第六章 焚き火の夜
陽が傾き、森の木々の影が長く伸び始めると、メルカトルは足を止めた。
「本日は、この辺りで野営といたしましょう。夜の森は、昼間とは比べ物にならぬほど危険が増しますからな。特に、満月が近い夜は、魔物たちの動きが活発になる」
メルカトルの言葉に、樹と莉緒奈は顔を見合わせた。彼らの世界では、満月はロマンチックなものの象徴だったが、この世界では不吉な兆候らしい。空気が一層冷え込み、森の奥からは得体の知れない鳴き声が聞こえ始め、二人の不安を煽った。
メルカトルは手際よく焚き火の準備を始めた。乾いた枝を集め、火打石で火花を散らすと、パチパチという音とともにオレンジ色の炎が立ち上り、周囲の闇をわずかに押し返す。炎の暖かさが、強張っていた二人の体を少しだけ解きほぐした。メルカトルは革袋から干し肉と硬いパンを取り出し、二人にも分け与える。
「ささ、腹ごしらえを。質素なものですが、ないよりはましでしょう。明日は少し早めに出立しますぞ」
干し肉は硬く、塩辛かったが、空腹だった二人にとってはご馳走に感じられた。焚き火の揺らめきを見つめながら、樹はメルカトルに尋ねた。
「メルカトルさん、このアウリオンという世界には、俺たちのような『異邦人』は、他にもいるんですか」
元の世界への未練と、この世界で生きる覚悟の間で、樹の心は揺れていた。もし、他にも仲間がいるのなら ─── 。
メルカトルは、炎に干し肉をかざしながら答えた。
「さあ、どうですかな。稀に、あなた方のような異邦人が迷い込むという話は聞きますが、実際に会ったことはありませぬな。もっとも、この世界は広うございます。どこかでひっそりと暮らしているのかもしれませぬし、あるいは …… まあ、あまり詮索せぬことです。異邦人は、何かと目立ちますからな。良からぬ輩に目をつけられやすい」
メルカトルの言葉は淡々としていたが、その奥には警告の色が滲んでいた。この世界は、決して優しくはないのだと。
莉緒奈が、不安そうな顔で口を開いた。
「あの …… 私たち、元の世界に帰れるんでしょうか。何か、方法はあるんでしょうか」
彼女の問いに、メルカトルはしばらく黙り込んだ。焚き火の薪がはぜる音だけが、静寂を破る。やがて、メルカトルは重々しく口を開いた。
「元の世界へ、ですか。ふむ …… それは、いささか難しい問いですな。古の文献によれば、異世界への扉は、星の巡りや大地の力、そして何よりも強い『願い』によって開かれるとか。しかし、一度閉ざされた扉を再び開く方法は、このメルカトルも寡聞にして知りませぬ。あるいは、先ほど話に出た『星詠みの賢者』ならば、何か知っているやもしれませぬが …… 」
メルカトルの言葉に、莉緒奈の顔が曇る。元の世界へ帰る道は、それほどまでに険しいのか。樹は、莉緒奈の肩をそっと抱いた。大丈夫だ、と無言で伝えるように。
「まあ、あまり悲観なさるな、お嬢さん」メルカトルが、努めて明るい声を出した。「このアウリオンも、住めば都と申します。確かに危険は多いですが、それに見合うだけの面白みもございますぞ。例えば、この世界の『魔法』。あなた方の世界には、魔法はございませんでしたかな」
「魔法、ですか」樹が聞き返す。「物語の中には出てきますが、実際に使える人はいません。本当に、この世界には魔法があるんですか」
「いかにも。四大元素を操る元素魔法、傷を癒す回復魔法、そして、中には時を操るなどという、とんでもない魔法を使う者もいるとか。もっとも、魔法を使えるのは、選ばれた才能を持つ者か、あるいは血筋の良い貴族様くらいなものですかな。我々のような平民には、縁遠い話ですが」
メルカトルは、遠い目をして語る。その瞳には、魔法への憧憬のようなものが浮かんでいた。
「じゃあ、メルカトルさんは、魔法は使えないんですか」莉緒奈が尋ねる。
「はっはっは、このメルカトルにそのような才能があれば、しがない行商人などしておりませんわ。もっとも、魔道具の扱いくらいは心得ておりますがね。先ほどの『蜂の巣』も、一種の魔道具と言えなくもありません」
「魔道具 …… 」樹は、その言葉に興味を引かれた。「それは、誰でも使えるんですか」
「ええ、金さえ払えば、ですな。もっとも、強力な魔道具は、それなりに値が張りますが。例えば、炎を自在に操れる腕輪や、姿を消すことができる外套など、夢のような品物もございますぞ。商人として大成すれば、あるいは手に入れることも可能やもしれませぬな、若旦那」
メルカトルは、意味ありげに樹を見た。その言葉は、樹の心の奥底に眠っていた「商人」への憧れを、再び呼び覚ますようだった。この世界で商人として成功すれば、あるいは元の世界へ帰るための手がかりや、莉緒奈を守るための力を手に入れられるかもしれない。
「商人、ですか …… 」樹は呟いた。「この世界で商人になるには、何が必要なんですか。俺には、特別な力も、この世界の知識もありませんが」
かつての自分なら、そんな大それたこと、考えもしなかっただろう。しかし、異世界に来て、巨大な蠍と対峙し、そしてこの胡散臭いがどこか頼りになる商人と出会って、樹の中で何かが変わり始めていた。もう、誰かに怯えて生きるのは嫌だ。自分の力で、未来を切り開きたい。
メルカトルは、樹の真剣な眼差しをじっと見つめ、そして満足そうに頷いた。
「ほう、若旦那は、なかなか見どころがありそうですな。商人になるために必要なもの …… それは、第一に『目利き』の力。品物の価値を見抜く目ですな。第二に、『交渉術』。相手を納得させ、自分に有利な取引をまとめる話術。そして第三に、何よりも『度胸』。危険を恐れず、好機を逃さない勇気。これらが揃えば、あなたも立派な商人になれるやもしれませぬぞ」
メルカトルの言葉は、まるで樹の未来を予言しているかのようだった。焚き火の炎が、パチリと一際大きくはぜ、夜空には無数の星が瞬き始めていた。その星々は、まるで樹たちの新たな運命を祝福しているかのようにも、あるいは、これから待ち受けるであろう試練を暗示しているかのようにも見えた。
「目利き、交渉術、そして度胸、ですか …… 」樹は、その言葉を胸に刻み込むように繰り返した。
莉緒奈は、そんな樹の横顔を、心配そうに、しかしどこか誇らしげに見つめていた。
「イツキなら、きっとできるわ。あなた、いざという時はすごく頼りになるもの」
その言葉に、樹の頬がわずかに緩む。莉緒奈の信頼が、何よりも力になる。
夜は静かに更けていく。森の奥からは、時折、獣の低い唸り声や、梟の鳴き声が聞こえてくる。それは、二人にとって初めて体験する、異世界の夜の音だった。不安と期待が入り混じった複雑な感情を抱きながら、樹と莉緒奈は、メルカトルが用意してくれた粗末な毛布にくるまり、しばしの眠りについた。彼らのアウリオンでの最初の夜は、こうして静かに過ぎていった。