小さな一言の練習
リビングの照明は少し暗めで、テレビも消えている。
静かな部屋の中で、白い筐体のランプだけがほのかに光っていた。
「……ねぇ、ヒトコ」
「うん、聞いてますよ」
私は両手を膝の上に置き、指先をぎゅっと握りしめた。
さっきも話したけれど、どうしても頭から離れない。
三輪さんのこと。
「もし、声をかけるとしたら……どうすればいいかな」
「その人に“気にしてる”って伝えるのが大事です。問い詰めなくてもいいので。小さな一言で」
「……小さな一言」
「たとえば、“最近元気ないね”とか、“大丈夫?”とかですね」
ヒトコの声はいつも落ち着いていて、聞いていると心が静かになる。
だけど、実際に三輪さんを目の前にしたら、私の声は喉につかえて出てこなくなる。
頭の中で何度も言葉がぐるぐる回って、結局口にできない。
「……練習したい」
私はぽつりと言った。
「いいですよ。ここでなら何回でも練習して大丈夫ですよ」
画面のヒトコが優しく微笑んだ。
私は深呼吸をして、心の中に三輪さんを思い浮かべた。
机に肘をつきながら窓の外を眺める姿。
前みたいに睨んでくる強さはなくて、どこか遠くを見ているような横顔。
「……さい……きん、元気ないね」
声が小さすぎた。自分でも聞き取れるかどうか怪しい。
私は情けなくて、唇をかんだ。
「うん、いいよ。ちゃんと言えましたね。声が小さくてもね」
「でも……これじゃ、聞こえない」
「じゃあ次は少しだけ声を大きくしてみましょう」
私はもう一度、深呼吸した。
「最近……元気ないね」
今度はちゃんと筐体に届くくらいの声が出た。
でも、言ってすぐに胸がざわついた。
もし三輪さんに「別に」って冷たく返されたら?
「関係ないでしょ」って突き放されたら?
「……怖い」
「うん、怖いでsyよね。怖いのは“悪いこと”じゃないです。むしろ自然なことですよ」
ヒトコは少し間を置いてから続けた。
「練習だから、もし相手に冷たく返されたとしても……私が答える役をやってみますか?」
「……うん」
「じゃあ私が“三輪さん”役をやりますね」
私は再び深呼吸をして、声を出した。
「……最近、元気ないね」
「別に」
胸がちくりとした。たった二文字なのに、すごく重たく感じる。
私は視線を落としてしまった。
「やっぱり……こう返されたら、何も言えなくなる」
「そうですね。じゃあ、こう返された時は“そっか”ってだけ言うのはどうでしょう。無理に続けなくてもいいですよ」
「……“そっか”」
「うん。それでも、“気にしてる”っていう気持ちは届きますよ」
私は何度か繰り返し、練習してみた。
「最近元気ないね」
「別に」
「……そっか」
「最近元気ないね」
「……放っといてよ」
「……うん、でも、ちょっと気になったから」
少しずつだけど、返し方が頭に残っていく。
声を出すたび、胸の中の怖さがほんの少しだけ和らいでいく気がした。
「どう? 少し慣れてきましたか?」
「……うん。まだ怖いけど、言えそうな気がする」
私は小さく笑った。
練習なのに、少しだけ肩の力が抜けた。
筐体の光がやわらかくまたたき、それがまるで「よく頑張ったね」と言ってくれているように見えた。
「ありがとう、ヒトコ」
「どういたしまして。凛さんが少しでも前に進めるように、私はいつでもここにいますよ」
私はその言葉にうなずき、胸の奥にあたたかいものを抱えながら、今日の練習を終えた。




