前編
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今になって思えば、仕事なんかより大切なものはたくさんあった。友人とか付き合っていた人とか。
もともとが忙しさを理由に切れてしまう程度の人間関係だったかも、ということについては正直あまり考えたくない。
どっちにしても、自分が悪い。
要領がいい方ではないという自覚はあった。体よく管轄外の仕事まで押しつけられているという自覚も。
それでも、もともとリソース不足の職場ではあったから、残業残業休出の日々を私は受け入れていた。それで自分が必要とされていると思い込んでいたんだから、仕方ない。
いくら忙しくても時間を作って遊べる人を、私は本当に尊敬してしまう。自分がそれをできないから。
ちなみに、仕事の内容はキャリアを標榜できるようなものではまったくない。いわゆる替えのきく仕事というやつで、私よりスマートこなせる人は、たくさんいるだろう。
それでも、入社三年目の秋までは、不器用なりに丁寧に、仕事の方はこなせていたと思う。ある日突然、自分の会社の吸収合併を知らされて、まったくアウェイな環境に放り込まれるまでは。
「バカ、ブス、おまえもう辞めろよ」
初顔合わせから二時間あまり。馴染みのないフロアで新しい上司は、私が提出したプリントアウトを指ではじきつつ、そんなことばを放り投げた。放り投げた先にいたのは、まあ、私なわけだ。
私の何かが、彼をいらだたせたのだろう。あるいは、人員削減各一名のノルマが課せられていたのかもしれない。とにかく、上司がそのたぐいの暴言をむけるのは、私に対してだけだった。私に対してだけ、暴言が執拗に繰り返された。
もともと疲弊気味の私の心に、小学生並みの語彙による暴言はかなりの破壊力を有していた。
一回バカと言われると、私は二倍バカになった。一回ブスと言われると、私は二倍ブスになった。
仕事のミスは逆に増えていき、身の回りのことにはどんどん気を配らなくなっていった。
胸の奥がずっと重く固まっていた。その上司の声が聞こえるだけで、肩がびくっと跳ねるようになった。
それでも、自分から仕事を辞めることは考えなかった。もっと頑張れば少しは事態がいい方に変わるはず、そう思い込んで、一分一秒をのりきることに専念した。叱責を受けると、指をぎゅっと固く握り込んで、暴言が心に入り込まないように耐えていた。
パワハラとして訴えるとか、それだけの前向きさがあれば、最初からこんな状況には陥らなかったと思う。
あとひと月足らずで今年も終わるという、入社三年目の冬。「自己都合」という名目で二週間後の解雇がひっそり決まったとき、私はやはり、ほっとした。これでようやく、解放される・・・
でも、今の仕事から解放されてしまえば。
私には、何も残っていないのだった。
これといった特技も、気を紛らわすことのできる趣味も。遠慮なくグチをこぼせるような相手さえ。
私はいつも、気づくのが遅すぎる。
あと二週間か・・・。
どうせ辞めるんだから、仕事の方は適当にお茶を濁してしまえ、などと思えない自分の性格が恨めしい。
新しい人が派遣されてくるらしいが、多少は苦労が減るように、明日からなるべくわかりやすい引き継ぎ書を作ろうなどと思ってる。
そんなにいい子になりたいのか、私。
いやそんなつもりはない、はずなのだが、この融通のきかない性格をどうにかしないと、また同じことを繰り返しそうな気がする。
と、ここまで考えたところで。
またやってしまったことに気がついた。
ストレスのせいなのかどうか、この数カ月、今まで無意識にできていたことができなくなったり、子どもみたいな失敗をしたりで、ただでさえ重い気分がさらにへこむことがよくあった。
たとえば部屋の鍵をかけ忘れるとかいった小さな生活上のことから、仕事に関することまで、それはもういろいろ。
日常生活を普通に送るっていうだけのことが、どれだけ困難の連続だったのか、その事実にときどき愕然としてしまう。
そして、今の状況はといえば――いつのまにか私は、見覚えのない狭い路地を歩いているのだった。つまり、迷子または遭難。
会社から一人暮らしの部屋へ帰るだけのことなのに。
何百回と通った道筋なのに。
うあ、何百回とか思ったら鼻の奥がツンとした。そりゃ、会社に愛着がないわけはなかった。だからといって、迷子になった揚げ句に涙目って、あんまり情けない。
気を取り直して、誰かをつかまえて道を聞けばいいと思った。思ったがしかし、ぼんやりと暗い道に人の気配はない。急に心まで寒々としてくる。
歩きながらケータイを取り出して時刻を見ると、もうすぐ二十三時。位置検索ってどうやってやるんだっけ、と思ったところで、路地の先にどことなく見覚えのある赤い光が見えた。
思わず足早になって温かな赤い光に駆け寄ってみれば、なんのことはない、それは何回か仕事帰りにお世話になったこともあるラーメン屋の看板だった。
頭の中になんとなく地図ができあがって、こんなルートもあったのかと感心する。同時に、空腹を意識した。
その店は年配の夫婦が切り盛りしている小さなラーメン屋で、一人でも比較的入りやすい雰囲気があったのだが。
二週間後に無職になる自分が引き寄せられたのは、流行っているとはいえないラーメン屋か――はぁ。
でも、久しぶりに寄っていこうか。あったかいものが食べたいし。
そう思って引き戸を開けると、湿った温かい空気に迎えられ、スープのいい匂いが鼻先をかすめる。
知らず肩に入っていた力が抜けていった。
「いらっしゃい」
あれっ、と思ったのは、「いらっしゃい」の声がいつもと違ったからで、さらにはその声の主、厨房に立っていたのが若い男だったからだ。いつもの店主夫婦も、客すらもいない。
「何になさいますか?」
ひどく丁寧な物言いに改めて男の顔を見ると、見覚えがあるような気もする。が、思い出せない。バイトの人だろうか。
男は、スーツの上着とネクタイをとっただけ、のような格好をしていて、偏見かもしれないが、ラーメン屋には見えなかった。シャツの袖をまくって、長身の背をかがめて洗い物をしているところのようだが、その姿が店の風景にそぐわない。
なんというかシャープな印象の人だ。が、かけている黒いセルフレームの眼鏡は、幅の狭いレンズが湯気で少し曇っていて、顔の上半分だけがほわっとしている感じだった。
「あの、しょうゆラーメン一つください」
カウンター席に腰をおろしながら、いつもと同じものを注文した。
「しょうゆラーメン一つ、といってもちょっと待ってくださいね。すぐにオーナーが戻ってきますから。実はちょっと手伝ってただけで・・・あ、戻って来た」
「ああ、いらっしゃい」
裏口から直接厨房に入って来たのだろう、いつものおじさんの姿が見えて、なんとなくほっとした。
「しょうゆ二つね」
男はおじさんにそう言って、洗い物を続けているようだった。やがておじさんが「助かったよ」と言う声が聞こえて、男が厨房から出てくると、一つおいて私の隣りの席に座った。
そちらから視線を感じたので、思い切って顔を向けてみた。曇りのとれた眼鏡の奥の瞳は、やはり私を見ていた。
「はい」
いきなり親しげな調子で彼はそう言うと、手のひらを上に向けて両手を差し出した。
反射的に、私も同じ動作をしてしまう。
「うん、やっぱり。エデュコムの第二営業部」
私の手のひらをちらりと確認すると、彼は私が辞める予定の会社名と、合併後の所属部署を言い当てた。
――ああ、こんな識別のされ方は嫌だ。
どうして知ってるんだろうという疑問が浮かぶより前に、そう思った。