二度目まして、旦那さま。わたしがあなたの花嫁です。
彼のひとは憶えていないかもしれない。
けれど、それでもよかったのだ。お傍に侍ることができるのであれば、気づかれなかったとしてもかまわない。
だが拒まれるのは想定外で、エリュシアは断固抗議することにした。
「なぜですか。これは国が定めた婚姻です。覆すなどもってのほか」
「なぜと問うか、その形で」
「このすがたが好ましくないとおっしゃいますか。なれどこればかりはわたくしのせいではなく、体にかんしては発展途上ということで、ご寛恕いただければさいわいにぞんじます」
言っているうちにくちがまわらなくなってきたが、なんとか懸命に言い張る。すると相手はますます眉根を寄せた。
切れ長の赤い瞳をすがめてこちらを見やる。彼の意識にすこしでも留まることができる。とてつもない高揚感だ。うれしい。
薄い唇が開く。白く尖った歯が覗く。低音の声がエリュシアの耳を打つ。
「発展途上と申すか」
「はい。なにしろわたくしまだ七歳でして」
「……そなた、我の年齢を知っているのか」
「もちろんでございます。ヴァルラムさまは果て無き御代を生きる御方。数千歳とも数億歳とも囁かれておりますよね」
亜人族は長寿だ。なかでも竜人の場合は人間の数千倍は生きるとされる。亜人族の長であるヴァルラムの名と姿は、人間が暮らす世界でもっとも古い書物にも登場しており、正確な年齢は計り知れない。
知識のひけらかしにならないように気を使いつつ、それでも『貴方のことは知ってますよ』とさりげなくアピール。
感心してくれるかと思えば、またも盛大に眉をひそめられた。
ああ、あの眉がセクシー。
エリュシアは彼の表情の中でも、あの顔がとびきり好きだ。哀しげに下げられるより、ずっといい。
眼光が鋭いゆえに、睨まれていると感じるひとが多いらしいが、エリュシアは気にならない。むしろ大歓迎。だって彼が自分を意識した証拠だから。
「年齢差のことをおっしゃっているのであれば、どうぞお気になさらず。そもそもわたくしと陛下のあいだにはじめから存在しているものです。だからこそ、こうして馳せ参じたわけでございます」
「言っている意味がわからんのだが」
「若ければ若いほど、ともに過ごせる時間が増えるではありませんか。さあ陛下、わたくしと結婚してくださいませ」
「ガキは帰れ」
◇
帰れと言われたけれど、こうして客室へ案内してくれたのだから、心の底から拒否しているわけではないのだと、エリュシアは信じることにした。
(まずは城に潜り込めたわけだし、まだまだこれからよ)
内心で鼓舞し、拳を握る。
我ながら小さい手だ。しかし、エリュシアが過去を思い出したのは三歳のときである。そのころと比べたら、今は存分に成長したといえるだろう。
エリュシアには過去の記憶がある。
正確には、前世の記憶だ。
ざっと数百年前。亜人族と人間族は対立しており、表向きには『友好を深めよう』という風潮があった。王族同士が話し合いを持ち、人間の国から亜人の国へ誰かが嫁ぐことになった。
亜人側は、長である竜人族の頭目、ヴァルラム・デル・ヴァルキュリアン。
そして人間側は若き王女が嫁ぐ予定であったが、彼女は恐怖に慄き、これを拒否。しかし国家間の取り決めを反故にすることはできず、代理として立てられたのが、王女と似た色合いの髪と瞳を持っていた十七歳のエルラ――かつてのエリュシアである。
エルラは聖女として神殿で働く孤児だった。ヒトであってヒトとは異なる不思議なちからを持っていることで、一部の層には畏怖の対象となっており、この機会に厄介払いをしつつ、あわよくば亜人の王を斃してくれるのではないかという、まあそういった意味での人選でもあったと思っている。
捨て鉢な気持ちで向かった先で出会ったヴァルラムは、人間でいうと十代の後半に見える美青年だった。
襟足の長い黒髪は、やや浅黒い肌によく似合っている。ルビーのような赤い瞳だが、縦に割れた瞳孔には黄金色の虹彩が散っていて、それ自体が宝石のよう。痩せっぽちのエルラをすっぽり隠してしまうぐらいの体躯だが、噂で聞いていたような残虐な雰囲気はどこにもなく、逆に気遣われた。
ああ、そうだ。かつての彼もまた、自分に「帰れ」と言ったのだ。
