コーヒー・ハウスの仏頂面もニマニマする時はあるだろう
――18世紀中頃、ロンドン、パル・マル街
産業革命前夜ではあるが、革命の下準備はすでに整っていた。その一つに塩化アンモニウムの生産がある。
市街地のいたるところで捨てられた動物の死骸を燃やして得た煤から塩化アンモニウムを得る方法が確立され、塩化アンモニウムの供給は農業の生産性向上をもたらした。
動物の死骸は塩化アンモニウムの原料となるため回収され、結果として都市部の衛生環境が改善された。
動物の死骸を使った塩化アンモニウムの生産は、農村部から都市部への人口流入の呼び水となり、ロンドンに集まった労働力は産業革命の下地となった。
都市部に人が集まることで生まれたのは産業革命だけではない。新たな娯楽も生まれた。
その一つにコーヒー・ハウスがある。
イングランド最初のコーヒー・ハウスはオクスフォードで生まれ、ロンドンにできたのは1652年頃とされる。
当初はそれほど人気があったとも言えないが、数年かけてコーヒーは二日酔いに効くとか薬になるとかで評判になると、コーヒー・ハウスは増えに増え、18世紀初頭にはロンドン市内に2000軒を超え、18世紀中頃には3000軒あったとも言われる。
それだけ数が増えれば各店が生き残りをかけて違いを出そうと必死になり、店ごとの特色が生まれるのは必然だった。
コーヒー・ハウス激戦区の一つ、パル・マル街に店を構えるブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスもやはり少し変わっていた。
「アンナ、毎日言っているが今日も言わなきゃならん。その仏頂面はやめるんだ。もっと愛想よくしておくれ。客が最初に見るのはお前さんの顔なんだ」
店の入口で木戸番を務めるアンナと呼ばれた女は、仏頂面という店主の言葉を通りこし、全くの無表情だった。愛想どころじゃない。
何かに興味を示しているわけではなく、生きる喜びを噛みしめるわけでもなく、ただ時間が流れていくのを黙って待っている、そんな顔をしている。
つまり死んだ魚のような目をしている。
「私の顔を売っている店ではないでしょう、コーヒー・ハウスっていうのは」
店主に向かって悪びれもせず、へりくだることもなく、当然表情も変えずにアンナは言った。
「客は店の居心地がいいのか、入口に座るポートレスの顔を見て判断するんだ。頼んだぞ」
毎日同じことを言っているせいか、アンナの変化に期待していないのか、店主の男はそれ以上厳しいことは言わずに、大きな体を揺するように歩き、自分の仕事へと戻った。
アンナは鼻から深く息を吸ってため息を付いた。
(コーヒー・ハウスを居心地で決める客なんて、どうせ一人もいないでしょうに。みんな、おしゃべりするために来るんだから。私が笑顔を見せるよりも、店の中でどんな話題で盛り上がっているか看板に書いておいた方がずっといいのに)
コーヒー・ハウスはどの店も女性従業員は木戸番、ポートレスだけ。客は男性のみと決まっていて、女性客もいない。
つまり、ブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスの店内で唯一の女性がアンナだが、それでもアンナ目的の客なんて一人もいなかった。
なにもアンナに魅力がないからではない。女のケツを追いかけてコーヒー・ハウスに通う男は誰一人としていない。というのも、コーヒー・ハウスは男性が会話を、もしくは議論を交わすために集まる店なのだ。
ポートレスが会話や議論に加わることはない。どこのコーヒー・ハウスでも、それは一貫している。
アンナが考えるように、いくら微笑んだところで増える客はせいぜい数人だろう。
ならば、愛想を振りまいて頬の肉を疲れさせるよりは自分のペースでやらせてもらおう、そう考えるのがアンナだった。
入口のドアがギギィっと鳴り、わずかに開いた。
「1ペンスです」
アンナは客の姿も確かめようともせず、即座に言った。やる気はないが、必要最低限の仕事を放棄することはない。
慎重に入ってきたのはいかにも場馴れしていない男だった。
年はまだ30手前だろう。すらりと長身で、身なりは整っている。装いから庶民ではなく、中流から上流階級であることは間違いない。貴族であっても驚きはしない。
コーヒー・ハウスという場所は庶民から貴族までやってくるのだ。
「ここはブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスで間違いないか」
