第九章 市場の喧騒
メルカトルから渡された数枚の銅貨を握りしめ、樹と莉緒奈は「梟のねぐら亭」の薄暗い廊下を抜け、再びセリアの町の喧騒へと足を踏み出した。午後の日差しは、建物の間からまだらに差し込み、石畳を照らしている。埃っぽい匂い、香辛料の香り、家畜の匂い、そして人々の汗の匂い。様々な匂いが混じり合い、異世界の町の空気を形作っていた。
「さて、どこから見て回ろうか、リナ。メルカトル師匠は、あまり目立つなと言っていたけど」樹は、周囲の視線を気にしながら言った。自分たちの服装は、明らかにこの世界の人々とは異なっている。それが、好奇の目と、時には警戒の目を向けられる原因になっているのは明らかだった。
「うーん、そうねえ……。あっちの広場みたいなところ、人がたくさん集まっているみたいよ。何か面白いものがあるかもしれないわ」莉緒奈は、持ち前の好奇心で、メインストリートの先にある広場を指差した。そこからは、ひときわ大きな喧騒が聞こえてくる。
「広場か……。市場が開かれているのかもしれないな。よし、行ってみよう。でも、絶対に勝手な行動はするなよ。はぐれたら大変だ」
「分かってるわよ、もう。イツキは心配性なんだから」莉緒奈は少し唇を尖らせたが、樹の真剣な表情を見て、こくりと頷いた。
広場は、まさに人でごった返していた。色とりどりの天幕が張られ、その下には様々な品物を並べた露店がひしめき合っている。見たこともないような奇妙な形の野菜や果物、干し肉や魚、手作りの装飾品、古びた武具や魔道具らしきものまで、ありとあらゆるものが売られていた。売り手と買い手の怒鳴り声に近い交渉の声、子供たちのはしゃぐ声、吟遊詩人が奏でる陽気な音楽。その全てが渾然一体となり、市場全体を生き物のように脈打たせていた。
「うわぁ……。すごい人。それに、見たことないものがいっぱい」莉緒奈は目を丸くして、興奮気味に声を上げる。彼女は早速、色鮮やかな布地を売る店に駆け寄り、店主の老婆と何やら話し込んでいる。樹は、そんな莉緒奈の行動力に苦笑しつつも、彼女から目を離さないように注意しながら、市場の様子を注意深く観察し始めた。
(メルカトル師匠は言っていた。商人にとって最も重要なのは情報、そして目利きだと……)
樹は、露店に並べられた品々を一つ一つ見て回り、その値段や品質、そして人々の反応を記憶に刻み込もうとした。例えば、ある露店では、手のひらサイズの光る石が「夜光石」として銅貨五枚で売られていた。別の店では、同じような石が銅貨三枚だったり、逆に十枚だったりする。見た目だけでは、その価値は分からない。店主の口ぶりや、買い手の表情、そういったものから、何か手がかりを得られないだろうか。
ふと、樹の目に、古びた革製品を扱う小さな露店が留まった。店主は、無口そうな初老の男で、黙々と革の手入れをしている。並べられているのは、使い古された革袋やベルト、そして小さな革の小物入れなどだ。どれも、決して見栄えが良いとは言えないが、丁寧に手入れされているのが分かる。
(この革製品……もしかしたら、何か掘り出し物があるかもしれない)
樹は、直感的にそう感じた。元の世界では、臆病で何も行動できなかった自分が、この異世界では、不思議と大胆になれるような気がした。これも、メルカトルとの出会いや、森での経験が影響しているのかもしれない。
樹は、意を決して店主に声をかけた。
「すみません、この小さな革袋は、いくらですか」
樹が指差したのは、手のひらサイズの、何の変哲もない革の小物入れだった。しかし、その革の質感と、丁寧な縫い目に、何か惹かれるものがあったのだ。
店主は、無言で樹の顔を一瞥すると、ぶっきらぼうに答えた。
「……銅貨十枚だ」
「銅貨十枚……ですか」樹は、メルカトルから貰った銅貨の枚数を頭の中で数えた。ギリギリ買える値段だ。しかし、この小物入れに、それだけの価値があるのだろうか。
「少し、高いように思いますが……何か特別な革でも使っているのですか」樹は、勇気を出して尋ねてみた。これが、自分にとっての最初の「交渉」かもしれない。
