な臭気が奇襲する。な、なんだこりゃ?

 不可思議に思い鼻を鳴らす俺に女性は当惑したように、

「えと……さっきワンちゃんが足にオシッコひっかけてましたよ」

「なにぃ⁉」

 なるほど、怪訝な目で見られていた原因はそれか! 足元で小便垂れを見逃すようじゃ、確かに上空見学にすこぶる熱中していると誤解されても仕方がない。てか、そんなに隙だらけだったのか、俺。

「追い払ってくださいよ……」

 眼前の彼女に駄目出しするが――まあ彼女も突然遭遇した事態に困惑していたのだろう――そこまで要求するのは酷だ。日常的に出くわす光景でもないし、狼狽して冷静かつ迅速な対処ができないのも当然だよな。

 と考えていたのだが、

「ほら、レアなシーンだったので思わず写メ撮っちゃいました」

「追い払ってくれよ!」

 笑顔で携帯電話を取り出す彼女に、俺は敬語も忘れてツッコんだ!

 笑いごとじゃねえぞ。爪先が臭くて生温かくて気色悪いんだぞ。

「ところで」

 無視かよ。彼女は笑みを浮かべたまま、俺の隣に腰かける。

「さっきまでなにを考えてたんですか?」

「え……?」

 空を見てただけ、そう言ったはずだが。

 再度首を傾がせると、彼女はくすりと笑って疑問に答えた。

「なんか思い詰めた顔してたので。表情って意外と自分では気づかないものなんですかね?」

 図星だ。それを聞いて、俺はますます面食らってしまう。

 彼女の洞察力もだが、真に驚嘆したのは自身の心境にだった。

 孤独も構わないと諦念が芽生えて間もない内に、俺は不思議と彼女との会話に充足を覚えていた。彼女にならば、こっ恥ずかしい失恋の傷跡も晒してしまいたいと思えるほど。

 まるで固く閉ざされた錠前に、ピタリと噛み合う鍵を差し入れたかのように。

「――俺、カノジョにフラれたんです」

 一瞬の躊躇もなく、言葉は口を衝いて出た。

 俺は慰めを期待しているのか? いや、違う。単に話したかったのだ。赤の他人でもいい、誰かに聞いてほしかった。

 沈黙が降りる。彼女の方に瞳を向けると、なぜか鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしていた。

「ど、どうしたんですか?」

「いえ、あの……」

 茫然と口籠る彼女。いや、その反応はおかしくないか? まさか俺のような男が異性と交際していたという事実に驚愕しているのだろうか。なんて惨めな推測なんだ。

 そんな俺の危惧をよそに、彼女は心を落ち着かせるように深呼吸をした後、またゆっくりと言葉を紡いだ。

「すみません、ビックリしちゃって。こんな偶然ってあるんですね――あたしも、フラれたばかりなんです」

 その口元から白い歯がこぼれる。

 彼女の笑顔に薄幸を嘆く影は微塵も窺えず、

 むしろ周囲に元気を分け与えるかのように、そこには活力が満ち溢れていて、


 だから俺は、彼女の台詞をまったく信じられずにいた。


 自分と彼女は同じ失恋の身。

 けれど違う。俺はあんなに屈託なく笑えない。

 俺とて悔悟に彩られた悲恋をしたつもりはないが、まったくの無念ではない。そんなのは有り得ない。失恋とは、そういうものだ。

 なのになぜ、彼女は心底から笑うことができるんだ?