眼光の鋭い男だった。声は低く、まるで聖職者のように誰かを諭すかのような調子だ。
しかし、木戸番を務めるポートレスのアンナは、質問されても無視するとあらかじめ決め込んでいたかのように、何も言わなかった。
ただ、さっきまでの死んだ魚のような目が一変した。ガっと目を見開き、瞳孔に光が灯り、ギラギラと輝かせた。
アンナが勢いよく立ちがったかと思うと、次の瞬間、まるで男の頬に情熱的なキスをするかのように顔を寄せた。
鼻をヒクヒク動かしながら、頬と頬をこすり合わせる猫のように頭を上下させ、男の匂いを間近で嗅いだ。
「な、なにをする!」
店の中にも関わらず一切の恥じらいも見せず、若い女が顔をすぐそばまで寄せ、客の男は慣れていないのか、体を硬直させ、顔を真っ赤にした。
一方のアンナは男の反応を気にすることなく、爛々と目を輝かせ夢中でヒクヒクと鼻を動かした。
「いい反応です。発汗と体温の上昇でさらに香りが立ってきました」
そう言うと、アンナは再び鼻先がくっつきそうなくらい男の頬に顔を寄せに匂いを嗅いだ。
「ま、待て、私はそんなつもりは」
男の声は震えていた。
「なるほど。それにしても珍しい香水……、ローズ、ラベンダー、ジャスミン、それにローズマリー。ローズの華やかな香りの中にも強く清廉な印象を与えてくれる香水ですね。あと、わずかな動物由来の香り。恐らく、これは……」
ほとんど一息で言ったが、そこで止まった。不可解そうに首を傾げると、またしても男の頬に顔を寄せ、鼻から大きく深く息を吸った。
何が起きているのかもわからず、男はされるがまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「これはカストリウムですね。誘引剤として猟に使うものですが、香水に使うのはまだ珍しい。比較的若い調香師か。この革に似た香りが加わることで、フローラルな優雅さだけでなく、意思を示すような力強さが表現されています」
満足したのか、ようやくアンナは男の頬から顔を離し、椅子に戻った。
「あれ、でも少し違和感が……。あれ、なんだろう」
首を傾げながら、一人でブツブツと言う。
男は乱れてもいないがシャツの襟を直して、気分を落ち着けてから言った。
「すまない、ここはブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスでいいのか?」
「そんなのは外の看板を見てください」
考え事を邪魔された腹いせに客の男に強く言うと、お構いなしと独り言のようにブツブツとつぶやいた。
「それよりも、どこか違和感が残る香水です。これほどの調合なのに、どこか違和感が、あぁムズムズする」
アンナはまだ首を傾げていた。
「看板を見ろと言われても、外のバラの色がすっかり落ちている。待ち合わせをしているんだ。あの看板では青なのか白なのかさっぱりわからない。もしかしたら赤かもしれない。赤では困る」
時間と共に男は本来の調子を取り戻し、声の震えは止まり、服装に見合う威厳を感じさせる堂々たる声音だった。
「毎日のように聞かれますよ。表の看板のバラは青いことがあったのかと。残念ならが、私も青いバラなんて見たことがありません。1ペニーです」
一方のアンナの声は心ここにあらずといった調子だが、それでもここがブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスであることを認めた。
アンナの仕事は店の入口に座り、本来なら通りかかった男に笑顔をふりまき、入ってくる男から1ペニーの木戸銭、入場料を徴収することだった。
コーヒー・ハウスの店内に入るために1ペニー。当然、飲み物は別料金となる。コーヒーやココアはそれぞれ1ペニー。コーヒー・ハウスでは酒は出さないから、2ペンスあればコーヒー・ハウスを楽しめる。
当時の安酒、ジンは一杯3ペンスか4ペンスだったことを考えると、タバーンで飲むよりも、コーヒー・ハウスはずっと安上がりだった。
それに長居ができた。
どのコーヒー・ハウスでも、身分も気にせず誰彼構わず話しかけては何時間でも議論をする、そんな光景が見られる。
「それよりも、その香水です。あ、ちょっと待って!」
香水にこだわる木戸番のアンナを無視して男はゆっくりと店の奥へと進んだ。
店内には大きなテーブルとベンチ、テーブルの上には回し読みに供されるいくつもの新聞や雑誌が無造作に置かれている。