勇気をもってくちにした「はじめまして、旦那さま。貴方の花嫁です」という挨拶に対する返事がそれだった。贄のように連れてこられた娘に同情してくれていた。
しかしエルラにとって、己を取り巻く環境は決してよいものではなく、ヴァルラムたちのほうがよほど優しく感じられた。切々と窮状を訴え、「無理に返したところで立場が悪くなるだけ」と納得してもらい居場所を得た。
閨をともにすることはなかったけれど、それでも妻として隣に置いてくれた。家族を知らなかったエルラは、ただそれだけで幸せだった。
しかし故国は、いつまでも亜人の王を弑することのないエルラにしびれをきらし、軍を従えて侵攻。「やはりおまえは人間ではなく亜人の一味だったのか」と糾弾された。
諍いの末、ヴァルラムを庇ったエルラは、故国の戦士に殺されたのである。
歴史書によれば、あの戦いは『一部の層による暴走』とされており、国が主導したものではなかったということになっていた。
嫁いだのは聖女ではなく王女で、暴徒たちは自国の王女を取り戻そうとしたということになっている。しかし竜人が王女を深く愛していたため、人間たちの暴走はきつく咎められることはなかった。
とはいえ何もなかったことにはできず、二国は不干渉を貫くことになったという。
さて現世である。
エルラの記憶を持ったエリュシアは王女だ。一応、その身分である。
前置きをつけてしまうのは、エリュシアは妾の子ですらなく、王が避暑地で戯れに手をつけてしまったゆえに生まれた、下働きの娘だからだ。エリュシアの母は見目だけは大層よかったらしい。
らしいと推測するのは、会ったことがないから。
物心ついたころにはすでに引き離されており、母の顔を知らないのだ。
母だと思っていたのが乳母で、彼女とも引き離されたのが三歳のころ。
隠されて育ったエリュシアをどうにかして見つけだした王妃によってすべてが暴露され、「卑しい血の混じった娘」と罵られたときに前世を思い出した。同じようなことをよく言われていたからだというのは、我が事ながら哀しい。
かつての生を思い出したおかげで、己を取り巻く環境は容易に理解できた。女の嫉妬は恐ろしいものであるし、男の自己顕示欲もまた恐ろしいものだ。
エリュシアはそれらを適当に受け流しつつ、己の立ち位置を模索した。
その結果『正妻にいびられる、実の親とも引き離されてしまった可哀そうな幼女』というポジションを確立し、王族として扱われないにしても、最低限の衣食住は保たれた環境を手に入れたのである。
公務がないため時間だけは無駄にあり、前世と今世の補完に努める。そのなかで知ったのが、前述した歴史だ。
エルラはいなかったことになっているし、亜人国との国交も断絶している。結界が張られ、往来すらできない状態だったが、近年になってその結界が緩んできた。
王は親書を送る。
ざっくばらんに言えば、『ご機嫌いかが、そろそろ仲良くしませんか?』といったやつで、過去に果たせなかった友好をいまこそ結びたいと申し出たという。
その理由は、我が国の経済状況が思わしくなく、他所の大国に攻められそうで困っているからだ。竜人さま、助けてくれない? というわけである。
ずいぶんと虫のいい話だなあとエリュシアは思った。
だが、これはチャンスだとも思った。
あのときと同じことをするのであれば、姫が嫁ぐことになるだろう。どうやらヴァルラム王は伴侶がいないらしいので、俗物的思考の上層部は『女をあてがっておけ』と考えるに違いない。
エリュシアの異母姉たちは気位が高い。大国の王子ならともかく、未開の地である亜人の王なぞ「勘弁して」となるのは容易に想像がつく。
そこでエリュシアだ。自分が志願すれば丸く収まる。
王妃たちは厄介払いできてうれしい。エリュシアはふたたび彼に会えてうれしい。言うことなし。
ということで、エリュシアは花嫁としてやって来たわけだが、まさか拒まれるとは。
これでも待ったのだ。五歳の幼女を妻として差し出すのは、さすがに外聞が悪いと考えたらしく、七歳になるまでは待たされたのだ。よく我慢したものだと思う。
ひさしぶりに見たヴァルラムは、記憶にある姿からは若干年齢を重ねていたけれど、それが逆に魅力的に映った。
