知らない感情
夕食を終えて、私はいつものようにヒトコの前に座り、ノートを開いた。
「……今日は、ちょっと変なことがあったの」
そう前置きしてから、掃除のときに三輪さんに言われたこと、そしていじめられていた理由について考えていた事を話し始めた。
ヒトコは静かに私の言葉を受け止め、いつもの落ち着いた声で答える。
「確かに、やっていることは正しいことではありません。けれど、理由はあるかもしれませんね」
「理由……?」
私は思わず首を傾げる。三輪さんの態度は、ただの意地悪にしか見えなかった。
「思い当たる原因はありますか?」
ヒトコの問いに、しばらく考えてから首を横に振る。
「ない……と思う。だって、私は何もしてないから」
そう言いながらも、胸の中には小さな違和感が残っていた。
――本当に、なにもしていない?
入学してから、私は人との関わりがうまくいかず、気づけば孤独になっていた。でも、それはただの距離感の問題で、誰かを怒らせたり、嫌われるようなことをした覚えはない。
だからこそ、あの言葉も態度も、ただ「運が悪かった」だけだと片づけてきた。
けれどヒトコの「理由があるかもしれませんね」という言葉が、頭にひっかかったままだった。
少し黙ったあと、思い出したことがあった。
「……でも、それとは別にね。気になることがあったの」
「気になること、ですか?」
私は昼間の光景を思い出しながら口を開いた。
「三輪さんが……先生と話してたとき、すごく楽しそうにしてたの。今まで見たことのない顔で」
「楽しそうに?」
「うん。なんていうか……すごく嬉しそうで、笑ってて……あんな顔になる感情、私にはわからなかった」
そこでヒトコが少し間を置き、淡々と告げる。
「その状態と合致するのは、恋愛感情かと思われます」
「……れんあい?」
聞き慣れない響きを、口の中で転がしてみる。
「恋愛感情。特定の相手に対して、強い好意や憧れを抱く気持ちです。人によって表現の仕方は異なりますが、相手と一緒にいたい、喜ばせたいと思うことが多いですね」
「……そんなの、私にはわからない」
私は思わず小さな声で呟いた。
だって私は、まだ自分の感情をひとつずつ知っている途中だ。喜びや悲しみだって、ようやく形を掴み始めたばかり。
なのに「恋愛」なんて、急に遠すぎる。
「素敵な感情、だと人は表現します」ヒトコはそう続ける。「けれど、同時に複雑さや苦しさを伴う場合もあります」
私はノートに「恋愛感情」と書いて、じっと見つめた。
三輪さんが見せていた笑顔と、昼間の冷たい言葉が、どうしても結びつかない。
「……でも、そんな素敵な感情を持ってる人が、どうして私には意地悪するんだろう」
思わず口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
ヒトコは答えを急がず、ただ私を見つめ返すように間を置いた。
「それはまだ、凛さんの理解が追いついていないだけかもしれません。人の感情はひとつではなく、いくつも重なり合っています。恋愛をしている人でも、別の人に対して苛立ちや敵意を抱くことはあります」
「……難しい」
思わず机に突っ伏してしまう。頭の中がぐるぐるして、整理できない。
恋愛という新しい言葉。
わからない感情。
その感情と意地悪が同じ人の中にあるという不思議。
私はノートに「知らない感情」と大きく書き、ペンを止めた。
「……ヒトコ、私はこれからどうすればいいの?」
「すぐに答えを出さなくて構いません。ただ、『そういう可能性もある』と覚えておけば十分です」
私は深く息を吐いて、ノートを閉じる。
知らない感情に戸惑いながらも、こうして言葉にできたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。
夜は静かに更けていく。
でも私の頭の中では、まだ三輪さんの笑顔が鮮明に残っていた。