ベンチに座る男たちは、あれこれととりとめのない議論に興じていた。これはどのコーヒー・ハウスにもつきものだ。
大きな数学の本を開いて言い争う二人の男が見えた。その向こうには貴族が一人でタバコをくゆらせている。
もちろん、ゆっくりとコーヒーを味わう者もいる。
目的の男はすぐに見つかった。その男は新聞に目を通していたが、すぐに気配に気が付き、ベンチから立ち上がり挨拶をして上流階級の男を迎え入れる。
「お待ちしておりました、サー・アーチボルド」
「おはよう、ブラックウッド。それにしても、なんなんだあいつは」
初めてのブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスに戸惑う男の名はサー・アーチボルド・フェアファクス。シティ・オブ・ロンドンに28人いる治安判事の一人だ。
コーヒー・ハウスで治安判事を待っていたもう一人の男はジョナサン・ブラックウッド。コンスタブルとして、治安判事の補佐を行っている。
治安判事とコンスタブルというのは、日本の時代劇でいえば、町奉行と与力に近い。例えるなら、長谷川平蔵と部下の佐嶋の関係にあたる。
与力の下で働くのを岡っ引きと呼ぶが、これはウォッチマンが相当する。
「ああ、アンナですか。コーヒー・ハウスのポートレスといえば店内にいる唯一の女性。いわば看板娘。どの店もポートレスは客に愛想よくするものですけど、あいつはそうじゃない。仏頂面で1ペンス取ったでしょう」
まるでギャンブルに負けた不運を嘆くかのようにブラックウッドは言った。
「ただ、どういうわけか、匂いにだけは大変な興味を持つのです」
アーチボルドが店の入口に目を向けると、さっきまでのギラギラと輝かせたアンナの目は一転して小さくしぼみ、つまらな顔でコーヒー・ハウスに入ってくる男から1ペンスを徴収している。
「ご覧の通り顔は悪くありません。気を引こうと香水をつけたり、珍しいタバコを持ってくる物好きもおりますが、肝心のアンナの方は男にはまるで関心がないのです。香水やらタバコは興味を持つのですが、それ以外にはまるで興味を示さない。全くです」
「コーヒー・ハウスのポートレスといえば店に唯一の女性。男がコーヒー・ハウスに入り浸れば家で待つご婦人方は心配する。しかし、アンナがどれだけ愛想が悪いのか知れば不満の種もきれいに消えてなくなる。あれでも、多少は便利なのものですよ」
「なるほど」
治安判事の声に不満の色はなかったが、かといって満足しているという様子でもない。
未婚の治安判事には、アンナの無愛想が便利に働くことはない。それよりも香水の成分をあっさりと見抜いたことに驚かされた。
香水の成分を嗅ぎ分ける人間がいるなんて思ってもいなかった。
眼の前でコーヒーを啜るブラックウッドなどは、治安判事が香水を使っていることにすら気がついていない様子だというのに。
もっとも、18世紀のロンドンは匂いが多すぎた。悪臭に満ちていた。悪臭で有名なパリほどではないが、都市化が進むロンドンも悪臭に苦しんでいた。
周囲に立ち込める悪臭に追いやられて、香水の香りが鼻まで届かない。
ブラックウッドだけでなく、治安判事も香水の匂いに気がつくのか自信はなかった。
「すみません、コーヒー・ハウスは他に心当たりがないものでして。パル・マル街にもコーヒー・ハウスは無数にございますが、このブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウス以外はよく知らないのです。ここなら判事殿が示した条件を満たしています。アンナですか?」
コンスタブルとして働くブラックウッドは治安判事の目の動きを見逃さなかった。
「ご安心ください。アンナは匂いの他に興味がありませんので、口外するようなこともありません。中には噂話好きの口の軽いポートレスもいますが、アンナなら大丈夫です」
治安判事が気にしていたのはそれじゃなかった。入口でアンナが顔を寄せてきたことだ。
思い出すと、また顔が火照ってくるのがわかった。
幸い、店に入ってきた時、ブラックウッドは新聞を読んでいたものだから、入口でアンナが恥ずかしげもなく顔を寄せてきたことを見ていない。
治安判事とコンスタブルは打ち合わせや報告にコーヒー・ハウスを利用していたが、当時これは珍しいことではなかった。
中には店を持つ資金が貯まるまではコーヒー・ハウスを事務所代わりに利用する者までいた。
「でも、どうしていつもとは違う、別の店がよかったのですか?」
