第三章 アウリオンの森
次に目を開けた時、彼らは見知らぬ森の中に立っていた。むせ返るような濃密な緑の匂いと、聞いたこともない鳥や獣の声が、鼓膜を直接揺さぶる。足元には、先ほどまでいた書斎の床ではなく、湿った土と腐葉土が広がり、ぬかるんだ感触が靴底から伝わってくる。周囲の空気は重く、湿度が高い。まるで、巨大な生き物の胎内にいるかのようだ。木の葉の隙間から漏れる陽光は、どこかこの世のものではない、奇妙な色合いをしていた。
「……どこ、ここ。信じられない……本当に、異世界に来ちゃったの。あの本、やっぱり本物だったんだわ」莉緒奈が呆然と呟く。彼女の声は、恐怖と混乱でか細く震えていた。しかし、その瞳の奥には、わずかな好奇の色も浮かんでいた。周囲の木々は、見たこともないほど巨大で、天を衝くようにそびえ立ち、空を覆い隠すように枝を伸ばしている。まるで、太古の地球、あるいは全く別の惑星に迷い込んだかのようだ。木の幹には、奇妙な模様の苔がびっしりと生え、不気味な光を放っている。
「手紙の通りなら …… アウリオン、とかいう世界、みたいだけど。本当に、こんなことが……起こるなんてな。でも、これで……」樹は、まだ痺れの残る腕をさすりながら答えた。状況は全く飲み込めないが、思考だけは妙に冷静だった。いや、冷静を装うしかなかった。隣にいる莉緒奈を守らなければ、という一心で。そして、心のどこかで、この非日常的な状況に、わずかな興奮を覚えている自分もいた。ここなら、あの嫌な日常から逃れられるかもしれない。新しい自分になれるかもしれない、と。あの、忌まわしい武田の顔も、もう見なくて済むのだ。
その時、森の奥から、地響きと共に巨大な影が姿を現した。それは、硬い甲殻に覆われた、全長十メートルはあろうかという巨大な蠍型のモンスターだった。鋭い鋏を振り上げ、毒々しい紫色の光を放つ尾を、威嚇するように揺らめかせている。その巨体からは、腐臭とアンモニア臭が混じったような、強烈な悪臭が漂ってきた。空気がビリビリと震え、本能的な恐怖が背筋を駆け上る。
「嘘でしょ …… あんなの、ゲームの中だけの存在じゃなかったの。ねえ、あれ、本物なの。ちょっと、大きすぎない」莉緒奈の顔から血の気が引き、その場にへたり込みそうになる。あんなものに襲われたら、ひとたまりもない。恐怖で足がすくみ、声も出ない。
樹も、全身の毛が逆立つような強烈な恐怖を感じた。だが、同時に、頭の片隅で冷静な部分が囁いていた。逃げ場はない。ならば、どうする。ここで死ぬわけにはいかない。莉緒奈を、守り抜かなければ。その決意が、恐怖に凍りつきそうになる心を、かろうじて支えていた。これは、試練なのだ。ここで逃げたら、元の臆病な自分と何も変わらない。今度こそ、自分自身の手で、この状況を切り開くんだ。
「リナ。伏せて。早く。木の陰に隠れるんだ」樹は叫ぶと同時に、莉緒奈の腕を引いて近くの巨木の陰に身を隠した。モンスターは、まだ二人に気づいていないようだ。ゆっくりと周囲を見回し、何かを探しているかのような動きを見せる。その度に、地面が揺れ、木の葉がざわめいた。
「どうするのよ、イツキ。あんなの、勝てるわけないじゃない。無理よ、絶対に。逃げようよ、早く。見つかる前に」莉緒奈がパニック寸前の声で樹に詰め寄る。その瞳には絶望の色が浮かんでいた。
「落ち着け、リナ。よく見ろ。あいつ、目が悪いんじゃないか。動きも鈍い。それに、さっきから同じ場所をうろうろしてるだけだ」樹は、モンスターの動きを注意深く観察していた。巨体に似合わず、動きはどこか緩慢で、周囲の状況を把握するのに時間がかかっているように見える。そして、何よりも、その巨大な複眼は、焦点が合っていないように濁っていた。まるで、白内障を患った老人の瞳のようだ。
「それに、あの甲殻 …… 腹側は、もしかしたら柔らかいかもしれない」樹は続ける。「さっき、一瞬だけ腹が見えた。他の部分より色が薄かったし、鱗の密度も低いように見えた。あそこなら、あるいは……何か、通じるかもしれない」
「だからって、どうやって攻撃するのよ。武器も何もないのよ、私たち。石を投げるっていうの。それとも、木の棒で叩くの」莉緒奈の声には、わずかな期待と、それ以上の諦めが混じっていた。
「いや、ある。使えるものが、一つだけ。お前のバッグにも、何かあるだろ。いつも持ち歩いてるじゃないか」樹は、自分のリュックサックを探った。そこから出てきたのは、学校の文化祭の準備で使った、強力なレーザーポインターだった。本来は、プレゼンテーションで使うものだが、悪戯心から持ち歩いていたのだ。そして、莉緒奈のリュックからは、化粧直しのための小さな手鏡が出てきた。こんなものが、まさか命綱になるとは。
