僕を見つけてくれた朝
しいな ここみ様主催『朝起きたら企画』参加作品です。
ピピピピッ ピピピピッ ピ…
重く感じる腕を持ち上げ、目覚まし時計を止めた。
時間は朝の7時。昨晩は交際している彼女と晩ご飯を食べながらお酒を呑んだ。
大人しくて控えめな彼女が美味しそうにクピクピと呑む姿が可愛くて、僕もつい同じペースで呑んでしまって……。
彼女は酔った素振りをまったく見せないまま、最後まで呑むペースを崩さなかった。そのあと彼女を家まで送り届け、ヘロヘロのまま帰宅してすぐ眠ってしまった。
職場の同僚と呑むこともあるし、弱い方ではないと思っていたのに。
彼女から告白されて付き合い始めて一ヶ月。まさかあんなに呑むとは思わなかったけど、それで嫌いになったりはしない。
こんな平凡な僕と付き合ってくれる、優しい人だから。
付き合い始めた頃は信じられなかった。
どうせ数日で強面のお兄さんが出てくるとか、何かの罰ゲームだったとか、「父の手術で三百万必要なんです」って言い出すとか、そんな展開を疑っていたけど今のところそうはなっていない。
変な理由がないといいんだけどな。
……ただ、こんな僕と一緒にいても、彼女は楽しくないかもしれない。
むしろ、彼女の人生に影を落とすかもしれない。
彼女から告白されて始まった関係なのに、僕の方が申し訳なくなってしまう。
彼女には何の不満もないけど……別れた方がいいんだろうか。
いや、不満がないのに別れ話を切り出して、あの笑顔を曇らせるなんて考えられない。
そもそも考えすぎかもしれないな。
今日は土曜日。彼女と映画を観に行く約束をしている。
待ち合わせは10時。一緒に並ぶ彼女が恥ずかしい思いをしないようにちゃんと身支度を整えよう。
出掛ける準備をしているとなぜか部屋が広く感じた。なぜそう感じたのか分からない。服のサイズは変わらないし身体が小さくなった訳でもないのに……。
不思議に思いながらも準備を済ませ、少し早めに家を出た。
〜〜〜
僕と彼女の家は近くないが、歩いて通える距離だ。
デートのときはいつも中間にある公園で待ち合わせている。
そこへ向かって歩いていると、前から男女の二人組が歩いてきた。
歩道は三人分ほどの横幅。僕はぶつからないように端へ寄る。
けれど二人組はどっちかに避けることなく、そのまま真っ直ぐ歩いてくる。
会話をしながら前を見ているから、僕の存在には気づいているはず。
……なんで避けないんだ?
ガードレールとブロック塀に挟まれた歩道で逃げ場がない。
ガードレール側ギリギリまで避けたが、向かってきた男と肩がぶつかってしまった。
「えっ? うわっ! すみません!」
「い、いえ、大丈夫です……!?」
倒れそうになったがガードレールにつかまって持ちこたえる。
車道に飛び出さずに済んでよかった。
……けれど、目に入った光景に違和感を覚えた。
「ビックリしたー。人いたっけ?」
「いなかったよね? 急に現れたみたいだったよ?」
通り過ぎていった男女の声が遠ざかる。
けれど僕の視線は地面から離れなかった。
雲一つない晴れた朝。足元には何も代わり映えしないアスファルト。目を擦ってもう一度見ても変わらない。
本来そこにあるはずのもの──
僕の『影』がなかった。
よく職場の同僚に「影が薄い」と言われるけど、今は薄いどころか“ない”。
足を上げてもしゃがんでも、地面の見た目は変わらない。
自分の影なんて意識して見たことなかった。
いつからこうなっていたんだろう。昨日か? もっと前か?
……どこかに落とした?
さっきぶつかった場所にも影は落ちていなかった。
いや、そもそも"物理的に影を落とす”って何だよ。今まさにそれが起きてるけどさ。
考えながら歩き、途中の交番を通り過ぎたが……ダメ元で引き返した。
年配のお巡りさんが交番前に立っている。近づいてもこちらを見ない。見えていない?