ロンドン市内にコーヒー・ハウスは無数にあるが、行きつけの店を2、3決めているのが普通で、ふらりと立ち寄るものではない。
「被害者は貴族の長男ながら熱心なホイッグ支持者だったといういうじゃないか。ホイッグが集まるコーヒー・ハウスでは、私たちの話が聞かれると面倒になるかもしれない。どうも、そんな気がしてな。ここは政治色が薄いのだろ?」
イギリスは二大政党で有名だが、18世紀には既に保守のトーリー、革新のホイッグの2つの政党に分かれていた。
そして、コーヒー・ハウスもトーリー支持者が集まる店、ホイッグ支持者が集まる店と棲み分けをしていた。コーヒー・ハウスに議論はつきものだが、無用な言い争いは避けていたからだ。
「既に判事殿もお気づきのことと思われますが、このコーヒー・ハウスは政治の話題はあまり出てきませんので、その点では適しているかと」
ブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスの喧騒から聞こえてくるのは政治の話題はほとんどなく、演劇のスケジュール、パブリックスクールの教師の適正、投資詐欺、それに婦人の噂話と多岐にわたっている。
貴族もいれば、上流階級、庶民もいる。
「でも、むしろ情報が得られるのではありませんか。被害者は伯爵家の長男殿ですから順当に跡を継げば貴族院です。それでもホイッグの活動にかなり熱を入れていたようですから、界隈では有名だったでしょう。ホイッグが出入りするコーヒー・ハウスなら被害者の仲間がみつかるかもしれません。当日の足取りなどをたどることもできるでしょう」
「まあ、そうなのだが……」
治安判事は若さに見合った生気に満ちた顔を曇らせた。
「どうもあの香りが慣れなくてな」
「香りというと、長男殿が出入りしていたコーヒー・ハウスの香りのことですか?」
「香を炊いていただろう、東洋の。松のような杉のような香りがする、独特のあの香りだ」
「店に集まるホイッグ支持者が好んでいると聞きました。店だけでなく、持ち物にもあの匂いをつけとか」
「団結の証のようなものだろう。ホイッグにしろトーリーにしろ、話し込む前にどちらを支持しているのか知っておきたいからな。不要な衝突を避けるために」
「もしかして判事殿はホイッグ支持者どうしの争いに巻き込まれたとお考えなのでしょうか? 物取りに見せた怨恨による殺人」
「もちろん、可能性はあるだろう」
「貴族でありながらホイッグを支持していることでトーリー支持者に恨まれて、そんな可能性もあるでしょうか」
「もちろんだ」
「だとすれば、ホイッグとトーリーの間でいざこざになるかもしれませんな。いつものコーヒー・ハウスを避けたのは賢明なご判断です。まるで気が付きませんでした」
コーヒー・ハウスの中には支持政党をめぐり、排他的な店もあった。特に上流階級、貴族が多く集まる店にその傾向が強く、そういった店は次第に会員制となり、コーヒー・ハウスとは別に、クラブ・ハウスと呼ばれるようになる。
クラブ・ハウスほど排他的ではなくても、政治を巡る喧嘩を避けるために、ホイッグもトーリーもお互いを避けるのが暗黙のルールである。
ホイッグ支持者とトーリー支持者はそれほどの、いわゆる犬猿の仲であった。
ホイッグ支持者の、しかも貴族の死となれば、それが抗争となり新たな事件の引き金になり得る。
事件解決をしようとして新たな事件を起こすようでは治安判事を続けることは難しい。
「ただ……」
「ただ?」
「なんと言えばいいかな、どうも違和感があるんだ」
「違和感といいますと、どのような」
「それが、はっきりと言い表すことができないのだが。何か見落としているような、不安とでも言えばいいのか。ただ私の経験からは、この事件がそれほど素直なものとは思えないのだ。曖昧ですまない」
「とんでもありません。経験に勝るものはございません」
「ありがとう。だが、私の経験が常に正しいとも言えない。まずは、もう一度事件を整理してみよう」
「そうですね。違和感の正体を見つけましょう」
男の遺体が見つかったのは4日前の夜のことだった。
ドゥルリー・レーンにある路地で見つかった遺体は衣服が乱れていた。明らかに乱されていた。身なりは貴族だが、帽子や手袋やステッキなどの装飾品、当然、時計や貴金属などもなく、誰が見ても物取りの犯行と断言するだろう。
おかげで、身元を特定するのには苦労した。名前が刺繍されているもの、掘られたものは一つも残っていなかったせいだ。
ただ一つ、所持品の香水瓶にはイニシャルが刻まれていた。しかし、イニシャルだけでは身元の特定が難しい。
