中編
三日月の形をした小さな爪跡が三つ。私の左手のひらに浮かんでる。
今はこういう状態だが、手のひらの下半分が赤黒く腫れていることもある。それよりはまだましだけど・・・暗い路地を通るとき、あるいはそれ以前から、無意識にやってしまったんだろう。
気持ちに負荷がかかったときや不安になったとき、爪を立てるようにして左手を固く握りこんでしまう癖が私にはある。
子どもの頃に注意されてずっと治まっていたのだが、入社後にぶり返し、会社の合併後に定着してしまった。
こんな子どもじみた癖はあんまり認めたくない。せめて跡が残らないようにと、爪も短めに切っているが、どういうわけか、腕の方までむくんでしまうこともある。
会社でこの癖を指摘されるようなことは、今までなかったのに。
「ごめん。無神経なことやっちゃったみたいだね」
先ほどの親しげな調子は引っ込んで、謝る彼の声音は抑制的なものだった。こちらの方が地なのだろうか?
とにかく本気で謝ってくれていることは分かったので、私は首を横に振った。
「別に、謝ってもらうことじゃないですから。でも、どうして?」
「いや、こういう所が欠けているんだ、俺は。怒っていいから。というか、怒ろうよ」
そんなこと言われても困るだろう、普通は。
「俺はね、先月まで第一営業部にいたんだよ。それで、何度か廊下なんかで見かけたことがある。その、手のひらが痛いんじゃないかって気になって、最初はどっちかっていうと顔とかより拳の方を見てたんだけど」
会社の私の席があるフロアには、私の所属する第二営業部と設計部などが入っていた。第一営業部は、一つ上のフロアにある。ちなみに合併前の私の部署は、さらに二つ下のフロアにあった。
第二営業部が個人事業主など小口の顧客を対象としているのに対し、第一営業部は、大口の法人や、アジアを中心とした海外顧客を担当している。企画にも携わる、いわゆる花形部署だ。営業事務などをこなす内勤スタッフも、私がほぼ一手に引き受けている第二営業部と違って、充実しているはずだ。
さっきの話だと、例の上司に叱責された後に、席に戻れず廊下に出たところかなんかを見られたのだろう。
「実は、ここの店でも見かけたことがあるよ。思いつめたような顔をして座ってたけど、ラーメン食べ始めたら幸せそうな顔になったから、ほっとした」
うっ、それは痛い。そんな風に見えていたのかと思うと、顔に血がのぼる。
なんだかみじめになってきて、目の前の彼に八つ当たりしてしまいたい。が、実際に怒った顔を向けたりできないのが私だ。
それに、彼の声は穏やかで、馬鹿にされているような感じはまったくしない。この調子で営業をかけられたら、あっさりいろいろ買ってしまうかもしれない。
顔を赤くしたままの私を見てまた罪悪感が呼び戻されたのか、彼は少し動揺しているように見えた。その動揺が私に伝染して、何か言わなくてはと焦ってしまう。
「あの、今は一営じゃないんですか?」
「ああ、うん。今は経理部。フロアどころか、入ってるビルも別だね」
一営は第一営業部の通称だ。一営から経理への人事異動なんて、普通にあるんだろうか。
もしかして、左遷?
でも、彼の表情に蔭りは見えない。
「ちょっとまあ、この性格ゆえにいろいろあってね。でも俺、商品として経理ソフトを扱ったこともあったし、経理は経理でおもしろいよ」
そう言うと、彼は立ち上がって給水機の方に向かった。
その背中を目にしてはじめて、あの人か、と腑に落ちた。
稟議書を上のフロアに届けに行ったときだったか、その場の雰囲気がなんとなく異様に感じられたことがあった。
そこにいた人たちが奥の部長席の方を気にしているのがわかると同時に、そちらから声が聞こえた。端然とした声というのがあるなら、そういう声だった。
背の高い男性社員がこちらに背を向けて立っていて、部長に向かって反論しているようだった。
そのまっすぐな背中もまっすぐな声も、上司に理不尽な暴言をはかれても言い返せない自分には遠いものだった。
心の感度を下げて防御の体勢に入っていたためか、合併後の社内でのできごとは、おおむねぼんやりした輪郭しかもっていない。そのなかで、あの背中はくっきりと印象に残っている。
「はい、しょうゆラーメンね」
おじさんが私と彼の前にひとつずつ、湯気の立つラーメンを置いた。澄んだスープのあっさり味のラーメン。
「すいませんね、うちの甥っ子がこんなかわいい人をいじめてしまって」
思わず、かわいくなんかありませんと真顔で言いそうになってから、甥っ子という単語に反応する。
「この人、俺の伯父さんなんだ。たまたま寄ったら、伯母さんが腰を痛めて休みだとかであたふたしててさ。少しだけ手伝ってたんだ」
「だからね、こいつにつけときますから、今日のお代はいいですよ」
「うん、そうしようよ。今までもよっぽど話しかけようかと思っていたんだけど、今日は寄ってみてよかった。ほら、冷めないうちに」