精悍さが増しており、よくもまあ独身でいたものだと感心と感謝だ。あのころも、婚姻には後ろ向きな独身主義だったが、今も変わっていないらしい。
「ですから、姫さまを妻となさることはないのではないかと。……まあ、年齢的な問題もありますが」
ぼそりと付け加えつつエリュシアに言ったのは、ヴァルラムの側近・アルラン。アッシュグレイの長髪をひとつにまとめている、眼鏡の向こうに深緑色の瞳を湛えた優男。
彼は人間との混血らしく、エルラの時代から「人間国との交渉役」として顔を見る機会が多かった。嫁いできたエルラの護衛もしてくれた。
懐かしさもあり仲良くしたいのだが、あちらはそうではないようで。我儘な幼女を持て余しているといった態度を隠そうともしていない。
エリュシアが志願したというのは伝わっているらしく、こちらに嫁いできたのも「我儘」と捉えている。そのうち飽きて、帰りたいと駄々をこねるのを待っているのだろう。
そうはいかない。エリュシアはもう一度彼に会えるのを待っていたのだ。せっかくこうして会えたのに、帰ってなんてやるものか。
「男性にとって、幼妻は浪漫ではないのですか?」
「……どこでそんな言葉を」
「あなどらないでくださいませ。母がわたくしを身ごもったのは、十三歳だったそうです。わたくしは七歳ですので、あと六年ですね。それなりに育つのではないかと思います」
「そんな特殊な例を出されましても」
「神殿長も、入ったばかりの巫女の少女を部屋に呼んで、『神の御心をお伝えしましょう』ってやりますし、神官たちも『神の思し召し』を実行して幼い巫女に『教育的指導』を――」
「あなたの国、ちょっとおかしくありません? ま、まさかとは思いますが、姫君は、その」
「御安心くださいな。身綺麗でございますわ」
少なくとも今世は。
後ろ盾のないエルラがどんな目にあっていたのか。憶えているからこそ、エリュシアは自分の居場所を確立したのだ。
メイド頭の女性を味方につけたおかげで、男女両方の理不尽はある程度避けることができた。メイド頭の夫は騎士団長だったので、男性陣はエリュシアに手出しすることもなく、安心して過ごすことができたのである。
「陛下はべつに女嫌いというわけではないのでしょう? 婚姻の話を頭ごなしに断ったりはしていないようですし」
「それはまあ、国政といいますか」
「政略的結婚、おおいに結構。その恩恵でわたくしはここにいるわけですし」
「ものすごく疑問なのですが、なぜそこまでうちの陛下にこだわられるので? 姫君はとても可愛らしいですし、数年も経てば評判の美姫となりますでしょう」
「まあ、アルランさまのお好みに合致しまして?」
「わ、私のことはどうでもよろしい。つまり、亜人国へ嫁がずともお相手はたくさんいるのでは、ということです」
褒められたことがうれしくて、つい身を乗り出して訊いてみると、アルランはいつになく動揺を見せた。
普段は取り澄ました態度を崩さない『陛下の側近の顔』が剥がれたことがおもしろかったが、あまりからかうのもよくはないだろう。姿勢を正し、エリュシアは事実を告げる。
「ですがわたくし、国王の血を引いているだけの下っ端なので、国にいたところで、お相手なんて見つかりませんもの」
「……しかし、こちらへ嫁ぐとしても急く必要もないでしょう。年齢を重ねてからでも遅くは」
遠回しに「だから子どもは帰れ」と言われたが、その数年が命取り。
「いやです。待っているあいだにライバルが現れたらどうするのですか。陛下はあんなに素敵なのですから、わたくしが認めない嫁などダメです」
「妻を通り越して、母親になってませんかあなた」
「陛下を甘やかしたいと思っているのですが、これが母心というやつですか。わたくし、母を知らないのでよくわからなかったのですが、なるほど、そうなのですね」
「ちーがーうー」
アルランが頭を抱えて唸った。「どうしてくれよう、このガキ」と毒づいた声は聞かなかったことにしてあげよう。
◇
晩餐というには質素な食卓。給仕の男が控えるなか、ヴァルラムと向かい合って座った。座高が違いすぎて目が合わないが、合ったところであちらから声をかけてくることはないだろう。
