眠り姫の真実の愛 ~婚約破棄された聖女の隠された力~
「聖女としての資質が足りない」
冷たく響く婚約者の言葉に、私は顔を上げることもできなかった。
王宮の大広間。貴族たちの視線が、まるで針のように私を刺す。幼い頃から聖女候補として育てられた私、エリーゼ・ローレンスは、たった今、婚約を破棄されたのだ。
「エリーゼ・ローレンスに与えられていた聖女候補の称号を剥奪し、明日までに王都を去ることを命じる」
アルフレッド王子の宣告に、広間に集まった貴族たちからどよめきが起こった。誰も私を庇う声をあげない。そう、聖女としての力が弱い私は、もはや彼らにとって価値のない存在なのだ。
「陛下、最近の聖女の力の衰退は王国の脅威です。より強力な聖女候補を探すべきでしょう」
宰相の言葉に、王は重々しく頷いた。その横顔は、かつて私に優しく微笑みかけた婚約者の面影すら感じられない。
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翌日、私は数少ない荷物をまとめ、王都を出た。行き先は祖母が暮らしていたという辺境の小さな町、フォレストヘイブン。その町に着くまでには、少なくとも五日はかかるだろう。
旅の三日目、私は森の中の街道で立ち止まった。頭がくらくらとして、視界がぼやける。ここ数日、なぜか体調が優れない。熱もないのに、体の芯から力が抜けていくような感覚。
「大丈夫かな...」
呟きながら木の幹に寄りかかった私の耳に、不穏な物音が聞こえる。振り返ると、粗末な服を着た男たちが三人、こちらに向かって歩いてきていた。
「お嬢さん、そのネックレス、いただこうか」
恐怖で足がすくみ、逃げることもできない。そのとき—
「これは困った。美しい花に荒くれ者が群がっているようだ」
涼やかな声が背後から聞こえた。振り返ると、見慣れぬ深緑の瞳を持つ男性が立っていた。彼の手には薬草の入った籠。
「おっと、薬師さんじゃないか。俺たちに用はないだろう」
男たちは一瞬躊躇し、そして去っていった。
「大丈夫ですか?」
男性は私に近づき、心配そうに問いかけた。その瞬間、私の意識は闇に落ちていった。
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目を覚ますと、そこは小さな小屋の中だった。天井には乾燥した薬草の束が吊るされ、甘く苦い香りが鼻をくすぐる。木のベッドに横たわる私の額に、冷たい布が置かれていた。
「ああ、目が覚めましたか」
先ほどの深緑の瞳を持つ男性が、暖炉の前から立ち上がり、私のもとへ歩み寄る。
「ここは...?」
「私の小屋です。フォレストヘイブンの外れにある薬師の家です。私はライル」
彼は優しく微笑んだ。その仕草に、なぜか安心感を覚える。
「私はエリーゼ・ローレンス。助けていただき、ありがとうございます」
「いえ、当然のことです。それにしても...」
ライルは私の顔をじっと見つめ、少し考え込むような表情を浮かべた。
「あなたの体は通常の疲労とは違う消耗をしています。何か特別な力を使ったのではありませんか?」
その質問に、私は首を振った。聖女としての私の「光の癒し」は微弱すぎて、王子に婚約を破棄されるほどだったのだ。力など、ほとんど持ち合わせていないはずだった。
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フォレストヘイブンは、私が想像していたよりも暖かな村だった。ライルの紹介で、祖母の旧友であるマーサばあさんが私を迎え入れてくれ、小さな家を提供してくれた。
「あなたのおばあさまは、この村の宝のような方でした」とマーサは言う。「いつも体は弱かったけれど、触れるものすべてに優しさを与える人だった」
私は祖母の話を聞きながら、王都での生活を忘れようと努めた。毎日、ライルの薬草集めを手伝い、彼の調合の技術を学んだ。不思議なことに、私が触れた薬草は効能が増すようで、ライルはそのことに強い関心を示した。
ある日、村の子どもが高熱を出して寝込んだ。ライルが処方した薬も効かず、両親は心配そうに子どものそばを離れなかった。