店主は、初めて樹の目をまっすぐに見て、低い声で言った。
「……これは、月影狼の革だ。普通の狼の革より丈夫で、水にも強い。それに、この縫い目は、俺が若い頃に、名高い革職人の親方に教わった秘伝の技だ。分かる奴には分かる。分からねえ奴には、ただの古ぼけた革袋だろうがな」
月影狼。その名前に、樹はどこかで聞いたことがあるような気がした。確か、メルカトルが森で話していた、夜になると姿を消すと言われる、幻の狼ではなかったか。もし、それが本当なら、この小物入れは、銅貨十枚以上の価値があるのかもしれない。
「……分かりました。これをください」樹は、懐から銅貨十枚を取り出し、店主に差し出した。
店主は、無言で銅貨を受け取ると、小物入れを樹に手渡した。その時、店主の口元が、ほんのわずかに緩んだように見えたのは、気のせいだろうか。
莉緒奈が、興奮した様子で樹の元へ駆け寄ってきた。
「イツキ、見て見て。この首飾り、すっごく可愛くない。虹色に光る石が付いてるの。お店の人、銅貨二十枚だって言うんだけど、ちょっと高くないかしら」
莉緒奈が手にしていたのは、確かに美しい虹色の石がついた銀の首飾りだった。しかし、樹には、その石がどこか安っぽく見えた。先ほどの革製品の店主の言葉が、頭の中で反響する。「分かる奴には分かる。分からねえ奴には……」
「リナ、その石、ちょっと見せてくれるか」
樹は、莉緒奈から首飾りを受け取り、じっくりと観察した。石の輝きは確かに美しいが、どこか人工的な感じがする。そして、銀の鎖も、よく見ると細かな傷が多く、作りも雑だ。
「リナ、この首飾りは、やめておいた方がいいかもしれない。多分、そんなに価値のあるものじゃないと思う」
「えー、そうなの。でも、すっごく綺麗なのに……」莉緒奈は、不満そうに唇を尖らせる。
「見た目の美しさだけが、価値じゃないんだ。メルカトル師匠も言ってたろ。目利きが大事だって。俺には、この首飾りが銅貨二十枚の価値があるとは思えない」
樹の言葉に、莉緒奈は少し考え込むような表情をしたが、やがて納得したように頷いた。
「……分かったわ。イツキがそう言うなら、やめておく。あなた、なんだか今日はすごく頼りになるわね。まるで、本物の商人みたい」
莉緒奈の言葉に、樹は少し照れくさそうに笑った。自分でも、少しずつ変わってきているのを感じていた。
その時、広場の一角がにわかに騒がしくなった。人だかりができており、何やら怒鳴り声のようなものも聞こえてくる。
「何だろう。何かあったのかしら」莉緒奈が、好奇心に駆られて人だかりの方へ行こうとする。
「おい、リナ、待てよ」
樹も、何が起こっているのか気になり、莉緒奈の後を追った。人垣をかき分けて前に出ると、そこでは、屈強な体つきの男たちが、一人の小柄な少年を取り囲んでいる光景が目に入った。少年は、何か高価な品物を盗んだと疑われているらしく、男たちに激しく問い詰められていた。その光景は、樹にとって、元の世界での忌まわしい記憶を呼び覚ますものだった。武田たちにいじめられていた、無力な自分自身の姿と重なる。
(助けなきゃ……でも、俺に何ができる)
樹の心の中で、臆病な自分と、変わりたいと願う新しい自分が激しく葛藤する。足がすくみ、声が出ない。しかし、莉緒奈は違った。
「ちょっと、あなたたち。寄ってたかって、子供一人をいじめるなんて、それでも男なの」
莉緒奈は、臆することなく男たちの前に立ちはだかり、毅然とした態度で言い放った。その姿は、まるで正義のヒロインのようだった。
樹は、そんな莉緒奈の姿に、そして何もできない自分自身に、再び強い無力感を覚えた。しかし、同時に、彼女の勇気に背中を押されるような気もした。ここで何もしなければ、自分は元の世界の臆病な自分のままではないか。
(そうだ、俺は変わるんだ。この世界で、新しい自分になるんだ)
樹は、固く拳を握りしめ、一歩前に踏み出した。彼の異世界での本当の試練は、まだ始まったばかりだった。