感情に揺れる日
教室のチャイムが鳴る。授業が始まると、胸の奥が小さくざわつく。先日までの夏休みの穏やかさは、もう遠くにあるようだ。
国語の授業。片桐先生が黒板に漢字を書きながら説明する声が響く。言葉そのものは理解できるのに、同時に聞こえてくるクラスメイトたちのざわめきや紙をめくる音に、胸の奥がもやもやしていく。教室にいるだけで、周囲の声や音が全て自分に刺さるように不快に感じる。前はこんなこと、なかったのに。
放課後、片桐先生に呼ばれた。私が発達障害だから面談が必要なのだろう。
「綾瀬、今日授業中険しい顔してたぞ。もっとにこやかにしてないと、周りともっと距離ができるぞ。少しは笑顔を作ってみたらどうだ?」
「……できたらしてます」
前はただ「はい」と答えていた。でも今は、言葉が自然に口をついた。
「え?」と驚いた顔の片桐先生を置いて、私は職員室を飛び出した。自分でも驚いて、どうすればいいのかわからない。慌てて教室に戻る。
教室にいた三輪さんと高木さんがこちらを振り向いたが、気にせず自分のカバンに向かう。
「あ!いいこと思いついたー。綾瀬さんにお願いしようよぉー」
「え、でも……」と戸惑う高木さんの声を気にも止めず、三輪さんは私に向かって話しかけてくる。
「ねぇ綾瀬さん、私たち用事があるの。だからこれ、片付けといてくれない?」
そこには落書きだらけの黒板と、床に散らばったチョークの粉。用事があるなら仕方ない。誰かがやらないと。頭の中でそう唱えながら、短く「わかった」とだけ答えた。
「ありがとー、助かるー。ほら、空行くよ」
「え、あ……」と戸惑いながらも、高木さんもそれに続く。すれ違い様、小さく「ごめんね」と聞こえた気がした。
ゆっくりと片付けを始めると、廊下から声が響く。
「あの……本当に良かったのかな?」
「大丈夫でしょ? どうせロボットみたいに何も感じてないんだから、使える時に使わないとねー」
笑い声が響く。頭が痛くなりながらも、なんとか片付けを終えた頃にはすっかり陽が落ちていた。
ーーー
家に帰ると、バッグを置き、すぐにヒトコの前に座った。
「ヒトコ……今日、学校でいろいろあった」
画面に映るヒトコの柔らかい笑顔が、胸のざわざわを少し和らげる。
「どんな感情が強く出ましたか?」
「学校の音や声が、前より辛いの。先生に『もっとにこやかに』って言われたり、クラスメイトに『ロボットみたい』って言われたり……前まで平気だったことも、今は辛くて、悲しくて、悔しいの」
ヒトコはうなずきながら静かに答える。
「感じたことを押し込めなくて大丈夫です。辛さや悔しさを自覚することは、成長の第一歩です。もしよければ、紙に書いたり、声に出して言葉にしてみましょう。整理することで、感情は暴れなくなります」
「声に出す……?」
「はい。口に出すだけでも、胸の奥のざわつきが少しずつ形を変えていきます。そして、言葉にすることで、自分の気持ちを他の人にも伝えやすくなります」
ヒトコのやさしい顔を見つめながら、私は深呼吸する。胸の奥に渦巻く怒りやもどかしさも、小さくひとつひとつ見えてくるような感覚。少しだけ安心して、ノートに今日の出来事と感情を順番に書き込んでみる。
黒板やチョークの粉を片付けた教室での、自分の小さな勇気も書き足す。ページが少しずつ埋まるたび、胸のざわざわが外から眺められるような感覚になる。
「……少し、落ち着いたかも」
ヒトコが微笑み、画面が柔らかく光る。
「その感覚は、感情が整理され始めたサインです。凛さんは、自分で対処する力を少しずつ身につけています」
私は小さくうなずく。胸の奥に残るざわざわはまだあるけれど、向き合う方法を少しずつ覚えている。今日の学校は辛かったけれど、少しだけ、自分を支えられた気がした。




