第八章 梟のねぐら亭
セリアの町は、石畳が敷かれたメインストリートを中心に、木造やレンガ造りの建物が肩を寄せ合うように建ち並んでいた。道行く人々の服装は様々で、屈強そうな鎧姿の冒険者風の男たち、質素なローブをまとった農夫、色鮮やかな衣装を身に着けた旅芸人の一座など、まさに多種多様な人々が往来している。活気のある呼び込みの声、荷馬車が石畳を揺らす音、どこからか漂ってくる香辛料の刺激的な香りや、焼きたてのパンの香ばしい匂い。それら全てが、樹と莉緒奈にとっては新鮮で、五感を刺激した。
「すっごーい。見てイツキ、あの果物、見たことない色してる。それに、あの動物、耳がすっごく長いの」
莉緒奈は、子供のようにはしゃぎながら、あちこちの露店を指差す。その目は好奇心でキラキラと輝き、森での恐怖などすっかり忘れてしまったかのようだ。樹は、そんな莉緒奈の様子を微笑ましく思いながらも、周囲への警戒を怠らなかった。メルカトルの言う通り、この町にはどんな人間がいるか分からない。特に、自分たちのような異邦人は、目立つ存在だろう。
「お二人さん、あまりキョロキョロしていると、カモだと思われますぞ」メルカトルが、苦笑しながら注意を促す。「まずは宿を確保いたしましょう。この町で一番安くて安全な宿を知っております」
メルカトルに案内されて、一行はメインストリートから少し外れた、細い路地へと入っていった。そこは、表通りの喧騒とは打って変わって、薄暗く、少し湿っぽい空気が漂っていた。建物の壁には苔が生え、どこからか排水の嫌な臭いもする。
「メルカトル師匠、本当にこっちで大丈夫なんですか。なんだか、ちょっと怖いんですけど……」莉緒奈が不安そうに呟く。
「はっはっは、お嬢さん、ご心配なく。見かけは悪いですが、ここの主人は腕利きの元冒険者でしてな。ならず者も迂闊には手を出せませぬ。それに、宿代も良心的ときております」
やがて、一行は古びた木造の建物の前にたどり着いた。看板には「梟のねぐら亭」と、掠れた文字で書かれている。扉を開けると、薄暗い室内には、木のテーブルと椅子がいくつか並び、奥のカウンターには、片目に眼帯をした、熊のように大柄な男が腕を組んで座っていた。その鋭い眼光は、一見してただ者ではない雰囲気を醸し出している。室内に漂うのは、安い酒と埃の匂い、そして微かに血の匂いも混じっているような気がした。
「よう、メルカトル。また厄介事を持ち込んできたのか」眼帯の男が、低い声で言った。その声は、長年酒焼けしたかのように嗄れている。
「これはこれは、バルガス殿。ご壮健そうで何より。ええ、少々ね。この若いの二人、私の新しい弟子でしてな。今宵一夜の宿をお願いしたい」
「弟子、だと。お前に弟子なんぞいたとは初耳だな。まあいい。部屋は空いてる。一部屋銀貨二枚だが、お前の顔に免じて、二人で銀貨三枚で手を打とう。食事は別だぞ」
バルガスと呼ばれた宿の主人は、無愛想にそう言うと、カウンターの奥から古びた鍵を一つ取り出した。
「銀貨三枚、ですか……」樹は、メルカトルの顔を見た。自分たちには、この世界の通貨はない。
メルカトルは、心得たように頷くと、懐から小さな革袋を取り出し、中から銀貨を三枚、カウンターに置いた。
「では、それでお願いいたしましょう。それと、バルガス殿。この弟子たち、少々特殊な事情がありましてな。あまり騒ぎを起こさぬよう、よしなにお頼み申す」
「ふん、お前の頼みとあらば、無下にはできん。だが、問題を起こしたら叩き出すぞ。うちは、そういう店だ」
バルガスの言葉には有無を言わせぬ迫力があった。
部屋は、屋根裏部屋のような狭い空間で、粗末なベッドが二つと、小さな木の机が一つあるだけだった。窓からは、隣の建物の壁しか見えない。しかし、森での野宿に比べれば、屋根があり、ベッドで眠れるだけでも天国のように感じられた。
「わあ、ベッドだあ。久しぶりにちゃんとしたところで寝れるのね」莉緒奈は、早速ベッドに飛び乗って、子供のようinäはしゃいでいる。
樹は、そんな莉緒奈を見ながら、改めてこの世界の現実を噛み締めていた。メルカトルの助けがなければ、宿を確保することすらできなかっただろう。商人として生きていくためには、まずこの世界の通貨を手に入れ、自力で生活できるようにならなければならない。
「さて、お二人さん」メルカトルが、部屋の入り口に寄りかかりながら言った。「宿も確保できましたし、私は少々野暮用がございます。夕餉の頃に戻りますので、それまでは町を散策するなり、部屋で休むなり、ご自由にどうぞ。ただし、あまり目立つ行動は控えるように。それと、これを」
メルカトルは、樹に小さな革袋を差し出した。中には、銅貨が数枚入っている。
「これは。メルカトル師匠」
「餞別、というほどのものではございませんがね。何かと入り用でしょう。まあ、貸し、ということにしておきましょうか。いずれ、立派な商人になって返してくだされば結構ですぞ」
メルカトルの言葉に、樹は胸が熱くなるのを感じた。この胡散臭いと思っていた商人が、自分たちにこんな親切を見せてくれるとは。
「ありがとうございます、メルカトル師匠。必ず、お返しします」
「はっはっは、期待しておりますぞ、若旦那」
メルカトルはそう言うと、にやりと笑って部屋を出て行った。その背中を見送りながら、樹は決意を新たにする。必ず、この世界で成功してみせる、と。
莉緒奈は、窓から町の様子を眺めていた。
「ねえ、イツキ。これからどうする。町を探検してみない。何か面白いものが見つかるかもしれないわよ」
彼女の目は、期待に輝いている。樹も、この町のことをもっと知りたいと思っていた。
「そうだな。でも、メルカトル師匠の言う通り、あまり目立たないようにしないと。まずは、情報収集だ。この町で何が売られていて、何が必要とされているのか。それを見極めるのが、商人への第一歩かもしれない」
樹の言葉に、莉緒奈は力強く頷いた。
「うん、わかったわ。じゃあ、行こう。私たちの異世界での最初の冒険よ」
二人は顔を見合わせ、笑みを浮かべた。不安がないわけではない。しかし、それ以上に、新しい世界への期待と、自分たちの力で未来を切り開いていくという高揚感が、彼らの胸を満たしていた。セリアの町は、彼らにとって、希望と試練が待ち受ける、新たな舞台となるのだった。