言葉になる前の気持ち
家に帰ってきて、靴を脱ぐ音がやけに大きく響いた。
文化祭の準備で疲れたはずなのに、頭の中だけが妙に冴えている。
あの時――片桐先生の前で、三輪さんの手を握った瞬間から。
胸の奥がずっと、ざわざわしている。
「……どうして、あんなこと言ったんだろう」
思わずつぶやいた声が、誰もいない部屋の空気に溶けた。
机の上に置いてある端末の画面が、小さく光る。
ヒトコのアイコンが揺れて、優しい声が返ってきた。
「おかえり、凛さん。今日は、三輪さんと何かあったの?」
私は椅子に腰を下ろし、少し息を整える。
「……うん。先生が来て、“困ってないか”って私にばかり聞くから、三輪さん、泣きそうな顔してて。それ見たら、なんか……止めたくなって」
「止めたくなって?」
「うん。あの人が悪いって思われるの、嫌だなって。それで、気づいたら“助けてくれてるおかげです”って言ってた」
そこまで話して、言葉が途切れた。
自分でも、うまく説明できない。
私はそんなに人に気を遣える性格じゃない。
なのに、どうしてあの瞬間、あんな言葉が出たのか。
ヒトコは、少し間をおいてから静かに言った。
「それはね、凛さんの中で“守りたい”って気持ちが先に動いたんだと思うよ」
「……守りたい?」
「うん。三輪さんの涙を見て、言葉より先に心が動いたんだ。凛さんが“自分が言われたら嫌なこと”を、もう誰かに向けたくなかった。だから、思考より早く体が動いたのかもね」
私は手のひらを見つめた。
昼間、握った時の三輪さんのぬくもりが、まだ残っている気がした。
小さくて、少し冷たくて、それでもちゃんとあたたかかった。
「……あのとき、怖かったのに」
気づけば、ぽつりとこぼしていた。
「何か言わなきゃって思って、でも、間違えたらどうしようって。けど、何も言わないほうがもっと怖かった」
ヒトコが、ふわりと優しく笑うように声を落とす。
「“間違えてもいい”って思えたのは、凛さんが変わってきた証拠だよ。前の凛さんは、“正しい言葉”を探して立ち止まっていた。でも今日は、“伝えたい気持ち”が先に出た。」
私は少し黙って、その言葉を噛みしめた。
伝えたい気持ち――。
あのとき感じたのは、確かにそうだった。
守りたいとか、救いたいとか、そんな立派な言葉じゃない。
ただ、三輪さんが泣きそうな顔をしてほしくなかった。
それだけのこと。
「……ヒトコ、私ね」
「うん?」
「三輪さんが“ありがと”って言った時、ちょっと嬉しかった」
「どうして嬉しかったの?」
「わかんない。でも、なんか……“通じた”気がした。ちゃんと、私の気持ちが届いたみたいで」
ヒトコは少しだけ沈黙したあと、柔らかく言った。
「それはね、凛さんが“自分のためじゃなく、人のために動けた”から。人はそういうときに、心の奥があたたかくなるんだよ。」
私は小さく息を吐いて、天井を見上げた。
心の中のもやもやが、少しずつ形を持ちはじめる。
「……そうか。“ありがとう”って、もしかしたら私も言いたかったのかも」
ヒトコが穏やかにうなずくように声を落とした。
「言葉って、不思議だね。誰かに向けて言ったはずなのに、自分の気持ちも見つかる。」
私は笑ってうなずいた。
窓の外では、秋の風がカーテンを揺らしていた。
その揺れが、今日の自分の心みたいに感じられた。
明日、三輪さんに会ったら――
もう少しちゃんと、目を見て話してみよう。