捜査が進んだのは遺体発見から2日後だった。遺体は兄かもしれないという伯爵家の次男、ヘンリー・マシューズ殿が現れた。
輸入貿易商のもとで修行中の次男殿は、5日前に兄のエドワード・マシューズ殿と会う約束があったという。しかし、その兄は現れず、シティ・ハウスにも戻らないため、知人などを頼りに探し回るうちに、遺体の話を聞きつけ、ウォッチマンのもとに現れた。
次男殿は埋葬前の遺体を検分し、体の特徴から兄で間違いないと泣き崩れた。他にも、遺体が着ていたシャツは自身の仕立てたもので間違いないと、伯爵家御用達の仕立て屋が証言した。
当然、名前は香水瓶のイニシャルとも合致する。
以上のことから、遺体は伯爵の長男、エドワード・マシューズ殿であることは間違いないように思えた。
「判事殿、違和感の正体は見つかりましたでしょうか?」
ブラックウッドの問いかけに一言も発することなく、アーチボルドは歯を食いしばり口をへの字にして、自身が持った違和感が何に由来するのか探っているが、まるで何も出てこない。
ただ、漠然と噛み合わないような感覚が残るだけだ。
「違和感と言えば、遺体発見現場周辺を聞いて周りましたが、目撃者はおりません。それどころか『悲鳴が聞こえた』そのような声すらございません」
「遺体の状態から考えると、争ったようには見えなかったな」
「その通りです」
「目撃者がいないことを考えると、行きずりの物取りではないか。犯人は以前から被害者に目を付けていたか。別の場所で殺害されたあと、馬車から落とされた可能性は?」
「『大きな物音がした』そのような証言もございませんが、馬車から落としたくらいでは、さして音も大きくはないでしょう。私もウォッチマンと共にかなり聞いて周りましたが、音に関する重要な証言はまるでなく、奇妙といえば奇妙ではあります」
「それでは盗難品は見つかったか?」
「いえ、それがまだ何一つ見つかっておりません。時計などは遺族の謝礼を目当てに、売りに出さないつもりかもしれません」
「第二のジョナサン・ワイルドか」
「その通りです。だとしても、衣類やステッキなどは売りに出てもよさそうなもので」
「盗品の売買は取り締まりが厳しくなったからな。故買も簡単には見つからないか」
「目撃情報もなし、盗品の行方も手がかりがない。犯人を追うのはずいぶん骨が折れそうですね」
被害者が伯爵家の長男であることを考えると、犯人を捕まえないわけにはいかない。しかし事件をおさらいすると、その難しさが改めて明確となり、二人は思わずため息をついていた。
「よろしいですか?」
「どうした、さすがのアンナも判事殿には興味があるのか」
アンナが声をかけたことに驚いたブラックウッドだが、皮肉っぽく返す。
「はい!」
アンナは皮肉に気の利いたことを返すわけもなく、ただギラギラと目を輝かせている。
「はい!? アンナ、まさかお前が男に興味を持つなんて」
「ブラックウッドさんは何を言ってるんですか。私が興味があるのは、このひとの香水です。香水の違和感です。その正体がわかりました」
「本当か!?」
今度驚いたのはアーチボルドだった。
「はい。欠けていたんですよ。香水にはシダーウッドが欠けています。シダーウッドを加えた方が、もっといい香りになるのに」
「アンナ、お前は一体なんの話をしているんだ」
「シダーウッドは松や杉、広葉樹の香りを指しています」
「だからアンナ、どうして広葉樹が出てくるんだ」
「ブラックウッド、香水だよ。今日は被害者が所持していた例の香水を使ってみたんだ。違和感の正体が何かわかるかもしれない、ヒントが得られないかと考えて」
「なるほど、そうでしたか。私など香水はさっぱりで、全く気がついておりませんでした。それでは判事様が言われた違和感の正体は香水にあったということですか」
「いや、残念だが私の違和感とは違うようだ。香水が気になっていたわけではないから」
「そんなことありません! その香水は明らかにおかしいです」
「アンナ、お前は匂いのことになるといつもそうだ。私たちは仕事なんだ。お前も仕事に戻るんだ」
「ブラックウッド、そう言うな。事件とは直接関係なくとも、何かのヒントにはなるかもしれない。聞かせてくれないか。どうして君は香水が明らかにおかしいと言えるのか、その理由を」
「香水の持ち主はロシアンレザーの手袋を使っていたのではありませんか?」
「確かに次男殿は手袋がなくなっていると話されておりました。ただ、アンナ、それと香水がどう関係するというのだ」
