たぶんの意味
それから数日、私は結局、三輪さんに話しかけることができなかった。
ヒトコとリビングで何度も会話の練習をしては、「大丈夫」「元気?」と繰り返し口にする。けれど、いざ本人を前にすると喉の奥が固まって、声が出なくなる。
その日々は苦しくて、悔しくて、それでもどうしても一歩が出なかった。
そんな中、思いもよらない転機が訪れた。
「文化祭実行委員を決めたいんだけど、誰も手を挙げないな……」
片桐先生が困ったように教室を見回す。静まり返る空気。誰も立候補しようとしない。
しんとしたその時間が、なぜか余計に長く感じられた。
「じゃあ……三人に頼もうかな。三輪、綾瀬、高木」
先生が黒板に名前を書いた。
え……?頭が真っ白になった。
教室中の視線が一斉にこちらへ集まる。
ざわめきの中で、三輪さんが不満そうに舌打ちをして、高木さんが「あちゃー」と小さく肩をすくめた。
どうして、先生はこの三人を選んだんだろう。
もしかしたら、気を遣ってくれたのかもしれない。私たちの間に流れるぎこちない空気を、どうにか変えようと。
けれど、その意図を理解した瞬間、心臓が早鐘を打ちはじめた。
放課後。
教室に残ったのは、私と三輪さんと高木さんだけ。
窓の外はもう夕方で、茜色の光が机を照らしていた。教室の静けさが妙に重たい。
「じゃ、書類ちゃっちゃと書いちゃお!」
高木さんが明るく切り出す。けれど、返事は返ってこなく、私と三輪さんの間を漂っている緊張を完全には拭えなかった。
私はノートを開いて、勇気を振り絞った。
喉が渇く。手のひらが汗ばんでいる。
頭の中で、何度もヒトコと練習した言葉がぐるぐると響いた。
今しかない。言わなきゃ、練習した意味がなくなっちゃう
「……あの」
かすれた声に、二人の視線がこちらに向く。心臓が跳ねて、思わずノートに目を落とした。
「最近……三輪さんが元気ないように見えるんだけど」
言えた。言葉にできた。
それだけで全身が熱くなる。
でも、次の瞬間が怖かった。どんな顔をされるのか、どんな言葉が返ってくるのか。
三輪さんは、ぴたりと動きを止めた。
顔を上げたまま、しばらく返事がなかった。
その沈黙が長すぎて、もう二度と声をかけられないんじゃないかと思うほどに息が苦しくなる。
「はぁ?なにそれ。あんたに私の何がわかんの?」
少し強い調子の声。けれどその裏に、焦りのような戸惑いがにじんでいる。
「元気ないとか、別に……そんなの気のせいでしょ。いちいち言われると、マジでイラつくんだけど」
苛立ちを隠そうともしない言葉に、私は息をのむ。
でも、そのあと彼女の声がほんの少しだけ弱くなった。
「……別に。私は、元気だから。……たぶん」
最後の「たぶん」が、震えるように聞こえた。
それは強がりなのか、本心なのか、私にはわからなかった。
横で高木さんがじっと三輪さんを見て、少しだけ口を開きかけたけれど、結局言葉にはならなかった。
教室の中には、夕日の光と、三人の重たい沈黙だけが広がっていた。
「……提出してくる」
短くそう言うと、三輪さんは机に置いてあった文化祭の実行委員用の書類を手に取り、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。
ドアが閉まる音がして、教室には私と高木さんだけが残る。
気まずい沈黙。
私はさっきの会話が頭から離れなかった。
「……たぶん、って言ってたよね」
思わずつぶやくと、高木さんがこちらを向いた。
「うん。あれ、ちょっと気になった」
「元気って言い切ればいいのに……。なんで、たぶん、なんだろう」
私がぽつりと言うと、高木さんは腕を組んで考え込む。
「たぶんってさ、ほんとは自信がない時に言うやつじゃない?」
私は目を瞬いた。
「自信……ない?」
「そう。だって、本当に元気なら『元気だよ!』って言えるでしょ。なのに“たぶん”ってつけるってことは……元気じゃないのかも。でも、元気じゃないって言いたくない、とか」
高木さんの言葉を聞きながら、私は胸の奥がじんわりしてきた。
あの時の三輪さんの声が、強がっているように聞こえたのは、そのせいなのだろうか。
「……じゃあ、弱ってる?」
「うーん、弱ってるっていうか、素直になれないんだと思う」
高木さんは少し笑って、でもすぐに真面目な顔に戻った。
「莉央ってさ、強そうに見えて、ほんとは不安とかいっぱい抱えてるのかも。だから“たぶん”。あれは……助けてって言葉の代わりだったのかもしれない」
私は驚いて高木さんの顔を見つめた。
助けて――。
三輪さんの口からそんな言葉が出ることは想像できなかった。
けれど、もし“たぶん”の一言にそんな意味が隠れているのなら……。
「……私、どうすればいいんだろう」
気づけば声が小さく漏れていた。
高木さんは少し考え込んでから、ゆっくりと答えた。
「無理に何かしなくていいんじゃない? でも、莉央に興味を持つのはやめないでほしいな。二人に仲良くしてほしいって思う私のエゴなんだけどね」
その言葉に私は大きく頷いた。
ドアの向こう、三輪さんが戻ってくるのを待ちながら、心の中で何度もその「たぶん」の響きを繰り返していた。




