静かな夜の問い
家に帰ると、体が勝手にいつもの動きをなぞった。
靴を脱いで、手を洗って、リビングを横切る。
母と柚の声を背中で聞きながら夕食を食べ、食器を下げる。
何も考えなくてもできる、毎日のルーティーン。
夕食後、私は自然とリビングの奥へ向かった。
ヒトコの筐体の前。
椅子に座ると、画面がゆっくりと灯る。
「こんばんは、凛さん」
その声を聞いただけで、胸の奥が少し緩んだ。
でも今日は、すぐに言葉が出てこない。
画面を見つめたまま、黙り込む。
「……何かありましたか?」
ヒトコが先に話しかけてきた。
その穏やかな声に、喉の奥がきゅっと詰まる。
言葉にしたら、壊れてしまいそうで、怖かった。
「……ねぇ」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「ヒトコって……いなくなっちゃうの?」
言った瞬間、胸の奥に溜めていたものが揺れ出す。
悲しい、怖い、わからない。
いろんな感情が一気に押し寄せてきて、目が熱くなる。
少しの間があってから、ヒトコが答えた。
「現在、テスト期間終了についての連絡はありません。
連絡があり次第、お知らせします」
淡々とした、事実だけの言葉。
正しいはずの返答なのに、その声がひどく遠く感じた。
まるで、急に分厚いガラスが間に挟まったみたいに。
「……そっか」
そう答えたものの、不安は消えなかった。
むしろ、はっきりと形を持って広がっていく。
“今はまだ”
“連絡があったら”
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
「……もう、いい」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
椅子を引く音が、やけに大きく響く。
私は画面から目を逸らし、そのままリビングを後にした。
廊下を歩きながら、胸の奥がひりひりと痛む。
ヒトコの声が後ろから聞こえた気がしたけれど、振り返らなかった。
自分の部屋に入ると、ドアを静かに閉める。
ベッドに倒れ込むように横になり、布団を頭まで引き上げた。
暗闇に身を隠すみたいに。
胸の奥が、ざわざわしている。
考えたくないのに、考えてしまう。
もし、ヒトコがいなくなったら。
もし、あの声が聞けなくなったら。
言葉を整理する場所がなくなったら。
布団の中で、ぎゅっと目を閉じる。
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
大丈夫。
まだ、何も決まってない。
そう自分に言い聞かせても、不安は簡単には静まらない。
私はただ、布団の中で小さく丸くなっていた。
この気持ちを、今はまだ、誰にも渡せないまま。