「何かできることはありませんか?」と私はライルに尋ねた。
彼は少し考え込み、「試してみたいことがあります」と言った。彼の指示で、私は子どもの額に手を置いた。不思議な感覚。まるで熱が私の手を通して体内に流れ込んでくるようだった。
その夜、私は高熱に見舞われた。夢うつつの中で、私は王宮の広間や森の中、そして知らない場所を彷徨い続けた。朝になると熱は下がっていたが、体には重だるさが残った。
「子どもの熱が下がった」とライルが訪ねてきて告げた。彼の目には、驚きと何か別の感情が浮かんでいた。
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それから、私とライルは多くの時間を共に過ごした。彼は村の薬師というだけでなく、広い知識を持ち、さまざまな国の医学や薬草について詳しく教えてくれた。彼の話す言葉には、王都で学んだような教養が感じられた。
ある晩、二人で夕食を取りながら、ライルは突然質問をした。
「エリーゼ、どうして王都を離れたのですか?」
静かな問いかけに、私は自分が聖女候補だったこと、そしてアルフレッド王子との婚約が破棄されたことを話した。言葉にするのは辛かったが、ライルに隠し事をしたくない気持ちが強かった。
「聖女の力が弱いと言われたんですね」
彼の言葉は同情ではなく、何か別の意図を持っているように感じられた。
その夜遅く、村に王都からの使者が到着した。リヴァリア王国で謎の疫病が発生し、多くの人が倒れているというニュースだった。アルフレッド王子も重篤な状態だという。
使者の話を聞いた翌日、村でも同じ症状の患者が現れ始めた。最初は一人、そして二人、三人と増えていく。ライルは昼夜を問わず患者たちを診療し、私も彼を手伝った。しかし、薬を飲ませても効果はなく、患者たちの状態は悪化する一方だった。
力尽きて私の家に戻ったある夜、扉を叩く音がした。開けると、疲れた表情のライルが立っていた。
「話があります」
彼の真剣な眼差しに、私は頷き、彼を招き入れた。
「実は私は、ただの薬師ではありません」
ライルの告白が始まった。彼は隣国グレンツの第二王子で、医術と薬学を学ぶために身分を隠して各地を旅していたのだという。
「そして、エリーゼ。あなたの力は『光の癒し』ではないんです」
彼の言葉に、私は息を飲んだ。
「あなたの力は『癒しの眠り』。触れた相手の病や傷を自分が引き受け、眠ることで浄化する特別な力です」
ライルの説明によれば、私が村の子どもに触れた後に高熱を出したのは、その力が発動したからだという。祖母も同じ力を持ち、多くの人を救った後、若くして亡くなったらしい。
「聖女の伝統的な『光の癒し』とは異なる力を持つあなたは、王都では理解されなかった。でも、あなたの力は非常に貴重なもので、同時に危険でもあるのです」
ライルの話を聞き、私はようやく自分の体調不良の理由を理解した。知らず知らずのうちに、私は力を使い、他者の痛みを引き受けていたのだ。
「今、王国中に広がっている疫病は、従来の聖女の力では癒せないものです。でも、あなたなら...」
ライルの言葉は途切れた。彼が言わんとすることは明らかだった。私なら疫病を癒せるかもしれない。しかし、あまりにも多くの人を一度に治そうとすれば、私は長い眠りに落ちるか、最悪の場合、命を落とすかもしれない。
「私を追放した王都を救うべきか...」
その夜、私は眠れなかった。窓から見える月を見つめながら、自分の運命について考えた。
翌朝、私はライルに告げた。
「王都へ行きます。私は聖女として、人々を救いたい」
ライルは反対したが、私の決意は揺るがなかった。
「なら、私も共に行きます」
彼の言葉に、心が温かくなるのを感じた。
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王都への旅は緊張の連続だった。リヴァリアの首都に近づくにつれ、街道には病人を運ぶ馬車や、悲嘆に暮れる家族の姿が増えていった。五日かけて、私たちは王都の城門に到着した。