「貴族ならロシアンレザーの手袋を使っていたかもしれないが……ロシアンレザーか」
ブラックウッドはまだ気がついていないが、治安判事のアーチボルトは香水と手袋、そして貴族の長男との関係に気が付きはじめていた。
「あの判事殿、ロシアンレザーというのは」
ブラックウッドの問いにアンナが答えた。
「ロシアンレザーというのは、ロシアで作られたトナカイの皮をなめしたものです。革を均して平坦にする作業の際に、格子状の模様をつけるの特徴です」
「そうじゃない、アンナ。どうしてロシアンレザーと香水が結びつくのだ」
「ロシアンレザーの特徴はもう一つあります。革特有の匂いを消すために、シダーウッドを使ってなめすのです。革の匂いを覆い隠すため、シダーウッド、針葉樹独特の香りがついています」
「また匂いか。だから、どうしてロシアンレザーだと言うのだ。ロシア以外でも革をなめすだろう。革にも匂いはある」
「だって、ロシアンレザーはシダーウッドが欠けた香水との相性がいいと思いませんか!」
「相性がいい?」
「手袋のある・なしで香水の印象が変わるんですよ。手袋をしている時はパーフェクトな匂い、ですが手袋を外している時は何かが欠けたような物足りない匂い。一つの香水で二通りに楽しめるのですよ。最高じゃないですか」
「だから香水にはシダーウッドが欠けていたというのか。確かに、貴族ならそのような遊びをするかもしれないな」
「中々の洒落者に違いありません! 是非お会いしてみたいです」
「あの、治安判事殿。シダーウッドの香りというのは、被害者が通っていたコーヒー・ハウスの例の匂いなのですか?」
「ああ、ホイッグの仲間内で証としていた香りだ。それなのに、香水にそれを抜いていたというのは引っかかる」
「アンナ、事件のことについて他に何か疑問はあるか?」
アンナの口出しによって、バラバラだった事件の鍵が少しずつまとまりを見せたことをブラックウッドもようやく認めた。
「事件っていうのは何のことです? 私はその人が拾った香水のことを話しているだけですよ」
アンナは香りにしか興味がないと言うが、治安判事はアンナの言葉を一言一句聞き逃さなかった。
アンナの言葉にサー・アーチボルドの眉がピクリと動いたが、ブラックウッドはそれに気が付かなかった。
「ブラックウッド、例の次男殿にロシアンレザーで作られた手袋だったのか確認してもらえないか?」
「かしこまりました。では、さっそく」
そう言うと、コンスタブルのブラックウッドは素早く立ち上がったが、テーブルから離れなかった。いや、動けなかった。
入口に見知った顔、ウォッチマンのスレイドを認めたからだ。
しかも、向こうは急いできたようで、息を切らしながら治安判事のいるテーブルまですぐにやってきた。
「治安判事殿、コンスタブル殿、報告したいことがあります。例の遺体ですが、身元がわかりました」
「なに、遺体の身元だと!? 身元は伯爵家の長男殿と判明したではないか。スレイドも聞いているだろ」
治安判事の命令、手袋の確認に向かいたいブラックウッドは不満を隠そうともせず、眉尻をぐっと上げた。
ウォッチマンのスレイドは報告内容に自信があるのだろう。上司といえるブラックウッドの不満に屈せずに続ける。
「コンスタブル殿、まちがありません。あの遺体は別人です。イズリントンのフィールドストリートに住むジョン・スミスという男で間違いありません。次男殿は恐らく気が動転して見間違われたのでしょう」
「別人? しかも貴族ですらないというのか。つまり一体、どういうことだ?」
「スレイド、詳しく教えてくれないか」
「はい。今朝のことです。行方がわからないという男の話しを耳に入れまして、詳しく聞いたのです。その男を特徴を聞いたところ、先日の遺体にある特徴的な足の傷と一致しました。もちろん遺体を見せたわけではありません。足の傷以外にも、顔つきや背格好、他の特徴も複数の証言が完全に一致しました。誰一人嘘をついているようにも見えませんでしたし、証言に偽りはないでしょう」
「遺体は一つしか見つかっていないんだぞ。一体、どういうことだ」
「行方不明ではあるが、亡くなってはいない。そんな可能性は考えられないか?」
治安判事は伯爵家の長男はまだ在命である可能性を指摘したが、コンスタブルは確認するように、再び事件の状況証拠を挙げる。
「でも、伯爵家の次男殿が兄の遺体を見間違えるなんてことがあるでしょうか? それに遺体が着ていたシャツは長男殿のもので間違いないと証言を得ています」
