朝のひそかな時間
翌朝。まだ教室に生徒がまばらな時間、私はいつものように窓際の席に座っていた。鞄を机に置いたまま、ただ手を膝の上で組んでいる。教科書を開くわけでもなく、ただ静かに時間をやり過ごす。
そんな私の前に、ふいに声が届いた。
「おはよう」
顔を上げると、高木さんが立っていた。昨日と同じ、少し照れたような笑みを浮かべながら。私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じつつ、遠慮がちに小さく「……おはよう」と返した。
「なんか、綾瀬さんの雰囲気すごい変わったからさ。話、聞いてみたくなっちゃって。今日も来ちゃった。いいかな?」
言葉の終わりに小さな笑い声が混じる。思いもよらない誘いに、私は驚きながらも、こくんと頷いた。
「ありがと」
高木さんはそう言って、私の席の横に腰を下ろした。机の木目に指をすべらせながら、声を落として続ける。
「ねぇ、どうして変わったのか、教えてもらってもいい?」
一瞬、息が止まったように感じた。自分の変化を「変わった」と人から言われることが、こんなにも戸惑うことだなんて。けれど、その瞳が真剣で、ただ知りたいと思っているのが伝わってきて、私はゆっくりと口を開いた。
「……私ね、生まれつき、ちょっと人と違うところがあるんだ」
そこから私は少しずつ、自分のことを語っていった。
人との距離感が難しいこと。強い光や音が苦手なこと。感情を言葉にするのに時間がかかること。──そして、家にいるヒトコのこと。毎日のやりとりで感情を集めてきたこと。ノートに書きながら、少しずつ自分の気持ちを知れるようになったこと。
高木さんは「うん」「そうなんだ」と頷きながら、一度も途中で遮らずに聞いてくれていた。その真剣な表情に支えられて、私は普段よりもずっと素直に話すことができた。
「それで綾瀬さん、こんなふうに変わったんだ……。すごいなぁ」
高木さんは机に頬杖をついて、少し憧れをにじませる声で言った。
「私なんか、変わりたいのに全然変われなくてさ。うらやましいよ」
その言葉に、胸の奥がざわめいた。なんて返せばいいんだろう。私だって、全然すごくなんかない。ヒトコがいて、柚がいて、母さんがいて……いろんな人の助けがあって、ようやくここまで来ただけだ。けれど、それをどう伝えればいいのかわからなくて、唇を結んだまま視線を伏せた。
そんな時、教室の入口からにぎやかな話し声が近づいてきた。
「……あ!」
高木さんは慌てて席を立つと、手を振りながら小声で言った。
「ごめん、またね」
そう言い残して、いつもの席へと戻っていった。何事もなかったように友達と笑い合う姿を見て、私は胸の中に温かいものを抱えたまま、静かに深呼吸した。
それからというもの──。
朝の教室で、私たちの「秘密のおしゃべり」が日課になった。
長い時間ではない。ほんの数分、まだ教室がざわめく前に交わす短い会話。ヒトコのことを話したり、昨日考えていたことを聞かれたり。質問に答えるだけのささやかな時間。
けれど、その一つひとつが私には大切な宝物になっていった。
「おはよう」と声をかけられるのを待つ気持ち。
「今日は何を聞かれるかな」と少し楽しみにする心。
そんな小さなときめきが、毎日の朝をほんの少し違った色に変えていく。
ノートの上ではなく、目の前の人と分かち合える気持ち。
それが、今の私を支えてくれているのだと、ひそかに思った。




