第五章 星詠みの森
メルカトルを先頭に、樹と莉緒奈は鬱蒼とした森の中を進み始めた。太陽の光は高い木々の葉に遮られ、昼間だというのに森の奥は薄暗い。湿った土の匂いと、名も知らぬ草花の甘い香りが混じり合い、時折、獣の遠吠えのような音が風に乗って聞こえてくる。メルカトルは、まるで自分の庭を歩くかのように慣れた足取りで、茨や木の根が複雑に絡み合う道なき道を進んでいく。その背中は小さく見えるが、どこか頼もしさも感じられた。
「して、お二人さん。先ほどの『光の棒』、あれは一体全体、どのような仕組みで光るのでございますかな。魔道具の一種ですかな。それとも、何か特別な鉱石でも使っているので」
メルカトルは、背負った革袋を揺らしながら、好奇心に満ちた目で樹に問いかけた。その目は、子供のようにキラキラと輝いているが、その奥には商人の抜け目なさも隠されている。
「仕組み、ですか …… 」樹は言葉を選んだ。「俺たちの世界では、電気という力を使って動かす道具です。魔道具とは少し違うかもしれませんが …… 」
「電気。ほう、それはまた興味深い。雷の力でも使うのですかな。雷を自在に操るとは、あなた方の世界は、さぞかし進んだ文明なのでしょうなあ」
メルカトルの食いつきように、樹は内心驚いた。この世界の人間にとって、「電気」という概念はそれほど珍しいものなのだろうか。
莉緒奈が、横から口を挟んだ。
「電気っていうのはね、もっとこう、小さい粒々がたくさん動いて、それで光ったり熱くなったりするのよ。私たちの世界には、夜でも街中が昼間みたいに明るくなるくらい、電気がいっぱいあるんだから」
莉緒奈は得意げに胸を張る。彼女のあっけらかんとした物言いに、樹は少しヒヤリとしたが、メルカトルはかえって面白がっているようだった。
「なんと。夜でも昼間のように明るい街。それは一度見てみたいものですなあ。まるで、太陽をいくつも捕まえているような話ですな。して、その電気とやらは、どこで手に入るのです。特別な場所で採掘でもするので」
メルカトルの質問は尽きない。樹は、現代科学の基礎を、この世界の住人にどう説明すればいいのか頭を悩ませた。下手に知ったかぶりをすれば、ボロが出るかもしれない。
「まあ、その話はまたゆっくりと。それよりメルカトルさん、この森は『星詠みの森』と呼ばれているそうですが、何か謂れでもあるのですか」樹は話題を変えようと試みた。
メルカトルは、にやりと笑って答える。
「おやおや、賢明なご判断ですな、若旦那。そう急かさずとも、面白い話はこれからいくらでも聞けますからな。星詠みの森 …… ええ、その名の通り、この森の奥深くには、星の動きを読み、未来を占うという賢者が住んでいると伝えられております。もっとも、ここ数十年、その姿を見た者はおりませぬがな。ただの言い伝えかもしれませぬ」
メルカトルの言葉には、どこか含みがあるように感じられた。星を読む賢者。それは、この世界の謎を解く手がかりになるのだろうか。樹の胸に、新たな好奇心が芽生える。
しばらく進むと、道端に奇妙な形をしたキノコが生えているのを見つけた。傘の部分が青白く発光し、周囲をぼんやりと照らしている。
「わあ、綺麗。これ、食べられるのかしら」莉緒奈が駆け寄り、手を伸ばそうとする。
「お嬢さん、いけませんぞ」メルカトルが鋭い声で制した。「それは『月光茸』といって、美しい見た目とは裏腹に、猛毒を持つキノコです。一口でも食べれば、三日三晩苦しんだ挙句、あの世行きですぞ」
莉緒奈は、慌てて手を引っ込めた。彼女の顔が、さっと青ざめる。
「ひぇっ、あ、危なかったあ …… 」
「この森には、美しいものほど毒がある、という言葉がございます。肝に銘じておくとよろしいでしょう。まあ、中には薬になるものや、高く売れる珍しいものもございますがね。例えば、あちらに見える『涙陽草』。あれは、傷薬の材料として重宝されます」
メルカトルが指差す先には、朝露に濡れてキラキラと輝く、小さな赤い花があった。
「へえ、薬草ですか。なんだか、本当にファンタジーの世界みたいだな」樹は感心したように呟いた。
その時だった。前方の茂みがガサガサと揺れ、低い唸り声と共に、狼に似た、しかし体長は二メートルを超えるであろう黒い獣が三匹、姿を現した。鋭い牙を剥き出しにし、血走った目でこちらを睨みつけている。その体からは、獣特有の生臭い匂いと、殺気が漂ってきた。
「夜陰狼ですな。厄介な連中に見つかってしまいましたな」メルカトルが、忌々しげに舌打ちする。
莉緒奈は、先ほどの蠍の恐怖が蘇ったのか、樹の腕にしがみついた。
「イツキ …… どうしよう …… 」
樹も、緊張で背中に冷たい汗が流れるのを感じた。しかし、一度危機を乗り越えた経験が、彼を冷静にさせていた。
「リナ、落ち着け。大丈夫だ。メルカトルさんもいる」
樹は、リュックから再びレーザーポインターを取り出そうとした。だが、それより早く、メルカトルが動いた。
「お二人さんは、私の後ろへ。こいつらは、少々手荒な歓迎がお好みのようで」
メルカトルはそう言うと、背中の革袋から、奇妙な形をした金属製の筒を取り出した。筒の先端には、小さな穴がいくつも空いている。
「さあさあ、腹ペコの狼さんたち。とっておきのご馳走ですぞ」
メルカトルが筒の引き金のような部分を引くと、シュッという音と共に、筒の先端から無数の細い針のようなものが飛び出した。それは、目にも止まらぬ速さで夜陰狼たちに襲いかかり、狼たちは甲高い悲鳴を上げてその場に倒れ伏した。痙攣していたが、やがて動かなくなる。
「これは …… 」樹は、あっけにとられてメルカトルを見た。
「ふふ、ただの行商人ではございませんよ、このメルカトルは。これでも昔は、少々名の知れた『狩人』でしてな。この『蜂の巣』は、私の特注品です。まあ、あまり人様にお見せするようなものではございませんが」
メルカトルは、何でもないことのように肩をすくめた。その手際の良さと、得体の知れない武器。この男、やはりただ者ではない。
樹は、メルカトルの強かさと、この世界の厳しさを改めて思い知らされた。レーザーポインターのような小手先の道具だけでは、ここでは生き残れないのかもしれない。もっと、本質的な強さが求められる。
「メルカトルさん …… 強いんですね」莉緒奈が、感嘆の声を漏らす。
「はっはっは、お嬢さんに褒められるとは光栄ですな。ですが、この世界では、強さだけでは生き残れませぬ。知恵と、運と、そして何よりも『交渉術』。それが、このアウリオンで成り上がるための秘訣ですかな」
メルカトルは意味深長に笑い、再び森の奥へと歩き始めた。その背中を追いながら、樹は決意を新たにする。この世界で、商人として生きていく。そして、いつか必ず、元の世界へ帰る方法を見つけ出すのだと。そのためには、この胡散臭いが頼りになりそうな商人から、学べることは全て学ばなければならない。星詠みの森の道行きは、まだ始まったばかりだった。