第一幕、残骸
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城の中庭、その穏やかな日の光の中で、私は彼女と向かいあった。
輝くような金髪と、水面の如き青の瞳。胸元には、婚約の印として送った片足のドラゴンを象った、小さなペンダントが輝いていた。眩しい彼女の美貌を、昔は正面から見ることが出来なかったのを思い出す。
今はただ、その彼女の表情に哀しみが宿っていることが辛い。
「……リルア、泣くな。髪一本とて奴らをこの城には入れぬ」
通すものか。例え肉が裂け、骨が砕けようと、彼女のいるこの場所を守ってみせる。
誇りも、地位も、安寧もいらない。ただ彼女を守れればいい。その結果、騎士でなくなってしまっても構わない。
それさえ守れないのなら、己が己でいる理由さえない。
「――ジャド」
リルアの悲壮な声に身が震える。
死地に赴くならば、笑顔で見送ってほしいと彼女には前々から伝えていた。
哀しみながら、必死に微笑もうとするリルア。その顔を見ると自分の願いがどれほど惨い懇願であったかと自覚する。
心のままに、生きられぬことは死んだことと同じではないか。
「リルア、もういい。すまなかった……」
ただ、心のままにリルアを抱き締める。華奢な骨格が、より弱々しく感じた。
彼女を姿をこの眼に。
彼女の感触をこの腕に。
彼女の温もりをこの魂に焼き付ける。
それだけで、地獄の底でも戦い続けられる力が湧く。運命に抗うための剣を持てる。
「リルア、一つだけ、最後に約束してくれ。例え一分でも一秒いい。――――私より長く生きてくれ」
彼女の腕が、返答のように私を抱き締めた。
それが愛した女との最後の会話だった。過ぎる年月を数えることを止めた、今この瞬間にもその時をありありと思い出すことができる。
そう、修羅と暗黒に魂を委ねる今この瞬間にも。
▽
剣閃が走る。
金属質の音、ポッキリと折れた剣先が宙を舞った。
黒鎧の巨腕が脈動、重撃が薙ぐ。
舞い散る紅、恐らくは内部で驚愕の表情を浮かべているだろう兵士の兜が、卵のようにひしゃげ砕け散る。
叩きつけられたのは分厚い大剣、否、戦場で使い潰され、それでもなお使い古されたそれはすでに棒状の鉄塊と化していた。
乾いてこびりついた血と脳漿に、さらに足される死者の絵の具。巨体の身長とほぼ同じ鉄塊を勢いを殺さず旋回、回転。
周囲にいた一人に激突、胸部装甲が大きく陥没。鈍い音と共に吹き飛ぶ。
そのままもう一人の肩口へ、受け止めた剣ごとえぐり潰す。
兵士が倒れるより早く全身をきしませ、跳躍。 前方へ詰める兵士の群れへ、体を飛び込ませた。
突撃と同時に一撃目が一人の命を砕く。
二撃目が三人の命と全体の戦意を砕き、
三撃目が残り全てを砕き、喰らい尽くした。
ただ圧倒的な力の差。暴風の如き凶悪な膂力の前に、兵士達の選択肢は退くか死ぬか、あるいは退きながら死ぬか。
「フッ!!」
数刻の修羅の後、気迫と共に鉄塊を振る。ビュルリと血糊が払われた。
黒鎧の周囲には、すでに生者は存在していなかった。ただの一人も(・・・・・・)。
殺戮が終わり、黒鎧はふと空を見上げた。
――おおっ……
夕暮れに沈む日が、黒に染み込む。朱の日が、無情の戦場を優しく、にじむように照らす。
幾たびも剣を振り、幾たびも殺し続け、それでもなお変わらぬ黄昏時の美しさに、しばし黒鎧は言葉を失った。
この僅かな間が、殺した者達への冥福を祈る時間となる。これが黒鎧の習慣だった。
――さってと。
早々に黙祷を切り上げる。切り替えが早いのが自分の長所だと黒鎧は認識している。正直な所、繰り返しすぎてルーチンワークになってきた。
傍らに落ちていた剣を拾い上げ、地に突き立てる。墓標とスペアの武器として立てておくのだ。
「ふむ」
誰が居るわけでも無いが、一人嘆息する。どうもめっきり一人言が増えた。
一応は戦闘前に注意勧告はしているが、兵士達はまともに反応しない。
一人言は寂しいが、会話も無視されるとは寂しいを通り越し開き直りの域に達してくる。
「……帰るか」
帰る、と言っても僅かな距離だ。
黒鎧が振り向いた後ろには、金属の巨大な城壁があった。
風雨に晒され、所々に腐食の跡や歪みが見える。全体には矢が突き刺さり、その様は正にヤマアラシ。明らかに人の手による補修が入っていない、古びた壁。
「どっこいしょっと」