「あの、その香水、この方が奪ったわけではないのですよね」
またしてもアンナだ。
「判事殿に失礼だぞ、アンナ。香水は物取りの被害者が所持していたものだ」
「物取りの被害者が持っていた? おかしくありませんか」
「おかしい? どこがだ。物取りだって全部を持っていくわけじゃない」
「いえ、物取りなら香水を奪わないなんておかしいですよね、私なら真っ先に奪います。香水に名前は入れられませんから」
「それかアンナが匂うものが好きだからだろう。それに、瓶にはイニシャルが刻まれていた。そんなものを持っていれば犯人だとわかる」
ブラックウッドも自分の主張が次第にほころびを見せていることに気がついていたが、相手が木戸番のアンナだと思うと、どうにも引き下がれなかった。
「別の瓶に入れ替えて、瓶はテムズ川に投げ捨てれば見つからないでしょう。調香師がわかればともかく、香水だけで足はつきません。それに、他に奪われたものはイニシャルや名前が刻まれていなかったのですか?」
既製品、レディメイドという言葉が生まれたのは20世紀。18世紀にそれはない。
貴族のものでなくとも衣類は仕立てるものであり、そこにイニシャルや名前を刻むのが当然の時代だ。
その中にあって、イニシャルも名前も刻めない香水こそ盗人の足がつきにくい。
「アンナ、お前が匂いにばかり気にするからだ」
それでもブラックウッドはアンナに負けじと言いすがる。
「いえ、香水そのものは安くありません。むしろ瓶よりも中身の方がずっと高価です。物取りには格好の獲物でしょう」
当時、化学的に大量合成可能な香料は存在しなかった。
香料は大量の植物から抽出した貴重品であり高価だった。
「しかしだな……」
「待てブラックウッド。物取りなら香水を奪わないのは確かにおかしい。そもそも香水を持ち歩いていたことも疑問がある」
「そうです。奪われなかったのではなく、まるで捨てたように思えます。貴族なら高価なものを捨てる時もあるのでしょう。なんとも、もったいない」
「捨てるか……」
アンナの指摘に治安判事はなにやら納得した様子を見せた。
「でも、消えたロシアンレザーの手袋は捨てきれずに今でも使われているんでしょう、私だったら手袋とシダーウッドの香水を合わせます」
「シダーウッドの香りは捨てられないか」
アンナの主張を受け入れた治安判事は二人に命じた。
「スレイド。ブラックウッド、君たちはロシアンレザーの手袋を使っている男を探してくれ。きっとシダーウッドの香りがついている。ホイッグが集まるコーヒー・ハウスを虱潰しだ」
「承知いたいしました」
コンスタブルはウォッチマンを連れ、足早にコーヒー・ハウスから出ていった。
「アンナといったな、どうして今でもシダーウッドの香水を使っていると思ったんだ」
「私ならシダーウッドを選ぶと言っただけです」
「いや、君の目を見ればわかる。その目は確信している」
若さゆえの実直な治安判事の目に見つめられ、アンナもはぐらかすようなことはしなかった。
「そうですね。いくら別人になろうと思っても、あれだけこだわった香水を使っている人が一切の香水を手放せるとは思えません。香りは癖になるんです」
「君のようにか」
アンナは否定しなかった。
「シダーウッド中心の香水なら比較的安価、ロシアンレザーの手袋との相性もいい、フローラル系の高価な香水は思い出とともに捨てても、シダーウッドの香水を愛用すると思います。その香水を使っていたのなら」
「最初から犯人は被害者だと思われた伯爵の長男殿だと、君は見抜いていたのか?」
「そこまではわかりません、その方が殺したのか、別の方が殺したのか、はたまた最初から死んでいたのか」
「なるほど、聡明な答えだ。それでも遺体が伯爵の長男のものではないとわかっていたのだろ」
「貴族院ではなく庶民院の議員であり続けるために身分を捨てたい、私には全く奇妙に思える話ですが、政治に疎いこのコーヒー・ハウスでもよく聞こえてくる話です」
「ホイッグ支持の長男殿は世襲爵位を捨てるため死亡したことにしたかった、そういうことか。長男殿が亡くなれば爵位を世襲できる次男殿との利害も一致する。だとすれば、私の力が及ぶ範囲を超えているな」
サー・アーチボルドは深いため息をつき、口元を歪ませた。
準男爵である治安判事が、格上となる伯爵家の長男と次男の企みを裁くなど、当時は到底できることではない。
「それでは私は仕事に戻ります」
アンナは自身の推理をそれ以上開陳することもなく、ただ事務的に言った。
