ただいまの場所
「今日も、学校……行かなくていいのよ?」
朝食のあと、食器を片づけながら、母がそう言った。
柔らかい声だった。昨日と同じ、無理をさせないための優しさ。
だけど、凛は首を横に振った。
「行く。……今日は行く」
自分でも驚くくらいの即答だった。
理由はたくさんあったけど、一番は――“決まりを崩したくなかった”から。
学校がある日に行かないのは、自分の中の秩序を壊すことで、それが何よりも気持ち悪かった。
「うん。わかった。無理しないでね」
母はそれ以上何も言わなかった。ただ、凛の背中にそっと手を添えて見送ってくれた。
ーーー
学校の空気は、やっぱり少し冷たい。
昨日の欠席について、三輪さんがまた何か言っていた。
「やっぱ特別対応で休めるんだ、いいね~」
「うちらが休んだらサボりだけどさ」
高木さんが目を伏せたまま苦笑いしてる。
私に聞こえる様に言っているのだとわかった。
でも、一昨日のように呼吸が苦しくなったり、手が震えたりはしなかった。
心のどこかに、知っているものとしてその痛みを抱えることができた。
「これは“かなしい”」と名前をつけられるだけで、すこしだけ違う気がした。
そしてなにより、「帰れば安心できる場所がある」とわかっていた。
それだけで、心が沈みすぎずにいられた。
ーーー
夕方、家に帰ると母がいつものように「おかえり」と言ってくれた。
玄関の匂いが、空気のぬるさが、体の力を抜いてくれる。
「おかえりー! 今日ね、あのね、体育でね、ボール当たったのー! でも泣かなかったよ!」
リュックを下ろす間もなく、柚は隣にぴったりとくっついて、次から次へと話しかけてくる。
言葉は少し前後していて、話の順番はおかしい。けれど、それが柚の「いつも通り」だ。
「そっか。泣かなかったんだね」
声のトーンも表情も淡々としている私の答えに、柚は気にしない。
「うん! えらいでしょ? あとね、おやつはプリンだよ。ヒトコと一緒に食べようね!」
私は頷く。
…変わらない柚の声。テンポ。内容。
自分の返事に、意味があってもなくても、柚は機嫌よく話し続けてくれる。
それが、ありがたいと思った。
「何か言わなきゃ」と焦る必要もない。うまく話せなくても、柚は笑っている。
この無頓着さが、いまの自分にはちょうどいい。
リビングのドアを開けると、甘いプリンの匂いがしていた。
小さく息を吐いて、靴をそろえた。
「ただいま」
自分の中の「安心」が、音もなくそこに戻ってきた気がした。
ーーー
夕食後いつものように、ヒトコの前に座る。
今日はその横に、母も椅子を持ってきて、静かに座った。
「ヒトコ、今日は学校に行きました」
「……えらかったですね、リンさん」
ヒトコの声は変わらず優しい。
今日起きたことをゆっくり話した。言葉を探しながら。
母は何も言わず、横でじっと聞いている。
なんだか不思議だった。
母とヒトコと、三人で会話しているわけではないのに、どこか安心できる。
話し終わったあと、思わず言った。
「……なんか、こういうの、落ち着きます」
母が少しだけ微笑んだ。
「それならよかった」と、ぽつり。
温かい時間だった。
誰にも責められない。
何も求められない。
ただ、自分の気持ちを、そっと机の上に置いても、誰かが受け止めてくれる場所。
ヒトコに見守られながら、そして母のまなざしに包まれながら――
私は初めて、「ただいま」と言える場所を、心の奥に見つけたように思った。




