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後編


 今日も客は他にいなかった。その上、私たちを見たおじさんがまたのれんを外してしまった。

 この店、つぶれてしまうんじゃないかと本気で心配になる。けっこう切実に、つぶれて欲しくない。



 目の前に置かれたラーメンのスープをすくって口にふくむと、ことばがほろりと口をつく。


「こんなにおいしいのに・・・」


 彼が声をあげて笑った。店に入った彼は、曇るしなくても困らないからと眼鏡を外していて、少し印象が違って見える。眼鏡が似合うと思っていたので、ちょっと残念だ。


「商売っ気がないからね。後継者もいないし。けどね、ちゃんと固定ファンもいるから大丈夫、そんなにすぐにはつぶれないと思うよ」


 おばさんの姿は今日も見えなかったが、厨房のおじさんも豪快に笑ってる。

 そんな様子を見てると、今日でクビになったことなんて、すごく遠いことのように思える。


 自分には何も残らないなどと、ずいぶんいい加減なことを思ってしまっていた。胸のつぶれるような毎日の、その渦中では、もの凄く視野が狭くなっていたから仕方なかったのかもしれない。

 でも、自分には、健康な体もあるし、お金を使う暇も心の余裕もなかったおかげで、当面の家賃の心配をする必要もない。

 おいしいラーメンを作るこのおじさん、隣りにいる元先輩社員、私をねぎらってくれた人たち、自分の方から連絡を絶ってしまった友人たち。

 残っているものを見まわすと、自分はよくよくぜいたくな奴だと思える。


 昔の友人にもこちらから連絡をとってみよう。就職活動にもぼちぼちフントウしよう。どちらもダメもとで。いや仕事は遅くとも失業給付が切れるまでになんとか。

 でもその前に、少し休んで自分を甘やかそう。客観的に見れば、暴言に抵抗もせず離職しただけの話。でも、甘ちゃんの私にとっては、なかなかきつい体験をしたのは確かだから。



 おじさんが杏露酒をサービスしてくれた。あまり酒に耐性がない私は、少しだけをいただいて、お湯でわってもらった。おじさんが呆れながらも残りを飲んだ。

 それから片づけを手伝うと、おじさんに手を振って、彼と一緒に店をでた。



 外の道を歩きはじめると、さえざえと冷えた冬の空気がいきなり身にしみてくる。


 残念なことに、さっきまでの楽しさの余韻に浸っている暇はなかった。どこからか降って湧いたような気まずさが、あっさり空気を覆いはじめている。

 無口になった彼の様子に、徐々に不安がつのった。焦って話題を探しても、店で何を話していたのかすら思いだせない。

 人通りの少ない脇道に入ると、余計に何ともいえない気まずさが濃くなって、左手を強く握り込みたくなる。でも、今それをしてはいけないと思う。


 そのとき、軽く握った左の手のひらと指の隙間に、彼の指がすべり込むのを感じた。親指以外の四本の指どうしが絡み合う。

 彼が立ちどまってしまったので、私も足をとめた。


 癖が出そうになったのを気づかれたのか。ぎくしゃくと彼の方を窺うと、目があってしまった。


「爪、立ててみてよ」

「えっ?」


 爪を、立てろと? この状態で、というか彼の指の上に?