「リナ、あのレーザーポインターの光を、この鏡で反射させて、あいつの腹を狙う。もし、あそこが弱点なら …… 光に弱い可能性もある。駄目元でも、やるしかない」
「そんなもので、効果があるの。ただの光じゃないの。冗談でしょ、イツキ。それで蠍が倒せるなら、誰も苦労しないわよ」莉緒奈は、半信半疑といった表情だ。
「ないよりマシだ。それに、あいつの注意を逸らすことはできるかもしれない。その隙に、別の場所に移動する。賭けるしかない。俺を信じろ。今度こそ、俺がなんとかする」樹の言葉には、普段の彼からは想像もできないような、有無を言わせぬ力があった。その真剣な眼差しに、莉緒奈は息を飲んだ。いつもの弱気な樹とは、まるで別人だった。
樹は、レーザーポインターのスイッチを入れた。赤い光点が、暗い森の中で鮮やかに輝く。莉緒奈は、震える手で鏡を構え、樹の指示通りに光を反射させた。赤い光点が、モンスターの巨体を這い、そして、わずかに覗く腹部の柔らかそうな部分に当たった。その瞬間、森の空気が張り詰めた。まるで、世界の時間が止まったかのように。
モンスターが甲高い奇声を発した。まるで、熱い鉄を押し付けられたかのように、その場で飛び跳ね、苦悶の声を上げる。やはり、腹部が弱点だったのだ。そして、赤い光に対して、異常なほどの警戒心と嫌悪感を示している。光が当たった部分の甲殻が、わずかに変色し、焦げたような匂いが漂ってきた。
「今だ。リナ、走れ。あっちだ。全力で」
二人は、モンスターが苦しんでいる隙に、反対側の茂みへと駆け出した。心臓が早鐘のように鳴り響き、息が切れそうになる。だが、今はただ、生き延びることだけを考えていた。木の根や蔦に足を取られそうになりながらも、必死に前へ進む。背後からは、モンスターの怒り狂う咆哮と、木々をなぎ倒す破壊音が追いかけてくる。その音は、死神の足音のように、二人の背中に迫っていた。
どれくらい走っただろうか。背後からの追跡の気配がないことを確認し、ようやく足を止めた。全身汗だくで、呼吸は荒く、足は鉛のように重い。
「はぁ …… はぁ …… ま、撒いた、みたいね。助かったの、私たち。イツキ、あなた、すごいのね……いつもと全然違う。あの時、本当に頼りになったわ」莉緒奈が、膝に手をつきながら荒い息を整える。その顔は蒼白だったが、瞳には安堵の色と、樹に対する新たな尊敬の念が浮かんでいた。
「ああ …… なんとか、なったな。本当に、運が良かっただけだ。でも、少しは……変われたかな。ここでなら、俺も……」樹も、額の汗を拭った。全身の筋肉が悲鳴を上げている。しかし、それ以上に、精神的な疲労が大きかった。だが、同時に、今まで感じたことのない達成感が、心の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。
安堵したのも束の間、彼らの目の前に、新たな人影が現れた。それは、旅の商人風の身なりをした、胡散臭い笑みを浮かべた小柄な男だった。男は、音もなく現れ、まるでずっとそこにいたかのように自然に立っていた。その男からは、獣のような鋭い匂いと、どこか甘ったるい香辛料の匂いが混じった、奇妙な体臭がした。その存在感は、先ほどのモンスターとは質の違う、得体の知れないプレッシャーを放っていた。
「ほう …… これはこれは。見慣れぬお二人さんですな。あの森喰いの巨蠍から逃げ延びるとは、大した胆力だ。いやはや、素晴らしい。お見事、お見事。して、何か、面白いものでもお持ちかな。それとも、何かお困りかな。このメルカトル、何かお役に立てることがあるやもしれませぬぞ。情報でも、品物でも、何なりと」
男の目は、値踏みするように二人を見ている。その視線は、先ほどのモンスターとはまた違う、じっとりとした不快感を伴っていた。まるで、獲物を見つけた蛇のような、冷たい光を宿している。
樹と莉緒奈は顔を見合わせた。どうやら、この異世界アウリオンでの試練は、まだ始まったばかりのようだ。そして、この世界で生き抜くためには、力だけでなく、知恵と、そして「交渉術」が必要になるのかもしれない。商人を目指す、という言葉が、ふと樹の頭をよぎった。この男は敵か、味方か。それを見極めることから、彼らの本当の冒険が始まるのかもしれない。樹は、ゴクリと唾を飲み込み、目の前の男を見据えた。ここが、新しい自分になるための、最初の試練場なのかもしれない。