その壁にゆっくりと背をかけ、日暮れにより暗くなった戦場へ眼を向ける。疲労という感覚自体、すでに忘れて久しいが、どうも声を出す習慣が抜けない。
「ああ、どうにも参ったものだ。止めろと言うのにかかってくる。先人の忠告を素直に聞く耳を、最近の若人は持たんのか? ――――お前も、戦場漁りなど止めたらどうだ? 先人の忠告は聞いておくものだぞ」
ブンッ、と傍らに刺してあった戦利品である剣を投げる。
矢のように飛びすさった剣が、勢いよく倒れている死体の前に刺さった。
「ヒッ!」
同時にか細い悲鳴が上がる。
バネ仕掛けのように死体が跳ね起き、突き立った剣に相対した。
「ま、ままま待っててて……」
「死んだふりならもうちょい上手くやれ。タヌキだってそんな真似せんぞ。それから、戦場漁りをするな。戦士の遺体を荒らすんじゃな……」
そこまで言って、ハタ、と黒鎧の言葉が止んだ。
「……なぁんだお前。女か」
死体のふりをしていた戦場漁り、そのほっかむりが外れている。
夕の光が顔を照らした。垂れ下がるは赤毛の長髪、顔つきは整ってはいるがまだ幼さが残る。
戦場漁りは、十代半ばの少女だった。
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一歩、城を出れば遥か向こう側に敵の軍勢が見えていた。
装甲馬、槍兵、弓兵、魔術兵。山の中の城塞都市一つ落とすには余りにも多すぎる軍勢。
私の周りにいる人数、五百十二騎。この城で、最大限出せる戦力の限り。
「こりゃずいぶんかき集めたもんだな、ジャド隊長?」
全身甲冑の騎馬乗り、《鋼斬り》のエドガーが、いつも通りの軽い調子を崩さずに愚痴る。
「はぁ、こんだけ集めるたぁ、兵糧もバカぁならんちゅうにようやるのう帝国は」
北方訛りの抜けない老傭兵、《死に損ない》ドブロベックが歯の少なくなった顔で笑った。
「現在接敵予測時間十分。単純な戦力差が二百対一、我々五百にたいして十万ですか、まともに考えるのもバカですねバカ。底抜け凡愚のアホンダラです」
淡々と現状報告をする、斥候兵、《慇懃罵倒》のアドルスカ。
大剣が煌めく馬上。風切り音と共に剣は勢いよく地に突き立てた。
裂帛の気合い、振動が地を走る。
「――――聞いてくれ」
血を吐くよう声を引き絞った。恐らくは、全員に向けて喋れるのはこれで最後。全員が揃うのはこれで最後だ。
「城の中でも話したように、帝国からの兵は十万。たかが五百騎の私達ではどれほど耐えるか」
本来、将は兵を死地に送るのが仕事だ。上官ならば、死ねと、部下に言わねばならない。
私はそれが嫌だった。馬鹿を言うとは思っている。それでもなお、兵を死なせたくはなかった。
「それでもなお、我らは戦わねばならない」
そのために強くなった。そのためにここにいる。
「……死ねとは言わぬ。最後まで戦え。それでもなお、――――生き抜け」
死地において、「死ね」と言われれば諦めも付くだろう、死ぬる覚悟も決められるだろう。男とはそういう生き物だ。
それでも尚、私には死ねとは言えなかった。生きる限り戦わねばならない。勇者でも、すくたれ者でも、死ねば死骸だ。死んだ者には何も守れない。
幾千の修羅の夜を超えようと守らねばならぬ明日がある。
「わぁーかってますよ、隊長!」
悲壮を打ち壊す、騒がしい声が味方から聞こえた。
「死んでたまりますか! 俺はこの前ガキが産まれたんですよ!」
「どうせ数任せの烏合の衆でさ、仕掛けた罠の贄にしてやらぁ!」
「こんなムサい所で死ねますか! 死に場所は女の肉布団と決めてますんでな!」
「こっちには《聖鍛冶》ガベルの鎧持ってる隊長がいるじゃないですか、気弱にならんでくださいよ!」
口々に返答を返す男達。陽気なその声は、これから死地に赴く様子を微塵も感じさせなかった。
「ここにいるやつら全員、死ぬ気なんぞ無ぇっすよ、隊長。俺達の持ち味はしぶとさと逞しさじゃないですか」
万の軍勢を前に、男達は笑っていた。まるで、これから宴でも始めるかのように穏やかな笑みだった。
「――そうだ、そうだったな。死ぬ覚悟など、死んでもするものか」
死を思い、今日を生きろ。そして、生き抜く覚悟で死を超えてみせろ。
死ぬには良き日など、一生こない。心臓が止まる一瞬まで、今というこの時間は生きるべき時だ。
「敵、接近! バカが近づいてきてるぞクソ低脳共が!」
斥候兵が叫ぶ。一斉に皆の顔が引き締まった。次々に面頬を下げる金属音が響く。
「総員、戦闘開始! ――――生き残るぞ!」