「待て、客は来ていないではないか。私はもう一つ聞きたいことがある。教えて欲しい」
アンナは一度木戸を確認すると、面倒そうな態度をあからさまにした。
「わかりましたよ。それでは次の客が来るまでなら」
「私が使った香水を君は『拾った香水』と言ったな。どうして私の香水だと思わなかったのだ」
実直な治安判事の顔を見てから、バツが悪そうにアンナは頭をかいた。
「怒らないでください。その香水は似合っていません」
「でも、それだけじゃないな」
治安判事という職業ゆえだろう、嘘を見透かすような鋭い目で見つめられ、アンナは思わずため息をついてから答えた。
「あのですね、香水を顔につける方は珍しい。珍しいというよりも、全く香水を知らない人くらいです。それなのに、使っている香水はわざとシダーウッドを抜いた、いわば洒落者専用。慣れていない人が使う香水とは、とても思えません。あなたの香水でないのなら、拾ってきた香水と考えるのが自然でしょう」
「顔を赤くすると体温が上がり香りが立つので、顔に香水をつけるのも案外悪くないのかもしれません」
まるで挑発するような、からかうような声音だった。
「ただ、ご自身が香りに酔ってしまいますから次からは別の場所にした方がいいかと」
アンナが店の入口で顔を寄せてきたのは香水を嗅ぐためだったが、顔を赤らめさせようと必要以上に近づけて来たのかもしれない。アンナは最初からそこまで考えて行動していたのかもしれない。
アーチボルドはそんなことを考えていた。
「それでは、私に似合う香水とはどのようなものがある」
まるでアーチボルドの質問を遮るように、男が一人、コーヒー・ハウスに入ってきた。数学の話しをするのが好きな常連客だ。
「客が来ました。私は仕事に戻らせてもらいます」
客が来るまでと言った手前、治安判事はそれ以上引き止めることはしなかった。
「その前に、もう一度だけ嗅がせてください」
治安判事の返事を待たずに、アンナはお互いの頬と頬が接触するくらいに顔を寄せて、鼻から大きく息を吸った。
治安判事はまた顔を赤くする。一気に体温が上がり、顔につけた香水の香りがさらに立つ。アンナはそれを喜び恍惚の顔を見せた。
間近でそれを見た治安判事の体温はさらに上がる。
「では」
あっさりと木戸番の仕事に戻ったアンナの顔は、いつの間にか死んだ魚の目に戻っていたが、治安判事の体温はいつまでも下がらなかった。
・・・
「アンナ、毎日言っているが今日も言わなきゃならん。俺が言いたいこと、わかってるよな」
大柄な店主は背中を丸めているせいで、どこか申し訳無さそうに見える。一方のアンナは相変わらずだ。店主の言葉を気にする様子はまるでない。
「私がいくら仏頂面をしたところで毎日来る客は毎日来ますし、ご覧の通り
楽しそうにおしゃべりをしているではありませんか」
「毎日来てくれる客はいいんだよ。初めて来てくれた客くらいは愛想よく笑顔で迎えておくれ。そうすれば、また次も来てくれるかもしれないんだから」
「私が笑ったところで、それを目当てにする客なんていませんよ」
「頼んだよ」
店主は大きな体を揺らして仕事へと戻っていった。
(まったく、毎日毎日。作った笑顔になんの価値があるのやら)
ギギィとドアが開くと同時にアンナが言う。
「1ペンスになります」
客が治安判事のサー・アーチボルドだと気がついても、アンナの仏頂面は相変わらずだ。
その一方で、治安判事は随分と変わった。
ブルー・ローズツリー・コーヒー・ハウスに入る足取りがすっかり堂に入っている。最初に店に入った時、アンナに顔を寄せられ真っ赤になったのがまるで嘘のように。
「ポートレス、君の意見を聞かせてくれないか」
「1ペンスです」
「昨日のことなんだ、アンナ。貿易商のもとに強盗が押し入った。それも白昼堂々とだ」
「1ペンス」
もはや仏頂面すら見せたくないののか、アンナは治安判事から顔をそむけて請求する。
「わかったわかった。今度、とっておきの香木を持ってくるから。だから君の意見を聞かせて欲しい」
香木と聞くやアンナは目をガっと見開き、瞳孔をギラギラと輝かせた。
「香木!? どこの香木ですか、中国ですか、インドですか? 白檀? 沈香? どんな香木ですか!!」
「残念ながら、その香木は盗まれてしまった。でも君も嗅いでみたいだろ。探すのを手伝って欲しい」
「早く行きましょう! 」
まるで盗まれた香木を既に見つけたかように、既にアンナは鼻をヒクヒクと鳴らして、自然と口角を上げ、期待を膨らませている。