触れた手の温度
文化祭の準備も、いよいよ終盤に差しかかっていた。
教室のあちこちではペンキの匂いが薄く残り、装飾の紙くずやガムテープの切れ端が散らばっている。
誰もが少し疲れた顔をしていたけれど、どこか浮き立った空気があった。
私は机の上に貼りつけたポスターの文字をなぞりながら、深呼吸した。
明日にはもう完成。
みんなでここまで準備してきたことが、ちゃんと形になる。
そんな達成感をかみしめていた時、教室の扉が静かに開いた。
「よう、進んでるか?」
振り返ると、片桐先生が立っていた。
先生は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていたけれど、その視線が一瞬、私にだけ止まる。
私はその意味をすぐに理解した。
――たぶん、前のことを気にしている。
いじめられていた私の様子を、確認しに来たのだ。
「綾瀬、どうだ? 困ったことはないか?」
先生の問いかけは優しかった。
けれど、その優しさがどこか鋭く感じられた。
他のみんなではなく、私だけを心配するその目線。
私は一瞬、言葉を失った。
視線を横にやると、三輪さんが立っていた。
彼女は下を向き、拳を握りしめている。
肩がかすかに震えていた。
……泣きそうになってる。
胸がぎゅっと痛くなった。
このままじゃいけない。
先生の言葉は悪気がないけれど、三輪さんには“自分が責められている”ように聞こえたはずだ。
――何か、言わなきゃ。
頭の中で、言葉を探す。
うまく言えないかもしれない。
でも、何かを伝えたい。
「えっと……」
一歩、先生の方へ出て、私は咄嗟に口を開いた。
「三輪さんが助けてくれるおかげで、順調です!」
その瞬間、自分でもびっくりするほど大きな声が出た。
先生の目が丸くなる。
三輪さんも驚いたように顔を上げた。
私はその手をそっと握った。
冷たくて、少しだけ震えている。
――ごめんね、という気持ちと、
――ありがとう、という気持ちが、同時に胸の奥でぶつかり合った。
「そうか、それはよかった」
片桐先生は、少し不思議そうに微笑んだ。
そして「引き続き、みんなで頑張れよ」と言い残して教室を出ていった。
ドアが閉まると、教室の中は一気に静かになった。
私の手の中には、まだ三輪さんの温もりが残っている。
「……馬鹿みたい……なに、さっきの」
ぽつりと三輪さんが言った。
顔を背けているけれど、声の奥に少し笑いが混ざっている。
私は慌てて手を離した。
頬が熱くなるのがわかる。
「ご、ごめん……でも、あのままだと三輪さんが――」
「……ありがと」
その一言が、私の言葉を遮った。
三輪さんはまだ私の方を見ていない。
けれど、その横顔は、いつもよりずっと穏やかに見えた。
教室の外では、誰かが廊下を走る音が響いている。
夕方の光が差し込み、私たちの影を長く伸ばしていた。
――こんなふうに三輪さんと並んで立つのは、初めてかもしれない。
何かが少しずつ変わっていく。
その変化を、言葉ではうまく言い表せなかったけれど、
握った手の温度が、そのすべてを教えてくれた気がした。