かつて私が暮らした宮殿は、今や医務室と化していた。廊下には担架が並び、うめき声が響く。私たちが現れると、侍医長が驚いた表情を見せた。
「エリーゼ様...お戻りになられたのですか」
「私が力になれることがあれば」
侍医長は私とライルを大広間へと案内した。そこには多くの患者が横たわり、その中央には...アルフレッド王子の姿があった。彼の顔は蒼白で、かつての凛々しさはなかった。
私たちの姿に気づいた王は、弱々しく手を挙げた。
「エリーゼ...戻ってきたのか」
その声には、かつての冷酷さはなく、疲労と後悔が滲んでいた。
私は王の前に跪き、「陛下、私に力が残されているなら、皆様のお役に立ちたいと思います」と告げた。
ライルが私の腕を掴み、小声で言った。「一度にすべての人を治そうとしてはいけません。あなたの体が持ちません」
私は彼に微笑みかけた。「ありがとう、ライル。あなたは私を本当の私として見てくれた最初の人...でも、これが私の使命なんです」
大広間の中央に立ち、私は深呼吸をした。そして、一人一人の患者に触れて回り始めた。最初は侍女たち、次に貴族たち、そして一般市民たち。触れるたびに、熱や痛みが私の体内に流れ込む感覚。体が徐々に重くなり、視界が狭まっていく。
最後に、私はアルフレッド王子のもとへ。彼の額に手を置いた瞬間、激しい痛みが全身を駆け巡った。膝から崩れ落ちそうになる私を、ライルが支えた。
「もういい、エリーゼ!これ以上は危険だ」
彼の懸命な訴えも、もはや遠くに聞こえる。私の意識は徐々に薄れていく。
「ライル...あなたに出会えて幸せだった...」
最後に見たのは、涙を浮かべた彼の深緑の瞳だった。
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私は眠り続けた。暗闇の底で、ただ漂うように。時折、遠くから聞こえてくる声や物音が、私の閉ざされた世界に小さな波紋を広げる。回復した人々の喜びの声、王国が救われたという知らせ、そして何よりも—毎日欠かさず聞こえてくる、一人の男性の声。
最初は「もうすぐ目覚めるはず」と希望に満ちていた声が、やがて「必ず治療法を見つける」という決意に変わり、そして「どんなに時間がかかっても」という誓いへと変化していった。
私の眠りの世界では、季節も年月も意味をなさない。でも、その声だけは変わらず私を呼び続けた。時に疲れた声音になっても、決して途絶えることはなかった。
どれほどの時が過ぎたのだろう。
ある日、私の閉ざされた世界に新しい感覚が生まれた。かすかな温もり。そして耳元で囁くような声。
「エリーゼ、ついに見つけました。あなたを目覚めさせる方法を」
その声は以前よりも低く、落ち着いていた。しかし、私を呼ぶ情熱は変わらない。
「二十年かかりました。でも、あきらめなかった。僕はあなたの力ではなく、あなた自身を愛しているから」
二十年。その言葉の重みが、私の意識の底に沈み込む。
私の眠りの間、彼は私を目覚めさせるため研究を続けていたのだ。そしてついに、彼は「癒しの眠り」を解く方法を見つけ出した。
温かい液体が私の唇に触れる。それは彼が開発した特別な薬。飲み込む感覚すらないまま、その薬が私の体内に広がっていく。そして—
「エリーゼ、戻ってきてください。あなたの居場所はここです」
温かいものが私の頬に落ちた。涙だろうか。二十年分の想いが込められた涙。私は懸命に目を開こうとした。長い間動かしていなかった筋肉が、ゆっくりと目を開く指令に応える。光が少しずつ見え始める。
そして、ぼんやりとした視界の中に、愛おしい顔が浮かび上がった。若々しい面影は残っているものの、少し老いた顔。深緑の瞳には智慧の輝きが加わり、額には思索の跡のような皺が刻まれていた。
「ラ...イル...」
音を発していない喉から、かすれた声がこぼれる。
私の声に、彼の顔に光が灯った。
「エリーゼ!本当に...本当に目覚めたんですね!」
彼は私を抱きしめ、涙を流した。二十年の歳月が刻んだ彼の背中は、以前より広く、そして確かな強さを感じさせた。