 羨ましかった。

 俺の精神を蝕む倦怠感は失恋により生じたものだ。だから、これは恋に敗れた者がみな体感する痛みなのだと勝手に思っていた。

 だが、そんな障害を感じてもいない彼女の姿勢は、俺の双眸には輝いて映った。

 不謹慎というか、失礼なんだろうな。わかっていても、尋ねずにはいられなかった。

「……なんであなたは、そんなに明るくしていられるんですか? その……、フラれたのに……」

 曖昧模糊な問い。

 しかし彼女はそこに秘められた真意を瞬時に読み取ってくれたようで、諭すような口調でこう言った。

「落ち込まないわけじゃないんですよ」

 一瞬だけ、彼女の表情が曇った。しかしそれを指摘するより先に、満面の笑顔が塗り潰す。


「でも、悲しみに浸って暗い顔をするよりも、新しい出会いを待ち遠しく思ってた方がいいじゃないですか」


「あ……」

 その言葉は俺の脳に脊髄に――心の芯に響いた。

 まさに目から鱗、俺は知らない内に負の感情の呪縛にかかっていたのだと、ようやく気づいた。

 そう、俺の胸中に潜み、充実した気力を無力化していたものの正体は“不安”。

 俺は別れに怯えるあまり、未来すべてを悲観していた。どうせ次の出会いにも終焉が訪れるのだと、心のどこかで諦めていたのだ。

 過去自体に後腐れを持たずとも、経験は偏見となりその行動を自縛する。一歩踏み出す勇気を漠然とした不安の顎門が喰らう。

 それが俺と彼女の決定的な差異。囚われるか、進み続けるか。

 俺は過去に囚われ、未来を恐れていた。


 未来を見通す力など、自分は持ち合わせていないのに。


 出会いとは先が見えないもの。だからこそ俺たちは、期待も不安もひっくるめて前へ進むべきなんだ。

「す、すみません! なんだか説教臭くなっちゃって……」

 苦笑いで頭を垂れる彼女を、俺は無言でじっと観察していた。

 初対面であろうと臆面なく声をかけ、底抜けにポジティブで、失意や悲痛とは無縁な人。

 彼女に抱いた俺のちょっぴりの羨望は、今や姿形を変えていた。この気持ちは、そう、


 ――俺は彼女に惹かれているんだ。


 なあ、この子をフった野郎、残念だったな。おまえの逃した魚は埒外に大きいぜ。うん、いつかきっと後悔する。

 なんせ代わりに、俺が――

「あ、あの」

「え?」

「いや、その……」

 そして決意を固めたとき、俺の心臓はバクバクと高鳴っていた。おい静まれよ馬鹿心臓、ヘマでもしたらどうするんだ。

 彼女の眼前に仁王立ち、唾を呑み込む。

 しかし俺の緊張とは裏腹に、これから起こすと決めた行動は、存外大したことではなかった。

 人生の中で幾度となく繰り返した日常の一部。普段なら固唾を呑む状況とは縁遠いそれは、

「俺、朝野(あさの)次郎(じろう)

 自己紹介だ。

「そっか、まだ名乗ってもいなかったですね。あたしは床屋(とこや)(みつ)です」

 軽く会釈する床屋さん。俺も慌てて頭を下げる。緊張しているのが傍目にも丸わかりだが、俺には隠す余裕もない。

 あと一息、彼女に言われる前に、言うんだ!

「よければ、携帯番号とか交換しないか?」

 言った! 言えた!

 なぜこの程度のことでビクついてたのか? ああ、決して異性と接触するのが照れ臭いとか、そういう話じゃないんだ。本当だぞ!

 今のは、途方もない“不安”を俺から振り払うための儀式だったんだ。

 名乗る行為、それは人と人との他愛ないすれ違いを“出会い”に変えるための決意の表れ。

 俺はもう別れを恐れない。

 最初から弱気になっていたら、一期一会の素敵な出会いなんて、生涯有り得ないのだから。

 真っ昼間の空き地に刹那の静寂。

 それを打ち破ったのは、

「はい、ぜひ!」

 床屋さんの肯定のひと言だった。

 それだけで不安も恐怖も脱力感も、体内から淘汰されていった。あの大空のように澄みきった、清々しい至福の歓喜だけが俺の胸に満ちた。床屋さんの背中に後光さえ差して見えた。

 元カノの姿がちらっと脳裏をよぎり、だがすぐに失せる。

 もしかしたら今のは、元カノがくれた激励だったのかもしれない。二度と同じ轍は踏むなと、忠告をしてくれたのだろうか。

 ――言われなくても、手放さないさ。

 床屋さんと面を合わせてにこにこと笑いながら、心の中でそう宣誓する。

 出会いの行く末にきっと待ち構える別れの可能性。それを回避することは叶わない。

 けれど、

「あの、さ……」

 それを享受するか跳ね除けて進むかは、自分次第だ。


「これから、よろしく」







 読んで頂きありがとうございます!

“何事も最初が肝心”とは言いますが、最初に失敗したらもう試合終了、というわけでは断じてありません。恋愛においても、もちろんその他においても。

 そこで挫けず恐れず二歩目を踏み出せれば、きっと未来への道は開かれるのです!

 ――とか格好つけておきながら、筆者自身はまずファーストステップの足場が見つけられずにいる現実。惨めだ。


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