名前のない気持ち
定期診療から戻ったあとの日々は、気づけばあっという間に過ぎていった。
頭の中では、「ヒトコが1週間いなくなる」という事実だけが、何度も何度もぐるぐると回り続けていた。
「リンさん、私、明日から一時的にメンテナンスに入ります。再起動は1週間後予定です。何かあれば履歴で確認できるよう手配しますね」
その声は、いつもと変わらず穏やかで、けれどどこか事務的だった。
ヒトコの言っていた通り、翌日になると職員の人が迎えに来て、事務的な手続きを済ませると、あっさりとヒトコを連れて行ってしまった。
起動音の鳴らないリビングは、いつもよりも妙に静かで、その静けさがかえって落ち着かなかった。
ーーー
夕食後、柚がテレビの前でごろんと横になった
頃、いつものようにヒトコと話すために椅子に座ろうとしたが、ヒトコがいないことに気づいた。
すっかり定着したこのルーティンの中で、今日はその「いつもの会話」がないことが、まるで空気の中にぽっかりと穴が開いたように感じられた。
「今日から1週間は、私が話を聞くわよ?」
私の様子に気づいた母が、優しく声をかけてきた。
私は静かに頷き、母と向かい合うように椅子に座り、今日の出来事を話し始めた。
「……ふつうでした。朝は、ちょっと、眠かったです。あとは……給食が……苦手なにおいでした」
「そっか。でも、給食は食べられたの?えらいわね。」
その言葉に、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
母に「えらい」と言われるのは、いつぶりだったろう。
凛はうまく答えられず、ただ小さくうなずいた。
けれど──そのとき。
「お母さーん!見て見て!テレビでね、カバがね、あくびしてたの!」
柚がタタタッと駆け寄ってきて、母の膝にしがみつく。
母は笑って、自然に手をまわした。
「ほんと?大きなあくびだった?」
「うん!こんなに!」
柚は両手をいっぱいに広げて見せた。
母と柚の会話は、にぎやかで、やわらかくて──まるで、もともとそこに私はいなかったかのように見えた。
胸がぎゅっと締めつけられた。
どんな表情をすればいいかわからなかった。
「わたし、もう寝ます。大丈夫なので」
思わず立ち上がる。
母が「えっ」と顔を上げるが、視線を合わせなかった。
「部屋に戻ります」
それだけ言って、自室のドアを静かに閉めた。
部屋の中は、また静かだった。
ヒトコはいない。母もいない。誰もいない。
でも、胸の奥がざわついていた。
落ち着かない。言葉にできない何かが、ぐるぐると渦を巻いている。
「大丈夫」って言った。けど――たぶん、大丈夫じゃない。
あれは、なんだろう。
母を取られたような気持ち。柚の笑い声が、刺さるように感じた。
母が楽しそうに笑っていたのが、苦しかった。
「嫉妬」――そんな言葉を、まだ知らなかった。
ただ、心が落ち着かないまま、布団に潜った。
何かを求めるように、布団を強く握った。
けれど、誰もいなかった。ヒトコも、母も、柚もいない。
目を閉じると、胸の奥にぽつんと浮かぶ不安のかたまり。
静かに息を吐きながら、そのまま眠りへと沈んでいった。