金色のスープをひとさじ、れんげですくって口にはこんだ。やさしい味が口いっぱいに広がってから、じんわりと身体にしみこむのがわかる。
それは涙の味ではなく、ちゃんと幸せな味がした。
それからおじさんは、疲れたからとのれんを外してきてしまった。私を導いてくれた赤い光も、消してしまったのだろう。
どうせもう客も来ないよと言ってもいたが、私に気を使ってくれたのではないかという気もする。
食べ終わってから、私と彼は、ぽつぽつと話をした。彼はやはり、合併相手の会社から来た人で、私の二年先輩にあたるそうだ。意外にも、住んでいる場所がわりと近いこともわかった。
さすがに上司の暴言のことは言わなかったが、二週間後に退社が決まったことも話してしまった。こんな話を初対面に近い人とするなんて、私にとっては珍しいことだ。
彼はほとんど黙って聞いていたが、退社のことを話したときは、少し驚いた様子で、でも何かを察したようだった。
「じゃあ、これから新しいことばかりで、楽しみだね」
「楽しみ?」
そんな安っぽい慰めの常套句、とは思わなかった。
彼なら本当にそう思うのだろう。私だって、そういう可能性もないことはないと思える自分に驚く。
話をしているうちに、胸の奥に居座っていたまっ黒な塊が重みを減らしたようだった。ここ最近では考えられなかったほどに。
結局、代金は受け取ってもらえなかった。なのでせめてこれくらいはと、テーブルや流しのまわりを拭いたりするのを手伝う。
彼はこれから備品の修理を手伝うとかで、遅い時間なのに私を送れないと残念がってくれた。私の方は、話ができて、こんなに気分を軽くしてもらっただけで、十分すぎるほどだった。
これくらいの時間には店に顔を出すから、ぜひまた寄ってくれと彼は言う。寂れた店だけど、しょうゆラーメンだけはおいしいよね、とも。
店を出ると、温まっていた気持ちが少ししぼんで、きちんと感謝の気持ちを伝えられなかった自分をもどかしく思った。
退社するまでの二週間、帰宅する頃には毎日のように、あのラーメン屋と彼のことを思い出してはいた。でも、あの店に入って彼に会ったら、いろいろ情けないことを口走ってしまいそうな気がして、結局一度も足を向けることはなかった。
今日は最後の出社日だった。引き継ぎ書も完成し、私物もだいたい整理し終わり、あとは淡々と通常業務をこなした。
金曜日だったから、暗くなる頃には週末特有の浮き立つような雰囲気がフロアに漂っていた。
その雰囲気に反して、送別会も寄せ書きも一切なし。事実上のクビだという事実を改めて思わずにいられない。
二十一時をまわったところで通常業務を終了し、周りの人に挨拶をしてまわった。例の上司は離席していたが、朝一で挨拶は済ませてあった。
もちろん、営業先から直帰した人や、すでに飲みに繰り出した人もいたはずだが、気のせいか、この時間にしては在席者が多い気がした。
一人ひとりに声をかけて挨拶していくと、普段ほとんど話をしたことがなかった人から、思いがけず丁寧にねぎらわれることも多かった。
こちらからもっと積極的に話しかけたりしていれば、もう少し居やすい環境をつくれたのかもしれないと思う。
相変わらず、私は気づくのが遅い。
でも今は、気づけて良かったと思うことにしよう。
エレベーターを降り、ビルを出て顔に冷たい風をあびると、さすがに胸がいっぱいになった。たった三年ぽっちには違いないけど――
それから、ふわふわした布の上のような場所を、ずいぶん長いこと歩いたような気がする。
ふと我にかえって辺りを見回せば。
またしても私は、例の暗い路地に入り込んでいたのだった。
どうしようか。
立ち止って逡巡していたところに、後ろから腕を強く引かれて思わず小さく悲鳴をあげた。
振り向くと、笑いかけのような顔をして、彼が立っていた。
まるで私なんかを見つけて嬉しいとでもいうように。
「ひどい人だな、もう」
「ほんと、すいません。でも驚きますよ、普通」
「そうじゃなくて。あれから一度も来てないんじゃない?」
「ええと、今日、来ました」
彼は苦笑してる。
「今、引き返そうとしてるように見えたけど。ま、いいや。なんかこんなふうになる気がしてた。それより今日は最終出社日じゃ・・・」
「ほんとに、ずっと来たいと思ってはいたんです」
「・・・うん、わかった。じゃあ、今日はあの寂れたラーメン屋じゃなくて、どこか別のところで打ち上げでもしようか」
私は少し考えてから言った。
「いえ、できればしょうゆラーメンが食べたいです。一緒に食べてくれませんか?」
少し笑って頷いてくれた。その顔を見て、自分はこんなにこの人に会いたかったのかと知る。
彼は先に立って路地を歩きだす。道の先の赤い光は、彼の体に遮られて見えなくなったけど、かわりにこのまっすぐな背中を追っていけばいい。