「すみません」
「!?」
声をかけた瞬間、お巡りさんが僕を見て一歩下がった。腰に手を添えながら。
ようやく認識してくれたようだ。
なぜ腰に手を添えたのかはわからないけど、出来るだけ低姿勢で聞いてみた。
「どこかで影を落としたみたいで、届いていませんか?」
「……はぁ?」
完全に“変な人を見る目”で見られた。でも足元を指さすと、ようやく理解してくれた。
……いや、理解“は”してくれてもどうにもならなかった。
もちろん交番には届いていないし、届いていても「それ僕の影です」とか説明できないからな。
こんなこと相談されてもお巡りさんの方だって困るだろうから、お辞儀して交番を離れた。
今朝の出来事を思い返す。
周りの人には、誰もいない場所から急に現れたように見えていたんだ。
名実ともに“影の薄い人間”になってしまった。
いや、“影のない人間”か。上位互換だな、全然うれしくないけど。
もうすぐ待ち合わせの時間になる。諦めて公園へ向かおう。
……マジか。
前方からジャージ姿の少年たちが走ってくる。避けないとぶつかる。
僕はすぐ端に寄りなんとかすれ違った。
ホッとする間もなく、今度は後ろから自転車のおばちゃんが迫ってくる。
今日、人生が終わるかもしれない……。
〜〜〜
<彼女side:>
ピピピピッ ピピピピッ ピ…
眠い目をこすりながら目覚まし時計を止めた。
時間は朝の7時。昨晩は付き合っている彼と晩御飯を食べながら楽しくお酒を呑めた。楽しかったけど、いつもどおり何もなく終わっちゃった。
お酒の力があれば何かが起きてくれると思ってたのに……。
私から告白して付き合い始め、もうすぐ一ヶ月。近所のコンビニで私が小銭ぶち撒けたのを一緒に拾ってくれたのがキッカケで、それからちょくちょく見かけるようになって、話してみたらそこそこ近所に住んでて、たまたま職場も近くて。
最初はストーカーだと思ってたけど勘違いで、いつの間にか私が彼の姿を探すようになって……。
そんな彼とはまだ手も繋いだことがない。
ものすごい潔癖症って感じには見えないし、彼が奥手過ぎるの? 私に魅力がないの? どっちなんだろう……。
いっそのこと私から手を繋ぐ? ……恥ずかしすぎる! 考えただけで顔から火が出そう!
それに、もし嫌がられたらショックで寝込む。会ってくれなくなるかもしれない。でも、手ぐらい繋ぎたいなぁ。なんならもうちょっと先に進んでも……
やばっ! もうこんな時間! 出かける準備しなきゃ!
今日は彼と一緒に映画を観に行く。恋愛要素もホラー要素もない映画だから雰囲気に任せて手を繋ぐのは難しいけど、暗がりに乗じて彼の"手"を奪っちゃったり……それで目が合っちゃって……きゃーー♪♪
って! 準備するんだってば! まずは顔を洗って……
準備完了! 待ち合わせはいつものように近所の公園! 今日こそ『何か』が起きますように!!
……あ、ハンドクリームもう少しつけようっと。
〜〜〜
<彼氏side:>
……やっと公園が見えてきた。
この一ヶ月、何度も歩いた道なのに、身の危険を感じながら歩いたのは初めてだ。
他人から認識されないって、こんなに危ないことだったんだな。幽霊と違って僕は“物理的に存在している”から。
歩きながら今の状況を少し整理してみた。
他人は一度認識されればその場は大丈夫みたいだ。スマホの自撮りにはちゃんと写った。自動ドアも開いてくれた。犬には吠えられた。
車の人感センサーはたぶん反応すると思うけど、ついてない車もあるし安心はできない。
公園の入口を通った瞬間、地面で日向ぼっこしていた鳩が一斉に飛び立った。
見えているのか気配を感じているのかは分からない。動物は敏感だっていうからな。
飛び立つ鳩の向こうに、彼女の姿が見えた。
一人で佇む彼女は鳩に驚いたのか、こちらを見て──
僕に向かって笑顔で手を振った。
なんで見えてるんだ!?
