プロローグ
——佐野真、38歳。中小企業に勤める、ごく一般的なサラリーマン。
体の節々が痛み始めた今日この頃、おっさんは帰宅するなり爆速でシャワーを済ませ、上はシャツ一枚、下はパンツだけ履いて、大きなヘッドセットを被り横になった。
ダンジョン・オブ・プリズン。通称『ダンプリ』。5年前に発売され、爆発的なヒットで世界的人気を誇るようになった、国産のVRオンラインゲームだ。
これまでゲームや漫画といったものにあまり興味を示してこなかったおっさんは、知人に誘われて始めたこのゲームに熱中している。今では毎日、仕事と家事の時間以外全てを費やすほどの沼っぷりだ。
「……お、もうすぐ終わるのか」
ダンプリにおけるメインストーリー最終章、エンド・オブ・プリズン。その最終ボスに、攻略最前線のプレイヤーたちが挑み始めたというアナウンスが流れる。おっさんはというと、最終ダンジョンで一人、レア装備堀りに勤しんでいた。
「いやぁ、ここまで長かったなぁ……ダンプリのストーリーもここで終わりかぁ……」
サービスが開始してからこの日まで、おっさんが攻略最前線に加わることはなかった。ぎりぎりのところで最新ストーリーには食らいついていたが、やはり、最終ボスの討伐パーティーに加わることはできなかった。
おっさんに悔いはない。それどころか、素晴らしいゲームに出会えたことに感謝していた。
「ま……シーズン2とかあるかもしれないし、装備集めはしておこうか……」
そうして、攻略され尽くした最終ダンジョンを探索しながら、ボス討伐の一報を待つおっさん。一報が流れたのは、おっさんが体力を回復させるために休んでいる時であった。
——ダンジョンボスが討伐されました。繰り返します。ダンジョンボスが討伐されました——
ダンジョンの管理者、ボスが倒されたことを告げるアナウンス。おっさんは腰を上げ、ついてもいない土埃を払うように尻を叩くと、ふと、壁に手をついた。
……がこん
「お?」
「おぉぉぉおおっ!?!?」
おっさんが手をついた壁が、崩れる。壁に体重を預けていたおっさんは、崩れた壁の先に呑み込まれてしまった。
おっさんが辿り着いたのは、これまでに見たことのない、奇妙な部屋だった。上も下も右も左も真っ白な空間に、ぽつりと、小さな丸机が設置されている。
その丸机の上には、ダンプリを起動するためのVRヘッドセットが置かれていた。おっさんはおもむろに手を伸ばすと、ヘッドセットを被る。
「これは……キャラクリ画面?」
おっさんの視界に広がっていたのは、ダンプリのキャラクリ——キャラクタークリエイト画面だった。ゲームを初めて起動した時に、ゲーム内での自分の容姿を設定するためのものだ。
そこには、38歳サラリーマンの冴えないおっさんである佐野真ではなく、25歳前後のイケメン男子、モコの姿が表示されていた。ゲーム内だけでも若くありたいという、おっさんの醜い欲望が生み出した姿である。
「キャラクリのやり直し……? そんなの聞いたことないけどなぁ……」
今まで聞いたこともないような光景に、おっさんは困惑した。そして、困惑しながらも、眼前に広がるキャラクリ画面のおかしな点を見つけた。
「あれ、これ……性別も身長も弄れるのか?」
ダンプリ……というよりも、こういった大きく体を動かすVRゲームでは、現実の肉体とゲーム内の肉体のズレを生じさせないために、性別や一定以上の肉体の調整が出来なくなっていることが殆どだ。おっさんで言えば、性別は男、身長は現実の180センチからプラスマイナス3センチまでが許容範囲。それ以上には変更できないようになっている。
しかし、今おっさんの目の前にあるキャラクリ画面では、それ以上の身長の変更や、性別の変更までもが可能となっている。これは普通ではない。
「バグか……? そうとしか考えられないな……」
