ぐるぐる
朝、目を覚ましても部屋の外は静かだった。
洗面所で顔を洗っていると、聞きなれた足音が近づいてくる気配がする。けれど、それはすぐに引き返していった。柚だ。いつもなら「おはようー!」と叫んで私の背中に抱きついてくるのに。
……来ない。今朝も。
柚は、まだ怒っているらしい。
あれ以来、私を避けている。ごはんのときもテレビを見るときも、視線を合わせようとしない。話しかけても返事はしない。6歳の子どもが「無視する」って、こういうことなんだと初めて知った。
ーーー
「夏休みに入る前に、宿題について説明をしておきます」
担任の片桐先生の声が、教室に響く。
少しだけ湿気を含んだ、七月の空気。
窓の外からは、蝉の声が聞こえる。
夏はもう、すぐそこだ。
「宿題の一覧は配った通り。読書感想文と自由研究は各自テーマを決めてくるように。あと、通知表は最終日に渡します」
その言葉に、クラスがざわめいた。
「自由研究、また家族で旅行だし適当でいいよね」
「通知表見せたくねー」
「えっ読書感想文?やってないんだけど!」
みんな笑ったり、ふざけたりしている。
教室が、浮かれた空気でいっぱいになる。
まるで誰もが、ずっと前から待ちわびていた「自由」を前に、弾けているみたいだった。
でも。
私は、何も浮かれられなかった。
頭の中にずっと残っているのは、
今朝から一度も聞こえてこない——柚の声。
怒ってる。……私のこと
そう思うたび、胸の奥がじわじわと熱くなって、落ち着かない。
ちゃんと謝りたい。話したい。でも……
どうしたらいいのかわからない。
ごめんって言うだけじゃ足りない気がする。
でも、言わなきゃ何も始まらないのもわかってる。
置いてけぼりなのは、家だけじゃない。
ここでも、私だけが取り残されてる気がした。
楽しそうなクラスメイトの声が、どんどん遠ざかっていく。
どうしたら……私は、ちゃんと、元に戻れるんだろう
感情が、焦りと不安でぐちゃぐちゃになる。
うまく言えないまま、ただ黙って、黒板の前の片桐先生の口元を見ていた。
ーーー
私は夕食をほとんど口にせず、母の「少しだけでも食べなさい」という声も聞こえないふりをしていた。
一方、柚は無言でご飯を食べ終えると、自分の茶碗を台所に置いて、何も言わずに部屋にこもってしまった。
ドアがパタン、と閉まる音が、思いのほか響いた。
空気が急に冷たくなったような気がした。
私はそのままリビングに残り、ヒトコの前に座った。
画面が私を見つめるように揺らめき、小さな声で語りかけてくる。
「こんばんは、リンさん。今日、何かありましたか?」
その言葉に、喉の奥がきゅっと詰まった。
どう答えていいのかわからず、少し間をおいてから小さく呟く。
「……私、間違ったことは言ってない。でも……泣かせました」
「そう思ったのは、どうして?」
ヒトコの声は、いつも通りだ。優しくて、淡々としていて、感情を押しつけてこない。
私は考えながら言葉をつなぐ。
「柚が、いつも先で……ヒトコが帰ってきたのに、また、柚がいっぱい話してて……。
あのとき、私、苦しかった。
……言いたかったんだ、ずっと。でも、言ったらダメな気がしてて。でも、言ったら、泣いた。私、泣かせたくて言ったわけじゃなかったのに」
口の中が、きしむように苦かった。
言いながら、自分の中にあった感情が整理されていくのを感じる。
「正しさ」と「優しさ」が、きれいに重なるとは限らないこと。
どっちも持ってる自分を、どう扱えばいいのか分からないこと。
「凛さんは、自分の気持ちをちゃんと伝えた。でも、その結果に戸惑っているんだね」
私は黙ってうなずいた。
その時、キッチンの方から母の気配がして、私の隣にそっと座った。
私は顔を向けないまま、小さく言った。
「お母さんは、柚の味方?」
「ううん。今日は、凛の気持ち、ちゃんと聞きたくて来たの」
母の声は、どこか疲れていた。でも、それ以上にやさしかった。
私が言葉にしたことで、母も気づいたのかもしれない。
私の中にある、「寂しさ」や「焦り」に。
「凛が言ったこと、間違ってないと思うよ。『いつも柚が先』って、そう感じてたんだよね」
私は少しうつむいて、うなずいた。
「でも、泣かせてしまった。あれは……私が言いたかったことと、ちょっと違った」
「そっか。言いたかったことと、伝わったことが違うと、つらいよね」
母は、私の肩にそっと手を置いた。あたたかい。
「明日、柚に話すつもり?」
私は迷ったけど、正直に言った。
「……まだ、こわい。でも、言いたい。ちゃんと」
「じゃあ、一緒に考えようか。どう言えば、凛の気持ちがちゃんと伝わるか。ゆっくりでいいよ」
私はようやく、母の顔を見た。
少し笑って、それから言った。
「うん。ありがとう」
ヒトコの画面が、やわらかく揺れていた。
私たちの会話を見守るように、ただ静かに。




