届いた一言
次の日の朝、私はまた少し早めに学校へ向かった。
昨日は結局、声を出せなかった。けれど「立ち上がることはできた」。その小さな成功が、今日ももう一度挑戦してみようという気持ちに繋がっていた。
廊下を歩く足音がカツンと響くたびに、胸の奥で心臓が跳ねる。
教室の扉をそっと開けると、すでに数人の生徒が集まっていた。
その中に——やっぱりいた。高木さん。
窓際の席で、ペンを走らせながらノートに何かを書いている。
昨日の失敗が頭をよぎる。
「また声が出なかったらどうしよう……」
けれど、ヒトコの言葉が脳裏で蘇った。
——「たった一言でいいんです。その一言が、扉を開く鍵になります」
私は深呼吸をして、自分の席にカバンを置くと、思い切って歩みを進めた。
一歩、二歩……近づくたびに喉が乾いていく。
声を出そうとしても、胸の奥に重い石が乗っかっているみたいに動かない。
でも、昨日よりは……大丈夫。今日はきっと……
机の横に立ったとき、ちょうど高木さんが顔を上げた。
驚いたように目が合う。
心臓がドクンと大きく跳ねて、頭の中が真っ白になった。
そして、震える声でやっと出てきた。
「……おはよう」
たったそれだけ。
でも、昨日まで出せなかった一言。
一瞬、教室のざわめきが遠のいたように感じた。
自分の声が小さすぎて、聞こえなかったんじゃないかと不安になる。
けれど。
「えっ……あ、うん!おはよう!」
高木さんの顔がぱっと明るくなった。
驚きと嬉しさが入り混じったような表情で、笑いながら返してくれる。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥の石がすっと軽くなった気がした。
返してもらえた。
ちゃんと届いたんだ。
ほんの一言なのに、心の奥まで温かく満たされていく。
身体中にじんわりと広がるその感覚を味わいながら、私は小さく頷いた。
「……」
まだそれ以上の言葉は出てこなかった。
けれど、高木さんは気にすることなく、自然な調子で続けてくれた。
「ねぇ、この前の話、また聞かせてほしいな。ワークショップのこととか、ヒトコのこととか。すごく面白かったから!」
彼女の言葉が、まるで差し伸べられた手のように感じられる。
嬉しいのに、緊張で体が固まって、言葉が出ない。
でも今は、それでもいいと思えた。
「……うん」
小さく頷くと、今度は安心したように笑ってくれた。
ほんの少しのやりとり。
だけど、昨日まで閉じていた扉が、少しだけ開いたような気がする。
チャイムが鳴って、教室のざわめきが一気に大きくなった。
私は自分の席に戻りながら、机の下でぎゅっと手を握りしめた。
できた……言えた……!
心の中で何度も繰り返す。
その度に胸が温かくなり、涙が出そうになる。
ノートを開き、余白に小さく書いた。
——「言えた。届いた」
文字を見つめながら、自然と頬が緩む。
まだほんの小さな一歩。
けれど確かに、私の声は誰かに届いたのだ。
それは、昨日までの私には想像できなかった奇跡みたいな出来事だった。
——次は、もう少し話せるかもしれない。
そう心に刻みながら、私は深呼吸をした。