黒髪の陛下は必要以上のことはくちにしない。クールで無口なのだ。そういうところもたまらなく好きだ。
「御招待ありがとうございます。素敵な食事会になるとよいですね!」
「亜人の食事に抵抗はないと?」
皮肉げに唇を歪めて訊ねられたが、エリュシアは首を傾げて問い返す。
「国が変われば食事も変わりますよね。風土によって使う食材も違いますし、味付けも変わります。わたくしの周囲には多様な人材が配置されておりまして、各自が自分たちの地方料理を振舞う食事会は、いろいろと盛り上がりましたよ」
エリュシアの住む場所は閑職とされ、身分の低い者が多かった。地方から出稼ぎに来ている者も多く、情報収集にも役立ったものだ。
「陛下の国では、わたくしたちの住む大陸から食材を仕入れておりますよね。僻地の村を介しておりますが、交易が盛んであると聞いております。王宮で珍味と持て囃されているものが、実は亜人国から仕入れたものだと知れば、上位貴族はどう思うのでしょうね」
亜人族を、野蛮人だと揶揄する者はたしかに多い。偏見もあることだろう。
だが、王族であって王族ではないエリュシアは、それに当てはまらない。
「むしろ、こんなふうな見た目に仕上げるだなんて、陛下お抱えの料理人は優秀ですね。これなんて、とてもグロテスクです。本当の目玉っぽくて、逆に食べてみたくなります。どんなお味なのでしょう」
「……おまえ、変わってるな」
「お褒めいただき光栄ですわ!」
「褒めてねえ」
言葉のあとに舌打ちが漏れた。壁際に控えていた給仕が噴出した音が聞こえた。ヴァルラムは彼を睨み、エリュシアは笑う。
つつがなく食事は終わり、エリュシアはヴァルラムに伴われて庭へ出た。
記憶のとおりであれば、ここから歩いた先に小さな四阿がある。ぐるりと周辺をまわったあとに向かえば、頃合いを見計らってお茶の準備をしてくれているのが、エルラ時代の常だった。ヴァルラムは何も言わないけれど、おそらくその心づもりなのだろう。
こちらの足に合わせて、ゆっくりゆっくりと歩きながら、それでも引き離しそうになって時折立ち止まるさまが愛おしい。胸があたたかくなる。
「陛下はやはりお優しいですね。さっきのメニューは、わたくしが泣いて帰りたくなるように仕向けていらっしゃったのでしょうが、逆効果というやつですわ」
「逆効果だと?」
「わたくし、岩にかじりついてでも帰りませんことよ」
「それはつまり、自国には頼れぬ事情があるということなのか」
ヴァルラムの声が変わった。
戸惑いと憂い。
心配してくれていることが伝わってくる。
「いいえ。追い返されたとしても、受け入れてくれる余地はあると思います」
怖かったら帰ってきていいんだぞ。
騎士団長はそう言ってくれた。子に恵まれなかったという彼ら夫婦は、エリュシアを娘のように扱ってくれていた。酔った団長が「うちの娘」発言をしていることを、周囲の者は知っている。
エルラだったころと違い、エリュシアには小さな幸せというものがある。
かつて彼は、エルラの状況に心を痛めてくれて、人間の娘を憐れんでくれた。彼の「人間観」というものを歪めてしまった自覚があるので、エリュシアは伝えたいのだ。
「わたくし、たしかに生まれには若干の問題がございますが」
「若干」
「はい。でも、幸せです」
強く言い切る。
赤い瞳を見上げて、力強く訴える。
「ですから陛下、もうお気になさらないでくださいませ」
「なんのことだ」
「陛下はかつて人間の娘を妻としたことがありますよね。いえ、べつにわたくし、陛下がバツイチであることは気にしておりませんのよ、ええ本当に」
だってそれは自分だから。
その言葉は飲み込んで、エリュシアは続ける。
「城内を歩きまわって、使用人の方々から話を聞きました。皆さま、陛下についてくわしく教えてくださいました。陛下はかつての妻を想い、ずっと独身を貫いているのだとおっしゃっていました。彼女を深く愛しておられた――」
「そ、それは……」
「ということにしてあるのですよね!」
「――は?」
エルラに対するヴァルラムの気持ちが、決して男女のそれではなかったことを、誰よりも知っているのはエリュシアだ。
当時の彼は人間を知らなかった。
