違いの地図と揺れる気持ち
教室の中央に、大きな模造紙が広げられていた。
今日のワークショップは「みんなちがって、みんないい?」。
凛は「違いの地図」という言葉に少しわくわくしていた。
自分の「好き」「苦手」や「落ち着く場所」を描くのは、ちょっと面白そうだったからだ。
グループに分かれ、私はほのかと、同じ学年の男子二人と組むことになった。
「じゃあ、まずは好きなことを書こう!」と、リーダー役の男子が声を上げた。
みんながマーカーを手に、模造紙に文字や絵を描き込んでいく。
私は「静かな場所」「空を見ること」と書き足した。
ほのかが「私も空見るの好き!」と笑ってくれたのが嬉しくて、胸の中が少し温かくなる。
でも、その後だった。
別の男子が、私の書いた「苦手なこと:人混み」の横に小さく「わがまま?」と落書きのように書いた。
「えっ……」と声にならない声が漏れる。
その子は悪びれもせず、「だって、人混み苦手とか避けてたら遊べないじゃん」と笑った。
ほのかが「そういうことじゃないでしょ」と小さく抗議したが、男子は肩をすくめただけだった。
胸の奥がもやもやと熱くなる。
最初は「どうしてそんなこと言うの?」という戸惑いだった。
でも、相手が軽く笑い飛ばした瞬間、そのもやもやが胸の奥で小さくはじけたように感じた。
それは熱くて、ざらざらしていて、息が少し詰まる感覚。
喉の奥まで言葉が来たのに、形になる前に引っ込んでしまう。
ただ、そのざわざわはずっと胸の中で渦を巻いていた。
自分の大事な気持ちを、簡単に否定されたようで――苦しくて、悔しかった。
講師が「相手の違いを否定せず、受け止めましょう」と話す声が、少し遠くに聞こえる。
手の中のマーカーを握りしめ、凛は「ここに書いてあるのは、わがままじゃない。私の気持ちだ」と、模造紙に静かに書き足した。
文字は少し震えていたけれど、はっきりと見えるように。
ほのかが、その横に小さくハートマークを描いた。
それを見た瞬間、ほんの少しだけ胸の熱がやわらいだ。
ーーー
その日の夕方。
ワークショップから帰った凛は、バッグを机の横に置き、ベッドにうつぶせになった。
胸の中に残っているざらざらは、まだ小さく動いている。
あの男の子の声や笑い方が、何度も頭の中で再生されては止まらない。
机の上に置いてある感情カードを手に取った。
まだ集めていない感情のカードをめくっていく。
【怒り】
そのカードに目が止まった。
「自分や大切なものが、ぞんざいに扱われたと感じるときの感覚」
今の感情はこれだと確信した。私は怒っているのだ。
ーーー
夕食後、いつも通りヒトコの前に座る。
喉の奥にひっかかっている言葉を、少しずつ引き出すように口を開く。
「……今日、怒りを体験した」
自分の声が、いつもより低くて、硬い。
「胸の中が熱くなって、なんかずっと…おさまらない」
ヒトコの画面が、やわらかく光る。
「その“怒り”、まだここに残ってるのですね」
膝に視線を落とし、小さくうなずく。
「どうすれば…いつもの私に戻れるの?」
“いつもの私”と言った瞬間、胸が少しきゅっと締まった。
ヒトコは、ゆっくりと答える。
「怒りは、急いで消すものではないんですよちゃんと感じきると、少しずつ小さくなっていく。もしよかったら、今の気持ちを紙に書いてみませんか?」
黙ったまま、テーブルの上のノートとペンに目をやった。
怒りという名のざらつきは、まだそこにあったけれど――
名前がついた分だけ、少しだけ手で触れる距離に近づいた気がした。
テーブルの上のノートをそっと手に取った。
白いページが、じっとこちらを見つめているようで少しだけ息が詰まる。
ペンを握ると、手のひらがじんわりと汗ばんだ。
「……書くの、苦手」
ぽつりとこぼすと、ヒトコの画面がやわらかく瞬いた。
「上手に書かなくていいよ。言葉じゃなくても、絵でも、線でもいい」
凛は、ページの端から黒い線をぐいっと引いた。
その線は、まっすぐには進まず、ぐにゃぐにゃと曲がって、ところどころ濃く、ところどころ薄くなった。
書きながら、胸の奥のざわざわが、ペン先を通って紙に滲み出していくような感覚があった。
何本も、何本も、線を重ねる。
ときどき、ぐしゃぐしゃっと円を塗りつぶしたり、紙の端まで思いきり線を走らせたりした。
ページが黒と灰色で埋まったころ、肩の力が少し抜けていることに気づく。
「……ちょっとだけ、静かになった」
その言葉に、ヒトコの画面がほっとしたように青く光った。
「それは、怒りが小さくなりはじめたサインです。」
凛はペンを置き、ページをじっと見つめた。
そこに描かれたぐしゃぐしゃは、まだ心の奥にあるものと同じ形をしていたけれど――
少しだけ、それを外から眺められる気がした。




