第二章 古書斎の呼び声
インターホンのチャイムが、思考を遮るように鳴り響き、軽い、しかしどこか慌ただしい足音が近づいてくる。
「イツキ、莉緒奈ちゃん来たわよー。なんだか今日は一段と元気みたいね」母の明るい声が、リビングから飛んできた。
「おう、今行く」
樹がリビングへ降りると、案の定、莉緒奈が母相手に何かの武勇伝(大抵は彼女の早とちりや失敗談なのだが)を身振り手振りで熱く語っているところだった。
「それでね、おばさま。そこの角を曲がったら、猫が飛び出してきて、私、避けようと思ったら、そのまま電柱にゴンって。もう、おでこにタンコブできちゃったかと思ったわよ」
「ごめん、お邪魔してるわ、樹君。ちょっと聞いてよ、今日の私、すごくない。電柱と友達になっちゃった」莉緒奈は、樹の顔を見るなり、悪戯っぽい笑みを浮かべた。彼女の周りだけ、空気が華やぎ、温度が数度上がるような気がする。その太陽のような明るさが、樹の心の影を少しだけ薄くしてくれた。
「別に。どうせまた何かドジったんだろ。それより、お前、頭大丈夫か。電柱と友達って……。さあ、行くか。じいちゃんの書斎、今日は本気で片付けるぞ。例の箱、ちょっと見てみたいんだ」
「あらあら、若い二人はお勉強熱心で感心ねえ。でも、たまにはちゃんと休憩もするのよ。イツキ、あんまり根を詰めすぎちゃ駄目よ」母が微笑ましそうに見送る。その笑顔に、樹は少しだけ罪悪感を覚えた。母は、樹が抱える苦悩など、露ほども知らないのだから。
祖父の書斎は、母屋の離れにあった。重厚な樫の扉を開けると、カビと古い紙の匂いが鼻孔をくすぐる。それは、二人にとって慣れ親しんだ、知的好奇心を刺激する香りだった。壁一面に作り付けられた本棚には、洋書和書を問わず、ぎっしりと本が詰まっている。その多くは、歴史や民俗学に関するものだが、中には明らかに異質な、およそこの世のものとは思えない装丁の本も紛れ込んでいた。その一冊一冊が、樹にとっては異世界への扉のように感じられた。
「さて、今日はどこから手をつけようかしらね。前回、あの変な記号だらけの石板、あれ、何かわかったの」莉緒奈は、腕まくりをしながら、埃をかぶった分厚い魔導書めいた一冊を手に取った。「それとも、この前の続き、第七詩篇の解読、進んだ。あの文字、見てるだけで頭痛くなりそうだけど」
「ああ、それが……」樹は、古びた木製の机にノートを広げた。そこには、解読を試みる異世界の文字がびっしりと書き込まれている。「やっぱり、ここの記述がおかしいんだ。どうしても辻褄が合わない。まるで、わざと読者を混乱させているみたいだ」
莉緒奈が隣から覗き込む。彼女の長い髪が、樹の肩にかかった。ふわりとシャンプーの甘い香りがして、樹は少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。この香りは、いつも樹を現実の嫌なことから少しだけ引き離してくれる。
「どれどれ。うーん、確かに。他の文献だと、マナの流れが逆になっているわね。これじゃあ、召喚どころか暴発するわよ、きっと。危ない危ない。こんなトラップ、誰が仕掛けたのかしらね」莉緒奈が細い指でノートの一箇所を叩いた。その真剣な横顔は、普段の快活な彼女とはまた違う魅力がある。樹は、莉緒奈のこういう鋭い一面を知っていた。
「本当だ。写本のミスかな。それとも、何か意図があるのか……わざと間違った情報を流しているとか。この書斎にあるものは、ただの古い書物ではない。何か、とてつもない秘密が隠されているような気がしてならなかったんだ。そして、あの箱……」樹は、先ほど部屋で気になった木箱のことが頭から離れなかった。