エルラが亜人と接したことがなかったように、ヴァルラムもまた人間と接する機会がなく、互いに異文化交流をはかっていた要素のほうが強かったと思う。
もちろん、優しくしてくれたことにより、エルラ自身はヴァルラムに好意は持っていたけれど、はたしてそれが恋や愛なのか。劣悪な環境で育ったエルラにとって、自身の気持ちが友情なのか恋情なのか、わからなかったのだ。
ただ、うれしかった。
彼の役に立とうと思った。
自主的にそんな気持ちになったはじめての相手。
だからエルラは故国の戦士が向けた刃に立ち向かい、ヴァルラムを庇って死んだのだ。
「わたくし、あなたにお会いしたかったのです。亜人国のことを知ったときから、ずっと」
「残虐な悪魔とされる我に? おまえ、自虐的すぎないか?」
「そう噂されるからこそ、よけいにお会いしたくなりました」
あの優しい彼が変わってしまったとしたら、それはきっとエルラのせいだ。
己を庇って死んでしまった人間の娘。味方であるはずの、同じ国の人間に殺されてしまった憐れな娘に対して、彼は心を痛めたに違いない。
人間に嫌気がさしていて、勝手に送りつけてきた花嫁を殺してしまう可能性だってある。
だけど、それでもエリュシアはこの国へ来ただろう。
自分を受け入れてくれた亜人族と、その王にもう一度会うために。
「御迷惑をおかけしていることは承知しています。これはわたくしの身勝手な想い。たしかに我儘なのでしょう。ですからどうか、使用人として雇っていただければと思います」
「……なにを」
「いろいろできます、たぶん。いささか体が付いていかない部分もありますが」
記憶のなかにあるエルラは、神殿を清めるのも仕事だった。広い神殿をひとりで掃除するだなんて、今思い返してもひどいイビり方だと思う。肌荒れもひどくて、ヴァルラムも驚いていた。
身体的な理由ですべて同じようにはできないと思うけれど、やってやれないことはないから。
「必要ない。子どもは寝ろ」
「寝る。つまり、閨を!?」
「お、おまえは阿呆か。なぜ私がそんな倫理観に欠く真似をっ!」
動揺したのか言葉が乱れたヴァルラム。その背後にある木立が揺れた。
「卑しい血の王よ、死ね」
声が響く。
がさりとした葉音に振り向き、ヴァルラムが呪を纏わせた手刀を放つなか、エリュシアもまた走った。
敵の狙いは陛下――その足下。
エリュシアは両手を広げてヴァルラムの前に立ちはだかった。
真空の刃が枝を切り裂き、しかしそこに賊の姿はないことに目を見張ったヴァルラムだったが、目線をさげたところで、身を屈めた少年に気づいた。唸り声をあげ、苦痛に堪えている。
肩まで伸ばした褐色の髪には見覚えがあった。王の血族のひとり。ヴァルラムを廃しようと躍起になっている集団へ属している少年だ。
襲ってくるのは大人とはかぎらない。
その隙を突かれた形になったが、少年がこうしてうずくまっている理由は。
「おい、おまえ。大丈夫なのか」
ヴァルラムの声に、同じくうずくまっていたエリュシアは顔をあげた。
しかし痛みが走って顔が歪む。
「へいきですわ」
声が震えるが、これは聖女のちからを使ったせいだろう。
未成熟のエリュシアの体では行使不可能な、分不相応な大きさのちからを放ったせいで脱力しているだけで、時間が経てば回復するだろうと思われたが、どうだろう。
自分にかつての『聖女』と同じちからがあるらしいとわかってはいたが、周囲にひとがいる場所では使うわけにもいかず、エリュシアとしては生まれてはじめて行使した。一気に放出すると死ぬ可能性があるとかつては言い聞かされていたけれど、それが事実だとしたらエリュシアの寿命は危ないのかもしれない。
「まあ、あなたに会うという目的は果たせましたし、いま、この命が尽きたとしても本望というもの」
「世迷い事を」
「二度あることは三度あるそうです。だからきっとまた会えます」
「ふざけたことを。私のせいでおまえの命が尽きるなど、何度もあってたまるか。なぜ、またも私を庇うような真似をした、エルラ」
膝をつき、顔の高さを合わせてそう言ったヴァルラムに、エリュシアは驚く。
「どうしてその名を?」
「城内を歩きまわるのは誰でもできようが、迷いもせず自室に戻ることができる者は、この城を知っている者だけだ」