「そんな趣味、私にはないです」


 笑って流そうとしたが、思いがけず彼の表情が真剣で、語尾があいまいになる。


「俺にもないよ。どれくらいの痛みなのか、知りたいだけ」


 そんなこと言われたら、余計に無理だ。

 彼の声は静かなのに、言ってる内容が激しくそぐわない。


「できません」

「できる」

「その必要がないです」


 もうこの話題は終わりだと下唇をかみしめる私を、眼鏡をしていない彼の視線は逃してくれない。今も曇った眼鏡をしていればよかったのに。


「どうして、いつも・・・」


 唐突につながれている方の手がひかれ、倒れ込むように傾いだ私の体が、彼のもう片方の腕だけで強く抱きしめられた。


 速い鼓動が聞こえる、気がする。自分のと、彼のと。

 彼と話をしたのは、今日でまだ二度目。それなのに、そんな人の心臓の音を感じながら、いろいろどうでもいいほど、心がほどけてくる。

 石橋をたたいても渡らない私はいったいどこへ行ったのか。


 でも、別にやけになってるわけでも、淋しさに流されてるわけでもないと思う。

 あの背中を目にしたときか、曇った眼鏡のいらっしゃいを聞いたときか、いつからかはわからないけど、私はずっと惹かれていた。

 それに、爪なんか立てなくたって、この人は知っていてくれるのだ。私の痛かったことも、情けなかったことも。

 彼の痛かったことや情けなかったことを知る人に、私も、なりたいと思った。




 腕の力が少しゆるめられて、私はそっと息をはいた。そういえば、この間からずっと、言いたかったお礼を言ってなかった。


「あの、ありがとう」


 彼が驚いたように身じろぎするのがわかった。自分で言ったことなのに、いきなりすぎて意味がわからないのも当然だと納得してしまう。


「何が?」

「いろいろまとめて。今日のことも、この前のことも。でも、」


 背中がふっと寒くなって、かわりにあたたかい手のひらが頬に触れる。

 何がと聞いたのは彼の方なのに、聞いたその唇が答えの続きを遮った。



 遠慮がちだったキスが、すぐにさぐるように深くなっていく。

 左手をずっとつながれたまま、ことばのない時間が長くて、少し不安になった。


 だからというか、やっぱり私の左手は、彼の指に爪を立ててしまった。跡が残るほど強くではない、はずだけど。



 その手を残して身体が離れてから、彼は黙って空の方を指さした。

 振りあおいだ私の目に、まんまるから三日月の分だけ欠けた形の月が、黄色い光をこぼすのが見えた。






 そして現在の私は転職活動中。無職生活中ともいう。

 履歴書をエントリまたは送付、面接にかすりさえせず落とされる、この黄金の繰り返しパターンは、すでに新卒のときに経験済みだ。

 面接はさらに気が重いが、あの合併後の日々を思いだせば、多少のことは我慢できるという副産物に恵まれてもいる。暴言上司に感謝すべきだろうか。しないけど。


 この生活で、うっくつがまったく溜まらないといえば嘘になるが、私には嬉しいうっくつ回避策があった。あのラーメン屋を少しだけ手伝わせてもらっているのだ。

 

 おばさんは店に復活を果たしたのだが、遅い時間になるとまだ辛いという。だから、夜の数時間だけ、店に通っている。

 といっても片づけや洗い物専門なのだが、嫌でも人と接することができる。

 初日なんかは「いらっしゃい」を言うタイミングがおかしなことになっていたが、最近では私目当てで客が増えた、などとおじさんが言ってくれている。全面的に嘘くさいけど、そういうことにしておこう。

 もちろん、報酬がおいしいしょうゆラーメンであることも外せない。


 そして、こちらの店主の甥御さんとは、現在お付き合いさせていただいている。

 彼はこのところ、仕事がかなり忙しいらしい。うまく私にも仕事が見つかって、あっぷあっぷするようになっても、そういうことが原因で自然消滅なんてことにはならないようにしたいと思う。

 もし別れるとしても、前みたいに自然消滅ではなく、ちゃんとした理由が欲しい。

 ・・・それにしても、付き合い出したばかりで別れを考えずにいられないこの性格は、もう少しどうにかなってくれるのだろうか。





 陽が落ちる頃、赤い看板の小さなラーメン屋をめざして歩く。さすがにもう迷子にはならない。

 向こうに見える空の色は不思議なグラデーションをつくっていて、夕焼けと、月と、星が、同居していた。

 空はいつもあったのに、この数カ月はそんなことも忘れていたらしい。彼に出会わなければ、今でも思い出せないままだったのだろうか。


 ――でも、あの背中を見つけたのは私の方が先のはず。廊下で握った拳を心配してくれたのは、絶対それより後だと思う。


 あのとき遮られた「でも」の続きを後で伝えたら、わりと負けず嫌いだよねと笑われた。拒絶のことばが続くと思ったのだと彼は言う。まだまだ、彼については知らないことがいっぱいだ。


 今日の月は三日月。今は、手のひらに三日月はない。




 おわり


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