朝の均衡が崩れる
「ねぇ空、なんでそいつと話してんの?」
背後から降ってきた声に、心臓が跳ね上がる。振り向かなくても分かった。三輪さんだ。
鋭い視線が背中に突き刺さる。いつもの不機嫌そうな声よりも、今日はさらに強い怒気が混じっている気がした。
「り、莉央……」
高木さんが、小さく名前を呼ぶ。手がわずかに震えているのが分かった。
「なんで答えないの? あんた、前は『綾瀬となんか話したくない』って言ってたよね?」
三輪さんの言葉は鋭い刃物みたいに高木さんへ向けられる。私へではなく、高木さんへ。
「えっと、それは……」
空
高木さんは言葉に詰まり、うつむいた。
私のせいだ――胸の奥がざわざわと波立つ。私と話しているから、高木さんが責められている。昔ならその瞬間に思考を閉じて「ごめんなさい」とだけ言って、全部を自分のせいにしてやり過ごしていたと思う。
でも、今は違う。
ヒトコに言われた。「感情を集めることは、自分を理解することにつながります」と。
私は確かに変わり始めている。だから、逃げたくなかった。
「……高木さんを責めないで」
自分でも驚くほど小さいけれど、はっきりとした声が口から出た。
三輪さんがピタリとこちらを向く。視線が突き刺さり、喉がひゅっと締まる。けれど、私は続けた。
「私が……話したかったの。高木さんは、それを聞いてくれていただけ」
「はぁ? 話したいって……何を?」
三輪さんの眉が釣り上がる。教室の空気がピリッと張りつめた。
「……自分のことを。どうして私が変わったのかとか。……私には、分からないことが多いから」
「分からないこと?」
「感情とか、人との関わり方とか……。でも、それを知りたいから、少しずつ話してる」
声が震える。けど、逃げずに言えた。
三輪さんは一瞬、何かを言いかけて口を閉じた。その代わりに、吐き捨てるように言った。
「特別扱いされてるくせに、何それ」
胸の奥がギクリとする。――やっぱり、そこに触れるんだ。
片桐先生との定期面談。普通の子が呼ばれない時間に、私は呼ばれている。
「……違う。あれは、私が困らないように……先生が……」
言い訳みたいになって、声が弱くなる。
「でも事実でしょ? 先生に呼ばれてコソコソ話して、優しくされて……。私だって、あの人と――」
そこまで言った時、三輪さんの言葉が止まった。頬が一瞬赤く染まり、すぐにきつく歪んだ表情に戻る。
あぁ――ヒトコが言っていた。「恋愛感情かもしれません」と。今の表情は、その可能性を裏付けている気がした。
「……あの、私」
必死に声を振り絞る。
「私は、ただ知りたいだけなの。どうして三輪さんが、私にあんなことを言うのか。どうして怒るのか。……本当の気持ちを知りたいだけ」
静まり返った教室に、私の声だけが響いた。
三輪さんはじっと私を見ていた。その瞳の奥に、何かが揺れているのが分かる。怒りだけじゃない。別の感情――でも、まだ私には掴めない。
「……バカじゃないの」
低く呟いて、三輪さんは踵を返した。
その背中はいつもより早足で、遠ざかっていく。
「……綾瀬さん……」
隣で高木さんが小さく呼びかけた。彼女の顔には不安と驚きと、少しの安堵が混じっていた。
その時、予鈴のチャイムが鳴り響いた。教室の重苦しい空気を一気に塗り替えるように。
私は胸の鼓動を必死に抑えながら、自分の席へ戻った。
――答えはまだ出ていない。
でも、確かに一歩、踏み出せた気がした。