試しに、おっさんは現実の自分とは対極となる存在を作ってみることにした。性別は女、身長は140センチ、年齢は10歳前後。金色の髪に大きな青い瞳と、まるで西洋人形のような顔立ち。そして、幼い女の子のような可愛らしい声。
弄っているうちに段々楽しくなってきたのか、おっさんはアニメに出てくるような美少女を作り出すことに夢中になっていた。
「……はぁ、はぁ……何してんだ、俺は……?」
そして、ふと冷静になって、指を止める。バグの検証という当初の目的をすっかり忘れていたおっさんは、自分と対極の存在である美少女を作り出すことに熱中していた。
「全く……これが反映されるなら、ダンプリはネカマの巣窟になっちまうな……」
おっさんはキャラクリを終了し、反映ボタンを押した。ほんの軽い気持ちで。
——全シークエンスが完了しました。チュートリアルを終了します——
「何?」
次の瞬間流れた聞き慣れないアナウンスに、おっさんは耳を疑った。姿は変わらず、25歳のモコのままで、あの白い空間に放り出された。
——繰り返します。全シークエンスが完了しました。チュートリアルを終了します——
再び流れたアナウンスに首を傾げていると、おっさんの体が光の粒子となって散り散りになっていくのが分かった。それは彼のよく知るログアウトの演出であった。
「ボスが討伐されたから、シーズン2でも始まるってことかな……メンテのための強制ログアウトか……」
おっさんはそう解釈した。意識が遠のいていく感覚に身を任せ、現実の肉体に意識が戻って——来ない。
(……?)
いつもなら、ここで現実の肉体で目を覚ますはず。なのに、いつまで経っても目の前が真っ暗なままだった。
かといって、ゲームの肉体が動かせるわけでもない。ログアウトは確実に済んでいる。なのに、何故か現実で目を覚ますことができなかった。
(お、おかしいっ……どうなってる!?)
意識だけの状態でじたばたともがく。けれども何も変わらずに、おっさんは……考えることをやめた。そのうち戻るだろうと、軽い考えで思考を放棄した。
——しばらく時間が経って、おっさんの予想通り、現実へと意識が戻ってくる。ほんの少し痛む頭を押さえながらおっさんは立ち上がると、妙に視界が低くなったことに疑問を覚えつつ、乾いた喉を潤すため冷蔵庫へ向かった。
(……?)
冷蔵庫の扉がやけに高い。それだけではない。キッチンも、洗面所も、何もかもが高くなっている。まるで、世界が大きくなってしまったかのように。
「な、なんだ……?」
驚きのあまり漏れた声に、おっさんは再び驚いた。自分の喉から発されたはずの声なのに、妙に甲高くて、そして、女の子のような声だったからだ。
おっさんはすぐさま玄関にある姿見へと向かった。一体何が起こっているのかと、自分の姿を見つめて——そして、目を見開いた。
「……嘘だろ。これ……キャラクリの時の女の子、か……!?」
鏡に映るのは、身長140センチくらいの金髪の女の子。青い瞳に、西洋人形のような顔立ち。見間違えるはずもなく、あの白い空間でおっさんが作り上げたキャラクターデータだった。
「ちょ、ちょっ……な、何が起こってるんだ……!?」
おっさんは慌ててベッドへ戻り、携帯を探す。救急車を呼ぼうとして、そして手を止めた。一体、救急車を呼んでどうするというのか。
『朝起きたら女の子になっていた。頭を見てくれ』
とでも言うのだろうか。誰が信じるのだろう、そんな話を。
そんな風にあたふたしていると、登録しているニュースのアプリから通知が流れてくる。『突如として現れた謎の構造物とは』という見出しが添えられた記事を開くと、なんだか見覚えのある光景が目に飛び込んできた。
「こ、これは……なんで、ダンジョンが……!?」
記事に載っていたのは、紛れもなく——ダンジョン・オブ・プリズン。通称ダンプリの舞台でもある、巨大構造物『ダンジョン』だった。