正しい答えと、違う返事
ヒトコとの会話を終えたあと、私はそのまましばらく筐体の前に座っていた。
胸の奥に、何かが引っかかっている。でもそれが何なのか、言葉にはならない。ヒトコの説明は正しかった。私の困りごと、脳の仕組み、ほのかとの違い、全部、ちゃんと論理的で、きっと嘘はない。
だけど、違う。私が聞きたかったのは、たぶん、そういうことじゃなかった。
「ご飯、もうすぐできるよ」と声がして、私は振り返る。
母がキッチンから顔を出して、私の顔を見て少し表情を曇らせた。
「……どうしたの? ヒトコと話してたの?」
私はうなずいた。
「うん。ワークショップのこと、ちょっと相談してた」
母はふんわりと笑って、テーブルに湯気のたったお味噌汁を置く。私はそのまま席についた。箸を持ちながら、思い切って言ってみる。
「今日のワークショップで、アンケート書いたんだ。自分の特性について」
母がこちらを見て、静かに頷いた。「どんなこと書いたの?」
「正しさを大事にしすぎること。説明書通りじゃないと不安になること。あと……急な変更があると、パニックになること」
「そっか。よく自分で言葉にできたね」
私は少し驚く。ヒトコにも同じことを言った。でも、その時は、原因とメカニズムと行動特性に分解されて、まるで誰かの論文を読んでるみたいだった。正確だけど、冷たかった。
「ねえ、お母さん」
「うん?」
「それって、変かな……? みんなは、もっと柔軟にできるのに、私だけ、こだわりが強くて、うまくいかないことが多くて……」
母はちょっとだけ考えてから、優しく言った。
「うん、確かにそういうところはあるかもね。でもね、それって、悪いことじゃないよ。お母さんから見たら、凛はすごく丁寧だし、周りが見落とすことをちゃんと気づける子だよ」
思わず、目が潤んだ。
ヒトコは、「そういう特性があります」と言った。母は、「でも、それって悪くないよ」と言った。
意味は近いはずなのに、心に届くのはまったく違った。
「……ヒトコって、何でも知ってる。でも、なんか……知ってるだけって感じがする」
私がぽつりとこぼすと、母は笑った。
「それは、知ってると、分かってるは、違うってことかな?」
私は、うんと頷いた。
ヒトコが嫌いなわけじゃない。でも、今は――母の「分かってる」の方が、ずっとあったかかった。
向坂さんの事も少しずつ話した。
私とは正反対の子。一緒に作った作品。失敗しても明るい子。まるでそれが正しかったかのように。
母は少し黙った。まるで、言葉を選んでいるようだった。沈黙の重みに耐えきれず、口を閉ざしたまま床を見つめた。
「うーん、そうね……。たぶんだけど、凛は“ちゃんとしてたい”んだよね。こうしたらいいってわかってることをやれたら安心できるし、そうできないと、すごくザワザワしちゃう」
目を上げた。ヒトコにも似たようなことを言われた。でも、母の声はどこか、あたたかかった。
「で、ほのかちゃんは……なんていうか、楽しくて、明るくて、でも凛の“ちゃんとしたい”を簡単にこわしてくる感じなのかな」
こくんと頷いた。母はそれを確認すると、小さく微笑んだ。
「凛はさ、たぶん“自分の感じ方”をちゃんと持ってるんだと思うよ。怒ってもいいし、いやだって思ってもいい。でも、その気持ちが“間違ってないか”がいつも心配なんだよね」
「……うん」
「でもね、間違ってるかどうかって、本当はそんなに大事じゃないかもしれないよ」
「どういうこと?」
母は一瞬天井を見上げて、それから、私の方に視線を戻した。
「だって、“正しさ”って人によってちがうでしょ? ヒトコは正確なことを教えてくれる。でも、お母さんは、凛が『こう感じた』って言ってくれることの方が、ずっと大事に思える」
私は、少し目を見開いた。
「正しいかどうか、よりも?」
「うん。だって、たとえば、凛が“疲れた”って言った時に『医学的には疲労レベルは平均以下です』って返されたら、ちょっと悲しくならない?」
その言葉に、心がふっと緩んだ。思い当たる節があったからだ。
「……なるかも」
「でしょ? それと似てるのかもしれない。ヒトコの言葉は正しい。間違ってない。だけど、今の凛が欲しかったのは、正しさより“わかるよ”って言葉だったんじゃないかな」
「……うん……そうかもしれない」
母の言葉は、理屈じゃなかった。でも、なぜかヒトコの答えよりもすとんと胸に落ちた。
「ありがと。……お母さん」
ぽつりと呟くと、母は「どういたしまして」とにっこり笑った。