彼らは、ごく普通の高校生だった。ただ一つ普通でない点を挙げるとすれば、週末になると、祖父が遺したこの隠れ家のような書斎で、古文書の解読に明け暮れていることくらいだろう。祖父は、民俗学者でありながら、その実、異世界の存在を信じ、生涯をかけてその研究に打ち込んできた変わり者だった。二人は、祖父の遺志を継ぐというほど大袈裟なものではないが、知的好奇心から、その研究を引き継いでいたのだ。現代社会の喧騒から離れ、古の叡智に触れる時間は、二人にとってかけがえのないものだった。樹にとっては、現実の自分から解放される唯一の時間であり、莉緒奈にとっては、持ち前の行動力と好奇心を満たす絶好の冒険だった。しかし、その探求が、彼らを未知の世界へと誘うとは、まだ思いも寄らなかった。
「ねえ、イツキ。さっきから言ってる『あの箱』って、どれのこと」莉緒奈が、本棚の整理をしながら尋ねた。
「ああ、あそこ。一番上の段の奥にある、古いやつだ」
樹が指差した先には、確かに埃をかぶった木箱があった。莉緒奈は器用に本棚を登り、その箱を慎重に取り出す。ずっしりと重く、鍵などはかかっていないようだ。
「これね。確かに、今まであまり気にしたことなかったかも。開けてみる」
「ああ。なんだか、呼ばれているような気がするんだ」
その日も、いつものように古文書と格闘していた。窓の外は、夕闇が迫り、書斎の古い柱時計が重々しく時を刻んでいる。その音は、まるで運命のカウントダウンのように、二人の鼓膜を揺らした。莉緒奈が、木箱の古びた閂をそっと持ち上げる。ギィ、と錆びた金属が軋む音が、静かな書斎に響いた。手に取った瞬間、莉緒奈の指先に、微かな痺れが走った。
「ねえ、イツキ、これ……なんだか、変な感じがする。ただの箱じゃないみたい」莉緒奈の声が、緊張で少し震えている。いつもの彼女らしからぬ、不安げな響きがあった。
「ああ、俺もだ。開けるぞ」樹もその木箱の異様な雰囲気に気づいていた。埃を払い、ゆっくりと蓋を開けると、中には一冊の、黒い革で装丁された古めかしい本が収められていた。表紙には題名もなく、ただ奇妙な紋章が刻印されているだけだった。その紋章は、まるで生きているかのように、微かに脈打っているように見えた。本を開いた瞬間、二人は息を飲んだ。そこに書かれていたのは、彼らが今まで目にしてきたどの文字とも異なる、しかしどこか既視感を覚える美しい文字列だった。それは、まるで生きているかのように微かに光を放ち、周囲の空気を震わせている。文字そのものから、荘厳な音楽が聞こえてくるような感覚だった。
『選ばれし異界の賢者よ。古き盟約に基づき、汝らに道を開かん。我が世界、アウリオンは、深淵より迫り来る混沌の脅威に瀕している。願わくば、その知恵と勇気をもって、我らを救いたまえ』
読み終えたと同時だった。足元の床に、まばゆい光と共に複雑な紋様が浮かび上がる。それは、莉緒奈が先ほどまで頭を悩ませていた魔法陣によく似ていたが、比較にならないほど精緻で強力なものだった。部屋全体が激しく揺れ、本棚から本が雪崩のように落ちてくる。今まで感じたことのない、強大な力が二人を包み込んだ。床がぐらつき、立っているのもやっとだった。
「きゃっ、何これ。地震。でも、光ってる。本が、本が光ってるのよ」莉緒奈が悲鳴に近い声を上げる。
「うわっ、まずい。リナ、こっちだ。手を離すな」樹は莉緒奈の手を掴もうとしたが、それよりも早く、強烈な浮遊感が二人を襲った。まるで、奈落の底へ引きずり込まれるような感覚だった。
書斎の風景が歪み、万華鏡のように回転しながら遠ざかっていく。樹は必死に莉緒奈の手を掴んだ。その指先に、確かな温もりを感じる。この手だけは、絶対に離してはいけない。最後に聞こえたのは、遠雷のような轟音と、空間そのものが裂けるような音、そして、誰かの囁き声だった。その声は、慈愛に満ちているようでもあり、また、冷酷な宣告のようでもあった。
「ウェルカム …… トゥ …… アウリオン …… 」