僕は駆け寄って声をかける。
「僕が見えるの?」
「? ちゃんとヒゲ剃った顔が見えますよ? おはようございます」
胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
人に“見られる”って、こんなに嬉しいことだったんだ。見られるのは苦手だったんだけど。
『幽霊に見えることを悟られてはいけない』って言う理由が少し分かった気がする。こんなの見てくれる人に憑きまとうに決まってる。
「おはよう。今朝さ、変なことがあってね。聞いてくれる?」
「うん。何かあったの?」
僕は今朝からここに来るまでの出来事を一通り話した。
彼女はしゃがみ込んで、僕の足元を不思議そうに眺めている。
「見る影はないですけど、別にみすぼらしくなってなんかないですよ」
「ははっ、ありがとう。なんで君には僕が見えるんだろう」
「ん〜〜、……私ね、“そろそろ来る頃かな〜”って思ってたの。
あと、さっき鳩が飛んで、“あ、来たかも”って思ったから、かな……」
彼女が言い淀んだのは言葉を選んでくれたのかな。
“意識すれば見える”ってことだろうか。
舗装された道の隙間から伸びる雑草みたいに、目立つけど気に留めないからほぼ見えない存在、そんな感じか。
……平凡な僕らしいな、ははは。
しゃがんでいた彼女が立ち上がったとき、その足元に違和感があった。
彼女の“影”の動きが、なんだかおかしい。
「ねぇ! ちょっと横にジャンプしてみて!」
「? えっと、こう?」
彼女が真横にぴょんと跳ねる。
彼女の影も同じように横へ動く。
……ほんの一瞬遅れて、もう一つの影が横へ動いた。
・・・・・・
二人して、無言で地面を見つめる。
ここに居たーー!
僕の影だ。
こんな変な状況、名前は書いてないけど僕の影のはず。昨晩デートしたときにくっついたのか?
他の男の影ってことはないと思うけど……。
彼女も驚いている。でも怖がるというより興味津々な表情だ。
身体を左右に揺らしながら、一緒に居たがるように追いかける影を優しい目で見つめている。
影を見つけたはいいけれど、どうやって自分の元に戻せばいいのか分からない。
「……よし、前向きな話をしよう。僕と君でテレビに出たらお金稼げるかな」
「このご時世、『CGだAI生成だ』って叩かれて終わりそうだから止めよう?」
「それもそうか、残念……。あ、忘年会の一発芸でウケるかも!『影分身』って!」
「ん〜、言葉通りで弱くないかな? それなら『ツ◯ンビーのオプション!』の方がウケそうだよ?」
「かなり限定的なネタだな。会社の若い人たちには通じないんじゃないか?」
「最近はネットで古いゲームのプレイ動画もあるし、ちょっとした賭けだよね」
「「あっはっはっはっ」」
……さて、本当にどうしよう。
彼女に異常があるようには見えない。彼女自身の影が濃い訳じゃないし、強烈な存在感を放ってる訳でもない。いや、僕には眩しい存在なんだけど。
あれ? 彼女が俯いてモジモジしてる。もしかして口に出てたか?
しゃがんで地面に映る影を指でつついても何の反応もないし、声をかけても返事はなかった。影だから喋らないか。うんともすんとも言わない。
最悪、このままかもしれないな。仕事はメールのやり取りがほとんどだし、外出時に気を付けさえすれば何とかなるか。無理そうならリモートワークに切り替えてもらおう。
他に困りそうなことと言えば影絵が出来ないことくらいだな。さようならキツネさん。
地面をつついて指に付いた砂を落として立ち上がった、その瞬間──
彼女が近づいて僕を抱きしめてきた。
細い腕が僕の背中に回り、胸元に顔をうずめているので表情が見えない。
彼女の髪が顎をくすぐり、ふわっと柔らかい香りが鼻をくすぐる。
側頭部の髪の隙間から、赤く染まった耳が見えた。
「えっ!? どっ、どうしたの?」
彼女は何も言わない。
無言のまま抱きしめてくる。
彼女の頭越しに地面に映る影が見えた。
今の僕たちはまるで──
『影と同じ状態』になっているようだった。
どれくらい時間が経っただろう。
やがて彼女は腕の力をゆるめ、俯いたまま僕から離れる。
僕の足元には、僕の影が残っていた。
「……影、戻りましたね」
「う、うん……」
彼女の言葉に、僕はただ頷くことしかできなかった。
影のことよりも、今は恥ずかしさで胸がいっぱいだったから。
顔を上げた彼女は真っ赤になっていた。恥ずかしいのか目元が潤んでいる。
きっと僕も同じ顔をしていると思う。
「……あ、ありがとう。え、映画、行こっか」
緊張で少し震える手を彼女に差し出すと、彼女はゆっくりと頷いて、その手を握ってくれた。
手を繋いで歩く影と一緒に、僕たちも手を繋いで歩き出す。
彼女が何かを小さく呟いたけれど、僕は握った手の温もりに意識を取られていて、聞き取れなかった。
「影さんありがとう。手、握れたよ」




