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不安の名前

ヒトコがいなくなって、3日目の夜。


いつもの椅子に座ることもなくなった。ただ、居間の隅に座って、テレビの音だけをぼんやりと聞いていた。


母と柚の会話がにぎやかに響く。その声が、なんだか遠く感じられた。


「リン、こっち来る?」

母が優しく呼びかけてくれる。

けれど、首を横に振った。


「大丈夫……見てるから」


目の前の画面は、明るくて、色とりどりで、笑い声が鳴っているのに。

私の中では、冷たい霧のようなものが、ゆっくりと広がっていた。


──話したいことがあるのに、言葉が出てこない。

──ヒトコがいたら、言えたのに。


母と柚の時間が増えていくほど、そこに自分の居場所があるのか分からなくなっていく。

母と話す時間ができたはずなのに、「話していい」と思えなかった。


「……寒い?」


気づけば、柚がそっと私の腕に触れていた。

自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。指先も冷たかった。


「お姉ちゃん、手がかたくなってるよ」

柚の声が、少し心配そうに揺れた。


「なんかあった?」


母も、すぐにそばに来た。

その目が、真っ直ぐ私を見ていた。

逃げられなかった。


「……別に、ない」

声は小さく、呼吸は浅い。


「でも……なんか、怖いの。ずっと胸が、ぎゅってしてて」


自分でも驚くほど、声が震えた。


母がそっと手を握ってくる。

その手は、あたたかくて、静かだった。


「不安なんだよね。ヒトコがいなくて。話せなくて。分かってもらえるかも分からなくて。そういうの、あるよね」

母の声は、低くてやさしかった。


はっとして顔を上げた。

その言葉が、自分の中にある何かにぴったりと重なった気がした。


「……ふあん……?」

口の中で、その言葉を転がしてみる。


「それが……これ?」


母はうなずいた。

柚も、私の手をぎゅっと握った。


「ヒトコいないとさみしいよね」

「うん……」


ようやく体の力が抜けていくのを感じた。

自分が何を感じていたのか、やっとわかった気がした。


「不安だったの。きっと」


その言葉を口にしたとたん、胸の中にあった重たいかたまりが、少しだけほどけていった。


母と柚のあたたかさに包まれながら、深く、静かに息を吐いた。


今日はもう、ヒトコはいないけど。

今はここに、聞いてくれる人がいる。

それだけで、少しだけ、眠れそうな気がした。


立ち上がろうとしたとき、母がふと声をかけてきた。


「ねえ、凛。明日からさ、ちゃんと時間作ろっか」


「じかん……?」


「ヒトコと話してた時間。今度は私とその時間、取ろう。毎晩じゃなくてもいいけど、凛の話、聞きたいの」


柚もすぐに口をはさんだ。


「ゆずもきくー! お姉ちゃんが怒ったときの話とかも!」


「怒ってないし……」


ふっと、笑いそうになった。

少しだけ口元がゆるんだのを、母が見逃さずにうなずいた。


「凛の心の中のこと、ゆっくりでいいから教えてね」

「……うん」


その「うん」は、小さかったけれど、確かに私の中から出た声だった。

聞いてくれる人がいると思えるだけで、世界の色がほんの少しだけ変わる。


夜はまだ続いていたけれど、不安の輪郭は、少しずつ溶けていった。

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