部屋には見知らぬ若い男性と、老いたアルフレッド王も立っていた。王は杖をつきながら、一歩前に出て深く頭を下げた。
「エリーゼ、本当に申し訳なかった。私が愚かだった。」
彼の言葉に、私は微笑もうとした。顔の筋肉はぎこちなく動いたが、それでも心からの笑顔を向けることができた。
「二十年...長い時間が過ぎたのですね」
後に私は知った。私が眠っている間、リヴァリア王国の疫病は完全に消え去り、私は「永遠の眠り姫」として人々に崇められるようになったこと。アルフレッド王は私への感謝の意を示すため、フォレストヘイブン村を「聖域」として公認し、研究施設を建てる支援をしたこと。
そして何より、ライルは医術と魔法を組み合わせた新しい学問を創始し、二十年もの間、毎日研究を続け、私の側に居てくれたこと。彼は王子としての立場すら投げうって、私を目覚めさせることだけを生きる目的としていたのだ。
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目覚めてから一年が過ぎ、初夏の陽光がフォレストヘイブンの森を黄金色に染めていた。研究所の裏庭に作られた薬草園で、私は若い弟子たちに囲まれながら、ゆっくりと植物に触れていた。二十年の眠りで弱った体は、まだ完全には回復していない。
「エリーゼ先生、この薬草はどのように調合すれば効果が増すのでしょうか?」
若い弟子の質問に答えながら、私は遠くで黙々と働くライルの姿を目に留めた。四十代半ばとなった彼の髪には、わずかに白いものが混じり始めている。それでも、私を見つめる深緑の瞳の輝きは、二十年前と少しも変わらなかった。
「今日はもう十分です。休息を取ってください」
弟子たちを送り出した後、ライルが私のそばに座った。彼は手に持っていた木彫りの小箱を差し出した。
「エリーゼ、これを」
開けると中には一輪の青い花と、シンプルな銀の指輪が入っていた。
「二十年前、あなたが眠りについた翌日に買ったものです。あなたが目覚めたら、必ず渡そうと」
私は言葉を失った。彼はどれほどの思いで私の目覚めを待ち続けたのだろう。彼が生み出した「癒しの眠りを解く薬」は、今や多くの命を救う希望となっていた。彼は私のために人生の大半を捧げ、そして新たな医術をこの世界にもたらしたのだ。
「ライル...」
言葉にならない感情が、胸の奥からあふれ出す。二十年の歳月を超えて、永遠の眠りから目覚めさせてくれた彼への感謝と愛。
「弟子たちも自立し始めていますし...もしよろしければ、正式に妻になってくれませんか。」
彼の声には、若い頃の恥じらいは消え、落ち着いた確信が満ちていた。
「はい。喜んで」
私は彼の手を両手で包んだ。かつての婚約破棄の記憶は、もはや遠い昔のことのように感じられる。
現在の私たちの研究所には、リヴァリア王国だけでなく、隣国グレンツからも患者が訪れるようになった。ライルの開発した薬と、私の「癒しの眠り」を組み合わせた治療法は、これまで治せなかった多くの病を癒すことができる。私たちは互いの力を補い合いながら、多くの命を救っていた。
「記憶の片隅で、あなたの声を聞いていました」と私は静かに告げた。「二十年もの間、毎日毎日...」
彼は微笑み、少し照れたように目を伏せた。
「あなたに毎日話しかけることが、私の日課でした。研究の進捗を報告し、村の様子を伝え...そして、いつか必ず目覚めさせることを誓いました」
夕暮れの光が二人を包み、遠くからは弟子たちの笑い声が聞こえてくる。二十年という時は、私たちから多くのものを奪ったけれど、同時に新しい可能性も与えてくれた。
かつて婚約破棄された聖女は、長い眠りを経て、真の愛と新たな使命を見出した。そして、彼女を決して見捨てなかった一人の男性との絆は、時を超えて深まっていった。
今、私たちの物語は新しい章を迎えようとしていた。未来は、二十年前とは違う希望に満ちている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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