序章1 月に呪われた者
「その月を見たとき…
三崎 亜耶愛。私はごく普通の女性だと思っていた。勉強だって、別段出来なかったわけでもないし、一応大学にも入って、2年目のキャンパスライフを謳歌している。美人ではないのは少し残念なのだが、
不細工でもない。今までの学校生活でも、特段大きい問題が起きたことはなかった。私の周りは、実に
平和だ。
…いや、平和だったと言うべきかもしれない。今、私のごく普通の人生が消えようとしている。
「あなたの体の一部が失われていって…
勿論、ああいう風になりたいとか、もっとこうなりかいとか、思ったことは少なくない。友達の恋愛事情を聞いた時、人知れず、泣いたこともあった。でも、もうこんな事も思わないんだろう。
「死に至る。」
「ひっ」小さくみっともない声を上げて震える。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね…」
暖かい感触と共に母に抱きしめられる。かと思ったら、生ぬるいものがひたひたと滴り落ちてきた。
母の涙だった。
「ふう」私は窓から、下に広がる東京の景色を眺めていた。ここは都心の高層マンションの上層部。今日23歳になった私、三崎 亜耶愛は3年前からここで独り暮らしをしている。このマンションの家賃はなかなかお高いものなのだが、私はそこらのコンビニでアルバイトをしているだけだ。本当は安いアパートで良かったし、きちんと会社かどこかに勤めたかった。
しかし、私の両親はそれを良しとしなかった。それは何故か、何となくわかっていた。もうすぐ死ぬ娘には少しでも、良い生活を送って欲しいのだろう。
ああ、桜が小さく、くすんで見える。人や車がごみのように、ごった返している。
私もこのうちの一人なら、死んでも何事もなかったかのように、消えるのだろうか。
ああでも、死にたくない。でももう、死んでいてもおかしくない。
今生きているだけで、奇跡なのだろう。
「はああ」盛大にため息をついて、また考える。
20歳になったばかりのころ、母が泣き泣きおしえてくれたこと、すぐに信じられなかったこと、やっと解った時に受け入れなければいけなかった事。
ー母の、か弱い声が耳に蘇るー
「あなたは『黒月の月導者』」
「なに、それ、」
聞き覚えのな全く無い単語に理解が追いつかず、素っ頓狂な声で聞き返した。
「月にも色々な姿があって、人間を少しずつ取り込みながら、存続しているの… 取り込まれる人間はランダムに決められて、それが、『月導者』で…
「何それ、お母さん、ふざけてんの…」
あまりにも有り得ない話で、ドッキリだと一瞬思った。そしたら怒りが込み上げてきて、物凄い低い声が出た。しかし、
「ふざけてるわけないでしょ!!!」
母が叫んだ。滅多に怒らないあの母が。そこには父もいたが、もう父の存在などなっかた。
母がぶるぶると震えている。
「お母さ…
「いいから、ちゃんと、聞いて、お願い、だから」
「……」
「いい、人間を取り込む月には3つの姿があるの。 満月、赤月、黒月。そして、月導者はそれぞれ世界に3人存在する。あなたはそのうちの『黒月の月導者』。それになった人は、20歳からその特定の月を見るようになる。その月を見た時、病気になったり、記憶喪失になったりして、あなたの体の一部が失われていって、最後には死に至る。そして、跡形もなく消え去って……」
「もういいよ」こんな事考えるのは良くない。
私はポツリと呟いて玄関に出た。
そういえば、何故母はそのことについて詳しかったのだろうか。
そもそも、死んだあとに跡形もなく消えるだなんて、未だによくわからない。骨も、何もかも、いや、存在自体が消えてしまうのか…?
ああ、やっぱりこんな形で苦しんで死にたくない。 何で世界に3人という中に選ばれてしまったのだろう。
…きちんと終止符を打ったはずの思考回路がまた回り始めてしまっていた。いやな想像はやめよう。
と、言ってもまた、答えの分からないことを何回も考えてしまうのだろう。もう中毒症状みたいなものなのかなぁ。こんなことで中毒になるなら、麻薬でもやって中毒になるほうがよっぽどマシだ。
楽だから。 でもまた親に迷惑になる。…まったく困った娘だな、我ながら。
家族もいて、恋人がいたら、完璧だった。でもそんなのは、しょうもない人生シミュレーションゲームだったなと思う。しょせん、そういう ‟定め” だったのだ。
理不尽にも「月に選ばれ、導かれるもの」なのだから、しょうがない。
私は鼻で笑う。
気分転換のつもりで外に出た。そのままエレベーターにのって、1階に降りる。人や、建物がやけに大きく見えて、少しびびった。
しばらく歩いて、少し薄暗い裏路に入る。いつもの散歩ルートである。
両肩に灰色の無機質なビルや雑居ビルの壁が迫ってくる。都心というのは明るすぎるから、このぐらいが丁度いい。
……あれ? 足が止まった。何だかいつもと違う。なんだろう、道はあっているはず。
何秒か考えて、違和感の正体に気付いた。一本道の分かれ道に、いつもは無いはずの道があったのだ。
覗いて見ると、東京の裏路のはずなのに、緑が茂った空間があった。
植物がまるで ‟生きている” みたいだった。いや、確かに植物は生き物だけれど。
そういう次元じゃない。 空間という空間の壁に張っているその姿は、今にも動き出しそう、というか、ちゃんと肺で息をしているみたいだった。
差し込んでくるはずもない柔らかな木漏れ日が、ちらちらと私を嘲笑うかのように揺れている。
「え…」
絶対おかしいのに、それは私を導いているみたいで、吸い込まれるように、その空間に足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「うっ」
空間が、視界が、何重にもぶれた。植物が体にまとわりついて、重力と共に地面に引き込まれる感覚がした。
一瞬すぎて、よく分からず、記憶が途ぎれた。
「う…」目を開く。
「…は、え?」目を疑った。
そこには、どでかい中世ヨーロッパ風の城がそびえ立っていた。
「おはようございます。」
どこからか「カランコロン」と心地よい声が聞こえたとおもって、見上げると、金髪の青い瞳を持った美しい女性が私を見下ろしていた。