賊が庭先で待っていた理由は、城内には不用意に立ち入れないから。
害をなす者を弾く術が掛けられているし、入口と出口が同一ではない。敷居ごとに違う部屋へ転移し、正しい順路を選ばなければ迷ってしまう。
「そうですか、エルラのことを憶えていてくださったのですね」
「忘れるわけがないだろうが」
まあたしかに、あんな死に方だ。忘れようにも忘れられないことは否めない。
申し訳なくて謝罪すると、ヴァルラムは首を振った。
「謝るのは私のほうだろう。あのような目に合わせてしまった」
「もう。そんなふうに思っているかもしれないから、わたしはもう一度会って伝えたかったのですよ」
「なにを……」
どこか泣きそうな顔をしている竜人の男に、エリュシアは告白する。
「ヴァルラムさま――いいえ、アルランさま。わたし、あなたのことが大好きです。死んで、こうして生き返って、やっとわかりました。他の方とは違う特別な『好き』は、あなたにだけ向けられるものだと。ヒトの血が混じった半端者の王であろうと、わたしにとっては一番素敵な王さまです」
『ヴァルラム』が代々の王に引き継がれている名であるということは、人間国には伝わっていない。
黒く長い髪と赤い瞳。
その姿に変じられるのが王の資格。
人間との混血であるアルランであっても、それは変わらない。
彼が、今代の王だ。
だが、血統を大事にするのは人間も亜人も同じらしい。
卑しい血としてアルランには敵が多い。だから普段は元の髪色と眼鏡姿で、王の側近として働いている。城内に暮らす、信用のおける使用人だけが知っている秘密だった。
「はいはいはい、感動の再会はそこまでにして、安全のために城内へお戻りください、お二方」
割って入ってきたのは、給仕服の男。エルラの知識によれば、彼はアルランの友人だ。王の側近という意味では、本来彼こそがその立ち位置にある。
「エルラさま。ご無沙汰しておりますね。アルランはね、あなたがいなくなってからというもの、落ち込むわしょげるわで、それはもう大変でして。もう一度会いたい、会って想いを告げたいと神頼みまでする始末。しかしようやく念願が叶ったようで、俺としても安心ですよ。いやあよかったよかった」
「余計なことを言うなよ」
「はあ? おまえが初恋を拗らせてることなんて、城内のみんな知ってるよ」
「はつこい?」
意外な言葉にエリュシアは耳を疑う。
エルラたちは互いにそんな感情は抱いておらず、エリュシアは時間と距離を置いたことによって、ようやく想いを自覚したのだ。
彼もまた同じだというのだろうか。エルラを失ったあと、抱く想いに気づいたと?
まさかと思ってアルランに目をやると、そこには顔を赤くした男の姿があり、じわじわとあたたかいものが胸に湧きおこる。
「あの、本当ですか、アルランさま。あのとき言ってくださったのも嘘ではないのですよね。評判の美姫になるぐらいかわいいって」
「――おまえ、一度死んで性格が変わってないか?」
「たしかにわたしはかつてエルラでしたが、今はエリュシアですから。……あの、エリュシアのことはお嫌いですか?」
もっと控えめで、儚げなほうが好みなのだろうか。
おずおずと訊ねると、アルランは眉根を寄せる。
知っている。これは彼が困っているときの顔。嫌なほうではなく、うれしいほうの意味で。
だからエリュシアは笑顔で告げる。
「二度目まして、旦那さま。わたしがあなたの花嫁です。ずっとずっと会いたかったのですから、もう帰れなんて言わないでくださいね」
対する彼の返事は抱擁と、耳もとで囁かれた「私も会いたかった」の言葉。
広すぎる背中に小さな手を懸命にまわしながら、エリュシアは幸せを噛みしめる。髪の上からそっと落とされたくちづけも、なんだかくすぐったい。
「では、閨を」
「だからなぜ急くんだおまえは」
「かわいいって言ってくれましたのに」
「それはそれ、これはこれだろう」
「幼妻はお嫌いですか?」
「だから、そういうことを言うものではない」
意外と頑固で潔癖、礼節を持った旦那さまとエリュシアが正式な『夫婦になる』には、それから十年の月日を要したという。
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